救世主にはなれないけれど
笹原はるき
プロローグであり、エピローグ
夢を見ていた。明晰夢というやつだ。瞼の内側を見つめているみたいに、白いのか黒いのかよくわからない世界がそこにはあった。
遠くから、女の子の泣く声が聞こえてくる。惹かれるように声の方へ意識を向けると、その声は急激に近くに寄り、瞬く間に周囲の景色が変わる。
視点は、背丈が縮んだみたいに少しだけ低い。踏みしめた土の感触や、聞こえてくる音がやけに
声にも、場所にも覚えがあった。
わたしの足元にうずくまって泣いているのは、ララ。わたしと同じ孤児院で暮らす、歳の近い小柄な少女だ。
場所はおそらく、孤児院の裏の森。子供の立ち入りが許された浅い場所で、振り返れば整えられた道と教会堂が目に入るはずだ。
何度か見た夢だったから、すぐに気がついた。これは数年前、ただ同じ屋根の下に暮らすだけの他人だったわたしとララが、友達になった日の記憶だ。
「……どうしたの」
わたしの身体が勝手にララに話しかけた。記憶を再生するだけの夢だからだろう、手足の自由はきかない。
その日、偶然泣いているララを見つけたわたしは、彼女が怪我をしていないことだけを確認して、その場を去るつもりだった。そのあと大人に声をかければ、大抵の問題は解決する。
親しいわけでもないララを相手に、人見知りのわたしが出来ることは、そう多くなかった。
それなのに、ララがあんまり悲痛な声で泣いて、はちみつ色の瞳が零れ落ちそうなほどぼろぼろと涙を流すものだから、わたしはなんだか放っておけなくなって、声をかけたのだ。
森の中がほんとうに安全とは言えないから、なんて自分に言い訳して。気付かれなければ、そのまま去ろうと思いながら。
「……ぼ、ぼうしがね。わたしの、ぼうしがぁ……」
わたしの声に、ララは一瞬だけ驚いて泣き止んで、わたしに何かを伝えようと話し出して、それから思い出したようにまた泣き出す。
わたしに伝わったのは、ララの涙には彼女の帽子が関わっていることと、震える手が指した木のことだけだったけれど、事情を察するにはそれだけで十分だった。
わたしは知らないふりをしてその場を離れるタイミングをすっかり見失った。泣きながらわたしのスカートの裾を握りしめる小さな手を振り払えないことからも、それは確かだった。
当時のわたしは泣いている女の子を無視出来ず、もっと言えば、ララの手を振り払うと後で大人に怒られるかもしれないとも思っていた。
泣いている子供に冷静さなんてありはしないことを、わたしは経験から知っていた。大人を呼んでくると説明しても、手を振り払ったことを叩かれたと誤解されたこともあったのだ。
それにララはいつも子供たちの中心にいる女の子で、わたしは大人にさえ遠巻きにされる変な子供だったから、どちらの言い分を大人が信じるのかなんて、当時のわたしには考えるまでもなかった。
困って、困り果てて、緑の茂った木を見上げる。目を凝らせば、木の隙間から風になびく桃色のリボンが見えた。交流のほとんどないわたしですら見覚えのある、いつものララの帽子に違いなかった。
同時に、空からはらりと、黒色の羽が落ちてくるのが見えた。はっとして帽子のまわりを見回せば、1羽の黒い鳥が目に入る。
奴は孤児院の周りに生息していて――ヒラヒラしたものを好む。
ララの帽子のリボンは、まさに狙われる対象だった。
「……シスターには、秘密ね」
ララの泣き声にかき消されそうなくらい小さな声でわたしはそう言って、帽子を見つめた。風に揺れる葉がやけに現実的で、当時の感情を呼び起こす。
「そよ風よ、吹いて」
声に少しだけ
目を瞑ったせいで見逃してしまったけれど、突然の風に驚いたのか黒鳥は離れていったようだった。少なくとも目の届く範囲には見当たらない。
所々、枝にひっかけたのか小さな傷はあったけれど、桃色のリボンのついたララの帽子は無事だった。
