眠りの魔法使いの倒し方

浜中円美

序章 

 轟轟と、体の芯まで震えさせる重低音が響く。

 自分の呼吸を数えることだけで、自分がまだ生きていることを認識する。

 絶望しかなかった。

 

 学生の身である己に出来ることは、限られていた。

 腕の中にある、子ども。小さな命を恐怖から、残酷から、守ってやること。

 この子に不安を悟らせてはいけない。心臓の鼓動よ、止まれ。


 空船の外は、雷の道が未知なる先へと伸びている。

 死体の色のような紫色、いや青白いというべきか。

 表現できる言葉のない知らない色。

 どちらでもいい、不吉な色の煙の中を、船は突き進んでいた。


 世界的な感染症の広がりと、虚無の海に飲まれ、ヒトの文明は終わりを迎えた。

 空船と形容したこの巨大建造物は町一つ以上の大きさを持つらしい。そのことを教えてくれた大人、名前も知らないその人は虚無に飲まれ、もういない。

 外の煙、形容しがたい常に形を変えるそれ、虚無は隙あらば自分も飲み込んでやろうと狙っている。あざ笑う目、大声で威迫し心を折らんとする大きな口、そこから除く官能的な舌と、鋸のような牙。どれもが、「お前はもう、終わりだ」と追いつめてくる。



 迷子を追って、気が付けば空船の外装部に出てしまっていた。

 すぐに内側に引き返すべきだった。

 子どもを捕まえて、辛うじて足を引っかけられて、背中で踏ん張れるところを見つけた時にはもう遅かった。僅かな所作で外に蠢く虚無に目をつけられてしまってはいけない。そう思うと動けなくなった。何度も目が合い、何度もすれすれを禍々しい爪が掠めていった。


 一際大きく煙が変化する。金色と赤の目玉がぎょろり、と煙の中で動いた。高速運航する空船はすぐにそれを引き離す。


 まずい、と思った。今一度、今度は嘲笑を湛えて目玉が、間違いなく自分と目を合わせた。追ってきている。耳障りな轟音が、足音のように定期的なものに変わった。


 雷の道を縁取り、鉄条網のように空船を守っていた雷をこじ開け、おぞましい数の手が伸びてきた。ああ、終わりか。仕方ない、ごめんね、名前も知らないあなた。



 視界が飛んだ。光に覆われる。

 閃光と、遅れて響く、空を真っ二つに裂く音。

 あらゆる喧騒が一瞬にして消し飛んだ。

 続く、失った腕への怒りの咆哮。もう一度、閃光。


 巨大な姿が苦悶の表情らしきものを見せながら虚無の中に消えていった。

 そうしてようやく、自分が断末魔のような悲鳴を上げていることに気付けた。

 その目に入る、空。違った、空色の竜の姿があった。


『逃げなさい』


 確かにそう聞こえた。

 自分の悲鳴が、呼吸に変わった。はっきりと、聞こえた。逃げろと。逃げねば。

 気持ちが纏まる、足が動く、立てる! 内側に向けて、駆けた。


「たすけてくれてありがとう! かいじゅうさん!」


 腕の中の子どもが自分の頭越しに、伝えてくれた。

 そうだ、お礼を。踵を返す。


 息を吸い込むと、はあ、はあ、と。息が急く。

 空色の怪獣、翼を羽ばたかせる竜は目を細め、にやりと笑ったように見えた。ひゅう、とだけ風の音を残し、空船の下へ降りていった。

 

