傷口は藍色

飯田華

傷口は藍色

 まるで、海底を泳ぐ深海魚が深呼吸でもしているかのようだった。

 五限目の体育の授業。体育祭の種目である学年対抗リレーの練習の最中、その彩りはふいに現れた。

 高く澄んだ秋空の下、雲一つない天色に立ち昇るそれは深い藍色で、姿かたちは細かな泡のように見える。けれど、どれだけ細かくとも泡の色合いは鮮明で、立ち昇っていく間、私はくっきりと、一粒一粒の輪郭を捉えることができた。

 空の色彩に負けじと、確固とした存在感を放つ藍色。

 いったいどこまで飛んでいくのか、ぐんぐんと高度を増していくそれを眺めているうち、つい左手を伸ばしてしまっていた。

 届くはずなどないのに、それでも触れてみたいという願いが先行して、行動に現れる。

 人差し指の先が空を擦り、泡を拭い取ろうとしていた、そのとき。

「だれかっ! 保健室の先生呼んできて!」

 鋭い声色によって、私は現実に引き戻された。

 咄嗟に手を引っ込めて地上に視線を下ろすと、グラウンドに引かれたトラックのちょうどカーブに差し掛かったところで、一人の女子生徒が左足を両手で抱える形で蹲っていた。

 大方、転んだのだろう。遠目でも分かるほどに表情を歪ませ、苦痛に耐え忍ぼうと下唇を噛み締める姿を見ると途端に背筋が冷えて、産毛が逆立つ感覚を抱いた。

 膝小僧に浮かんだ、赤黒い色合い。どくどくと血の漏れる、グラウンドの砂粒がざらりと塗された傷跡は見るからに痛そうで、つい目を細めたくなってしまう。

 痛そうだ。

 痛そう。

 …………だけど。

 生徒が連れてきた保険医が転んだ彼女に肩を貸し、保健室へと誘導していくのを視界の中央で捉えながら、私はそんな、心配に似た焦燥とは全く異なる感情を抱えていた。

 すでに見えなくなっていた傷跡。

 こちら側に背中を向けている彼女が脚を引き摺るたびに、そこから藍色が振りまかれ、宙へと拡散していく。散り散りになった泡は依然として上を目指して、私だけの視界を彩った。

 他の生徒たちは、泡になんて見向きもしていない。

 私だけに、見える泡。

 幼少期の頃から見慣れていたはずの光景は、なんだかいつもと違っていて。

 ずっと見惚れていたいなんて、願ってしまった。

 藍色の残滓を目で追っていると、彼女が何かに気づいたのか、ぱっとこちらを振り返った。

 振り注ぐ日差しの中、周り全ての輪郭が淡くなっても、彼女の濡れた視線がこちらにすっと伸びてきているのが分かった。飛び交う藍を掻き分けて、透き通った虹彩がくるりと光を帯びる。

 視線が交錯したような、そんな気がした。

 もちろんそんなのはただの錯覚に過ぎなくて、彼女はすぐさま向き直り、保健室の方向へと去っていった。

「…………気のせい、だよね」

 誰にも聴こえないようにぽつりと呟いていると、騒動が一旦は収まったグラウンドに再び喧騒が満ちていく。

 彼女を心配する声。すでに彼女のことを意識から取り出し、次に誰がコーナーを走るのか相談する声。砂煙と共に飛び散る足音。近隣の小学校から響く授業終了のチャイム。

 クラスメイト達が立てる音と、私の意識が切り離されていく。

 泡は依然として、空へと昇り詰めようとしていた。

 


 初めて自分の目が他人と『違う』ことに気づいたのは確か、幼稚園に通っていたときだったと思う。

 当時一番仲良くしていた女の子と一緒に絵を描き合っていると、その子が落書き帳のページの端で指を切ってしまった。

「いたっ!」

 鋭い悲鳴と共に手を引っ込めるその子の人差し指の先からは、ぽたぽたと血が滑り落ちていた。痛そう。率直にそう思った後に、ふと、立ち昇る気泡に気づいた。

 その子から湧き出てきた泡の色はくっきりとしたピンク色で、そのとき使っていたクレヨンのものとも異なる、けばけばしさを放つ色合い。人の身体から生まれるにはいささか色味が強すぎるそれに、私はつい後ずさってしまった。