「すごい。アナ、すごいわ、すごいっ。アナにも、神様の奇跡が使えるのね!」
そっと汚れを払って手渡せば、ララは手を叩いて喜んだ。光を反射して輝くはちみつ色はいまだにうっすら潤んでいたけれど、それ以上涙があふれてくることはなかった。
わたしが使ったのは魔法で、神の奇跡と呼ばれるものとは別物だったけれど、とくに否定はしなかった。説明が面倒だったし、神の奇跡のほうが、わたしたち孤児の世話をするシスターも扱っていて馴染みがあったから。
このとき、わたしの名前を知っていたのだな、と思った事を覚えている。当時のわたしはほんとうに、人付き合いが下手だった。
しかし、事はそれだけでは終わらなかった。
鳥の羽ばたく音がして、1枚、2枚と黒い羽が落ちてくる。息を飲んで見上げれば、いつの間にか戻ってきた黒鳥が、獲物を見る目でじっとこちらを見つめていた。
黒鳥には自分のものとそうでないものを区別する習性がある。だからその日までララが被っている帽子に手を出したことはなかっただろうし、自分のものを他者に奪われることも許さないのだ。
黒鳥は魔鳥に分類される――つまり、それなりに知性のある鳥だった。
わたしはララの帽子が、風か何かで飛ばされたものだと思っていたけれど、それは間違いだった。考えてみれば、他に障害物もある森の中で、風で飛ばされたにしては高い場所に、帽子はあった。
きっとララが被らずに置いていたかした帽子を、黒鳥が誰のものでもないと判断して、
わたしはララの手を取って駆け出した。
幸い孤児院はすぐ側で、その横の教会堂に逃げ込めば魔鳥は入ってこられないはずだった。
森を抜けて、あと少し――というところで、ララが転んだ。唐突に走り出したわたしに着いて来られなかったのだろう、それに片手には帽子を握っていて、走りにくかったのもあったかもしれない。
ともかくララは私の少し後ろで転んでいて、黒鳥はララの手に持つ帽子を狙っている。
狙いが帽子だったとしても、黒鳥の鋭い嘴でララの手が傷つくことは想像に難くなかったし、帽子が奪われたと知ればララがまた泣き出すのも間違いなかった。
それでも、わたしにはどうすることも出来なかった。ララが怪我をしたとしたら、わたしが余計な手出しを――魔法を使って帽子をとるなんてことを――したせいだとも思った。
足がすくんで、ララを立ち上がらせることも、黒鳥を追い払うことも出来ないまま、ぎゅぅと目を瞑る。
「何をしているのっ」
鋭い声にはっと目を開ければ、黒鳥とわたしたちの間に薄い膜が出来ていた。結界。シスターが扱う神の奇跡のひとつだ。黒鳥はこれで、こちら側には来られない。
それから孤児院の方から駆けてきたのはやはり、修道服を纏った女性だった。
孤児院の子供が毎年言い聞かされるだけあって、よくある出来事なのだろう。黒鳥を目にしたシスターは迷いなく、座り込んでいたララの手からそっと帽子をとって、被せた。
黒鳥ははじめ、結界の向こう側からじっとこちらを見つめていて諦める様子は無さそうだったが、帽子がララの頭の上に収まると、すっかり興味を無くしたように去っていった。
「……2人とも、お話を聞きますから着いてきなさい」
シスターの声をトリガーに、世界が歪む。夢のはじまりみたいに景色が遠ざかり、また近づいてくる。
場面が切り替わった。部屋の中だ。わたしはテーブルに対してくの字に並べられたソファにシスターとそれぞれ座っていて、ララは居ない。
たぶん、事情を聞かれてララが解放された後。
わたしの秘密の約束はララにきちんと届いていたらしく、彼女は精一杯、魔法の使用を秘密にしようとしてくれた。しかし口裏合わせもしていない子供の嘘を見抜くことなど、熟練のシスターには容易かったようだ。
結果として、ララは一旦解放されて、 わたしは