 立ち尽くす自分に、

「おねえちゃん、ないてる?」

「泣いてない。大丈夫」

 そう返事をして、そしてやるべきことも思い出す。

 逃げねば。生きねば。生かさねば。




 鱗の隙間のようなところ、外装部から船の内側に逃げ込むと、子どもは腕の中から抜け出して、手をつないだ。


『何の騒ぎよ、派手にやったわね』


 女性の声だ。耳に手を当て、足を止めた。

 子どもはきょとんとして自分を見上げている。


『少々厄介なのがヒトの幼体に目を付けたらしい』


 精悍な男性の声が返す。


『仕留めた?』

『どうだろう。お前の破壊に比べて私のはちょっと驚かすだけだろうし。警戒しておいてくれ』 


『了解。ちょっと騒ぎになったから、フィン大兄から叱られると思うゾ』

『弁護を頼むよ、カーネリア』


 声が遠のいていく。


「おねいちゃん、おねいちゃん」


 制服の袖を引かれ、我に返った。

 周りを見ると、座っていた大人が立ち上がり、皆、同じ方向に向かっている。

 そこに自分も歩を合わせた。




 空船の甲板にあたる、開けた広間に千人ほどの人が集まっていた。

 

一つ高いところに、巨大な姿がある。一角獣のような捻じれた角を持つ、翠玉石の鱗の竜だ。うぬぼれではなく、自分の姿を見つけるや否や、咆哮を上げた。


『そこの女。俺の元に来い。俺の声が聞こえているな』

「はいっ」


 咄嗟に答えた。次の瞬間、身体が浮き上がったような感覚を覚え、気が付けば緑の竜の傍らに移動していた。きゃあきゃあと、手を繋いでいた子どもがはしゃいだ。


『これからお前達に話をする。声の大きさはこれくらいでいいか。答えろ』


 気持ちの整理をする前に、竜が問うた。


「少し大きいと思う」

『これでどうだ』

「それでちょうどいい」


 ふん、と竜は鼻から僅かに蒸気を出した。そして人々を見下ろし、宣言した。


「神に見捨てられたヒトの子らよ。故あってお前たちを救った。

 俺はフィンブルヴェト・ビュルム。滅びたくなければ俺の言葉を受け入れろ」


 集まった人々からの反応はない。

 

 先程までの、頭に響いてきた声ではない。

 みんなにも、聞こえてはいるはずだ。


「傅け。は、違うか。では頷け。それがお前たちの了承の意思表示であろう」


 まるで機械のように、広場の全員が正しく頷いた。


『おや、兄さんの期待していた姿と、ずいぶん変わってしまったようだね。まるで木偶だ』


 気流を起こし、青の竜が壇上に降り立った。さっきの、空色の竜だ。


神様パパに捨てられたら、落ち込んでこんな感じになるんじゃないの?

 かわいそ』


 同じく、赤い竜が隣に着いた。

 二人の竜の感想に、緑の竜、フィンは嘆息で答えた。


「ひとときは支配者としてお前たちを新天地まで導いてやろう。

 俺からお前たちに命じることはただ一つだ。生き残れ」


 群衆の反応は鈍い。木偶人形、言い得て妙だと思う。


「私……君らから見て、蒼い竜だ。そうそう、今こちらを見たそこのキミ、正解。

 私の名はフレスアルタ・ハルコン。ヒトなら幾度か、世話役で使役したことがある。執政として君たちを支えよう」


 一度、反応を伺うように見まわした。

 多分、使役という言葉に抵抗が無いかの確認をしているのだと思う。


「法は六法全書だったか? 要は殺さず騙さず犯さず盗まず酒を過度に飲まず、ってこと。君たちが使っていたものをほぼほぼ流用でいいんじゃないかな。早めに君たちの文明が取り戻せるよう、務めさせてもらうよ」