「なに、これ」

 わんわんと泣いていたその子の指に絆創膏を巻き終わった先生にそう訊ねると、彼女は少し首を傾けた後、

「これって、なんのことかな?」

 と、私に優しい口調で聞き返してきた。

「これ、宙に浮かんでる、あわみたいなやつ」

「泡?」 

「あわだよ、飛んでるでしょ」

 私がどれだけ力説しても、指先で差し示しても、先生が私と同じように泡を見つけることはなかった。代わりに、「先生には見えないなぁ」と困ったように首を掻かれる。

 泡はしばらくすれば跡形も消えてしまって、後から女の子に「さっきのあわ、見えた?」と訊いてみても、「何言ってるの?」みたいに、怪訝な顔をされるだけだった。

 人生で初めて、他人と何かが決定的に『違う』ことを突きつけられて、そのときの私はひどく狼狽した。言い知れない恐怖もあったのだと思う。それからは泡が見えるたびに両親や周りの人に、「あれ、見える?」と大声で叫んで、そのたびに彼らを困らせていた。

 やがて小学校に上がって、同学年の子ときちんとした集団生活が始まっても、私の視界には泡がちらついていた。

 誰かの傷口が開くたび、私も口を開く。

 私の主張は、全くと言っていいほど真剣に受け止められることはなかった。

そりゃあそうだと、今では思う。誰も見えていない何かを目で追って、指差して、いちいち色の名前を叫ぶ子供なんて、私がもし自分の同級生だったら率先して関わろうとはしないだろう。不気味だとすら思うかもしれない。

 だから、小学校低学年の頃の私にはほとんど友達がいなかった。授業と授業の合間にほんの少し話す相手はいても、一緒に遊んだりする特定の友達とは無縁で、放課後の予定はいつも『家で本を読む』だった。

 そんな私を両親はひどく心配して、彼らに連れられ、しばらく病院に通院していた時期もあった。

「何か不安があるのか」とか、「心配事があったらすぐにお母さんやお父さんに言った方がいいよ」とか。幼い私に合わせ、意図的に解きほぐしたような口調で話しかけてくる病院の先生との時間はひどく退屈だった。

 不安とか、心配事とか、そういう類いのものじゃない。 

 誰かが怪我をすれば、自然と泡が立ち昇っていく。その光景は別に、私の心境が関係しているわけではないのだ。

 つたない語彙でそんな主張をしても、病院の先生は私の話にただただ「うん、うん」と相槌を返すばかりで、真に理解した風には到底思えなかった。

 受け流されている。

 幼い頃でもそれだけは理解できてしまって、私はそれから、不用意に泡のことを話すのをやめた。

 私は、頭のおかしい子だと思われている。

 小学校高学年からは途端に人の目が恐ろしくなって、どれだけ人の作った傷口から泡が漏れ出しても素知らぬ振りをしていた。浅葱色も、群青色も、たとえ泡の表面が頬を掠るほどの近さであっても、意識して視線を逸らす。

 それは、他人の痛みに対して不干渉の態勢を取ることと同じだった。

小学校を卒業して、中学校の三年を物静かに過ごして、高校生になった今も、傷口から漏れ出す泡の色彩の多彩さも、形状も変わらない。唯一変わったことと言えば、周りの人の怪我をあまり見なくなったことだろうか。



 図書室の空気は、いつも埃が舞っているのにどこか清潔感を感じる。

 静かだからだろうか。室内で動き回る人や物が少なく、漂う埃はどこかへ流れることなく滞留している。ゆったりとした空気感の中で、埃は自己主張をせず、ひっそりとその場に馴染んでいた。