当時、わたしは魔法を勝手に使用してはいけないと約束させられていた。誰にでも使える力ではなかったから、もっと言えば魔法を使える他人なんて、魔法を教えてくれるブラザー1人しか知らなかったから、使えなくとも困ることは無かった。
使用を許されなかった理由は簡単で、わたしがまだ10にも満たない子供で、善悪の判断もつかず、大人が認められるほど魔力の扱いが上達していないからだった。
魔法は子供に持たせるには大きすぎる力だ。事故で人の命を奪うことだって珍しくない。
わたしはそれを理解していたし、わざわざ大人を怒らせてまで、他人を傷つけてまで魔法を使う必要を感じなかったから、事故を除いてほとんどその約束を破ることは無かった。
少しだけ精神が早熟だったわたしには大人の気持ちがそれなりに理解できたし、その日もきっと叱られるだろうと思っていた。
しかし予想に反して、シスターは決してご機嫌とは言えないものの、頭ごなしにわたしを叱り飛ばしたりはしなかった。
柔らかいソファに沈みこんで、シスターに促されるまま、記憶の中のわたしは胸の内を吐き出した。
ララの手を振り払って大人に声をかければ魔法を使うまでもないはずで、それを理解していたこと。
風魔法は使い慣れているし、そよ風なら炎なんかと違って大事にはならないと思ったこと。魔法の制御が甘く、事故に繋がる可能性も分かっていたこと。
黒鳥の姿を見つけて、取られる前に早く帽子を取り返してあげないといけないと思ったこと。断片的な情報で分かった気になって、失敗したこと。
わたしが余計なことをしなければ、ララは怪我をしなかっただろうということ。
それでも。
「……ララが、泣き止むと、思って」
わたしが自分の力で、ララの涙を止めてあげたかったこと。
孤児に魔法が使えるのは、おかしい事だ。魔法使えるだけの魔力は高貴な血筋にしか現れず、魔法が使える子供を貴族が捨てることは普通ない。
願うだけで叶ってしまうその力は、考える力のない子供に当然不相応で、それが原因で共同体から孤立するくらい危険だった。
きっとわたしは、自分の魔法で人を助けられることを、認められたかったのだと思う。
シスターは余計な相槌をせず、ただ頷いて聞いていて、最後にきっちりわたしを叱った。それから不用意に魔法を使うことに関して釘を刺され、魔法訓練の量も増えたけれど、ララの帽子を取ってあげたこと――手段は置いておいて、積極的に人助けをしたこと――に関しては、丁寧に褒められた。
それまで孤児院で明確に孤立していたわたしが、他者と歩み寄る姿勢をみせたことに、何か思うところがあったのかもしれない。今ならそう思う。
再び世界が遠ざかり、今度はぼんやり意識が薄れていく。夢から覚めるのだ、と思った。
遠くから、女の子の声が聞こえる。
「――ナ、アナ。ねぇ起きて。起きてってば」
体を揺さぶられて重い瞼を持ち上げると、こちらを覗き込むはちみつ色の瞳と目が合った。夢の中と変わらない、透き通った綺麗な色だ。
木陰で眠りに落ちて居たらしい。葉の隙間から差し込む光が眩しくて、何度も瞬きしながら、ぼんやりララの瞳を見つめた。
「寝ぼけてるの? さてはまた、おかしな夢を見たんでしょう」
くすくすと笑う笑い方も、顔立ちも背丈も少し大人びた。帽子には変わらず桃色のリボンが着いているけれど、思えば、あれからもう5年は経った。
「……今日は、普通の、昔の夢」
「あら珍しい。わたしの夢かしら」
「ふは、正解」
自分で言ったくせにララは少し照れて、黙り込む。それから2人で見つめ合って、笑いだした。
風に吹かれて木の葉がひとつ、舞い降りてきた。
救世主にはなれないけれど 笹原はるき @iris_azami_
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