 温和な口調で青い竜が続ける。ちら、と横目に小さな影を捉えると


『無事で何よりだ』


 小声で、自分と子どもにも声をかける。


「おひげー」


 子どもが手を伸ばし、蒼い竜の髭を引いた。


『あっはっは、やめてね、八つ裂きにして食べてしまうよ?』

『ハル。威厳を損なう真似はやめておけ』

『幼体と仲良くしているところを見せれば彼らは安心する。哺乳類はわかりやすいからね』


 子を持つ母を始め、幾らか空気が弛緩したように感じた。


「そうか。まかせる。聞け、ヒトの子よ。この赤い竜はカーネリア。お前たちをあらゆる害悪から守ってくれるだろう」

『あれっ、私はアイサツなし? 超コンゴトモヨロシク、チョーKYって感じー』


 赤い竜が低く唸った。


『うん、カーネリアはカッコよく咆えてくれるのが一番いいと思うよ』


 ハルコンは目を細めて笑った。


『わかった。がおー!』

 

 足元が震えるほどの咆哮。

 わあっ、と人々から歓声が上がる。

 膝をつき、涙を流すもの、家族と抱き合うもの。


『実に単純だ』

「気を抜いてはならぬ!」


 フィンが一喝した。


「崇拝は構わん。ただし、依存は許さん。俺がお前たちを救ったのは、お前たちが類まれな純粋の持ち主であり、神の現たるその身に宿した可能性を持っているからだ! ゆめ、忘れるでない!」


 その宣言に、まるで機を合わせたように、煙が晴れて空が広がった。

 虚無の中を、空船が抜け切ったのだ。


 しかしそこは人々の知る空ではなかった。


 闇の中に、淡く輪郭だけの黒い太陽があった。

 そして、地面では百足の様な多足の巨大な竜が空を見上げている。


『お前には見えていよう、ヒトの子よ。星の目を与えてやった。その姿を俺に伝えろ』


 不思議な感覚だった。まるでスマホの画面でも見ているかのように、その悍ましい多足の竜の姿が頭の中に浮かんでいた。


「空船よりも巨大な、白い竜がこちらを威嚇していて……。虚無の煙のような霧を体から出していて、大地は荒れ果てて、とても人が営める場所には見えません」

『あーあ、あなたたちって、トコトン神さまの当たり悪いわね。やっと着いた場所が、こんなところだなんて!』


 カーネリアがのどを鳴らして笑った。


『でさあ、どうするフィン大兄い? アレを殺すくらいで灼熱破を撃ったら、たぶん地面抉れて無くなっちゃうけど』

『そこはニンゲンに討伐させたらいいじゃないか。彼らにはまず、導いてくれる同族の英雄が必要だと思うんだ』

『よかろう』


 フィンはこちらに向き直り、まるで婚礼の儀式のように前足の爪を差し出した。


『女。俺の持つ竜語魔法をすべてお前に授けてやろう。始まりの魔術師・百識の魔術師として、英雄を導き、国のために働き、我らのために尽くせ』

「おー、まかせて、おうさまー」


 子どもが手を伸ばした。その胴に青い尾が巻き付いた。


「君はこっちね。お母さん探そうか」

「うん! あなたのせなかにのりたいわ! すぐにみつかるきがする!」

『あはは、竜熱病で死ぬか、雷に打たれて死ぬか、今喰われるか選んでみる?』


 そのやりとりに、自分の口から思わず笑みがこぼれた。


『興が削がれたか』

「いいえ、是非もなく」


 震えもなく、呼吸の乱れもなかった。誰に教わったものでもなく、片膝をつき、婚礼にて指輪をはめるが如くに、その爪先に手を伸ばした。


『我ら竜族の権能、‘神殺し’の銘と共に。俺の半身として能く仕えよ』  


 黒の太陽が静かに闇に沈み、薄れていく。

 変わって血のような朱の太陽が浮かび上がってくる。


 

 黒の獅子と、太陽の仔の入れ替わり。 

 これがこの世界でいうところの、夜明けであった。



 黎明。


 それから、幾許も無く、新しい世界に、新しい文明が生まれた。


 ヒトは悪竜を追い払い。

 朽ちた大地に少しずつ、少しずつ順応していき。町が出来て。

 新しい命を育み、そして。


 新たな災厄を迎え入れようとしていた。

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