 開かれた文庫本に落としていた視線を持ち上げ、一瞬室内を見渡した後、すぐにまた首を傾け活字に向かう。図書室の利用者数は今日も芳しくなく、図書委員としての仕事はしばらくなさそうだった。

 係のくじ引きで図書委員の紙を引いてしまった私は、一週間のうち水曜日だけ、放課後を貸し出しカウンターの奥で過ごしていた。

 といっても、別に仕事量は多くないし、家に帰ってもやることなんてないから苦に感じることはなかった。午後四時から五時半の間、ときおり貸し出しを希望する利用者を捌きながら、黙々と本を読み進める。そんな水曜日が一学期の初めからずっと続いていた。

 ぱらぱらと、紙面を捲る音がどこかしこからも聴こえる。それらをやんわりと聴き流しながら本に没頭していると、がらりと戸を開ける音が響いた。

 今日の利用者は少し多いから、貸し出し作業が忙しなくなるかもな。

 心の中でそうぽつりと零して、顔を上げると、

「ぁ」

 昨日見上げた藍色が、視界にちらついた。

 足音を抑えめにしながら、一人の女子生徒が貸し出しカウンターの前を通り過ぎていく。腰まである長い髪をまとめたポニーテールが、足を踏み出すたびにふわりと揺れていた。

 つい目で追ってしまって、けれど途中で不躾だと思い、すっと視線を逸らす。彼女はすでに窓際の席へ移動していて、参考書をぱらぱらと捲っているところだった。

 華奢ですらりとした後ろ姿をちらちらと盗み見ながら、頬杖を突く。貸し出し希望の生徒がカウンターを訪れても、間の抜けた応対しかできなかった。

 唯野七海さん。

 同じクラスの同級生である彼女とは話したことも、何なら目線を合わせたこともない。クラスの中心人物である唯野さんと、クラスで親しく話す人間がいない私。月とスッポンくらい立場がかけ離れていた。

 それでも気になってしまうのは、昨日の一件があるからだった。

 昨日の練習で転び、血を流していたのは、その傷口から藍色の雫を零れさせていたのは、他ならぬ唯野さんだった。

 思考にするりと割り込んでくる、深まった夜の色。決して目にはっきりと残る色彩ではないのに、それには私の心に直接訴えかけてくる何かがあった。

 もっと見ていたいと思うような。時間がゆっくり流れることを望むような。

 いつもは直視することを避けていた泡を、昨日は我も忘れるくらいに見入ってしまったのはなぜなのか。別に青系統の色が好きなわけでもないのに。

 昨日の夜、部屋のベッドの上で悶々と思い悩んでいた種が発芽する。じわりと、抱いてはいけない実感が頭をもたげて、ズキズキと脳の奥がひりつくようだった。

 気もそぞろに、放課後の時間が足早に過ぎていく。いつしか図書室に残っているのは私と唯野さんだけになっていて、そろそろ五時半。図書室を閉めなければならない時間帯となっていた。

 差し込む光は橙色を帯び、窓の向こうを一直線に薙ぐ地平線からは夜の影が見え隠れしていた。グラウンドで走り込みの練習をしていた陸上部も忙しなく撤収作業に準じている。

 私も帰りの支度をしようと席を立ち、文庫本を鞄に仕舞う。ずっと座り込んでいて皺の寄ったプリーツスカートを手で伸ばしていると、唯野さんも一段落ついたのか、窓際から「ふぅ」とため息が聴こえてきた。

 よかった。もし唯野さんが勉強に熱中でもしていたら、肩をトントンと叩いて「閉める時間ですよ」と声をかけなければいけないところだった。静かに胸を撫で下ろす。

 いつもの水曜日であれば、そんな声掛けもただの仕事として済ませられるのに。

 意識しすぎている自分に辟易しながらも、できれば近づきたくないというのが本音だった。

 近づけばまた、見たいと願ってしまうから。

 カーテン閉めなきゃ、と鞄を肩に背負いながら考えていると、夕日の撒き散らされた図書室にふっと浮かび上がる影があった。

「え」

 思わず驚きの声が漏れて、図書室の静寂がひっそりと潰える。細々と、風も吹いていないのにふわりと天井近くへと飛び散る泡の色を視界に入れた瞬間、ヒュッと喉奥が鳴った気がした。

 地平線より少し早めに、粟粒みたいな夜が視界に瞬いている。

 きれいだと、素直に思ってしまった。

 気がつけば足先は窓際の方を向いていて、滑らかに鳴る自分の足音をまるで他人事のように聴いていた。すたすたと、無意識が私と彼女の距離を詰める。

 そして、

「だ、だいじょうぶ……?」

 口から滑り出した言葉は、心もとない。そもそも何が大丈夫なのか、発言した私ですら理解していなかった。

 分かっているのは、唯野さんが傷を負ってしまったこと。ただそれだけ。

「え?」

 私の問いかけに気づいて、唯野さんがパッとこちらを振り向く。くくられた髪先が宙を舞って、煌びやかな光沢を軽やかに搔き乱した。

 そして、私の顔を認めた途端、すぅっと息を吸い込む。目をくるっと丸くして、その表情はいつもよりどこかあどけない。

 参考書をしまっている最中だったらしい唯野さんの左手薬指からは、ぽたぽたと赤い血が垂れていた。昨日よりも浅く、それでも鋭く走る傷口は痛そうで、薄っすら赤らんだそれを見ると自然と胸の辺りが浮き上がった。

 開かれていた数Ⅱの参考書のページ端が、傷口と同じ色に染められている。どうやら紙で切ってしまったようだった。

「よければ、これ」

 おもむろに鞄から取り出したポケットティッシュを唯野さんに差し出す。いつも仕舞い込んだままだったものを今、このときに差し出せたのはなぜなのか。訳が分からないまま唯野さんの手にそれが渡る。

「あ、りがと?」

 唯野さんの感謝は疑問形で、こちらを見上げる視線も少し曲がっていた。小首を傾げている唯野さんと、相対する。

 疑問に思うのは当然のことだった。なぜ自分が指を切ったことを即座に知られたのか。カウンターと窓際はそこそこ離れているから、千里眼の持ち主とでも思われたのかもしれない。

 気まずくなって、首筋にじんわりと冷や汗が浮かぶ。声をかけないほうが、ティッシュを差し出さないほうがよかったと、つい思ってしまう。傷のことで声を張り上げて不気味がられた過去が再燃して、後頭部に不快な熱が灯った。

 それから何も喋れず、ただ突っ立っているだけの私をよそに、唯野さんは赤く濡れた指をティッシュで拭った後、「ほんとにありがと! ちょっと待ってて!」と言いながらすくっと立ち上がり、引き戸の方へと走り去ってしまった。

 入ったときより幾分も騒々しい足音が響き渡り、後ろ向きに伸びていた思考がやっと橙色の空を捉えられるようになった。

 やっぱり、きれい。

 唯野さんが走り去った後の軌跡には、藍色の粒がところどころ飛散していた。指先でちょんとつついてみる。人差し指に突かれた泡は割れることなく弾かれ、最終的には図書室の天井にへばりついてしまった。

 泡には、触れたときの感触が全くない。視界には確実に触れたように映っているのに、冷たさも、暖かさも、輪郭と色合い以外の要素を感じることはできない。だからこそ、泡はただただ私だけに見える視覚的な現象なのだろう。

 泡に触れるのは本当に久しぶりのことだった。今までは目を背けてきたはずなのに、近くで瞬くそれから目が離せない。とんとんと藍色を天井近くに飛ばし続けていると、いつか星座くらいは作れそうだった。

 夜空と星の色が逆転したかのような、夕方の星座。

 私だけの空を夢見ていると、ガラガラと戸を開ける音が鼓膜を震わせた。

「なにしてるの?」

 伸ばした指先を畳むことも叶わず、唯野さんの不思議そうな声色が耳元を撫でる。

「ほ、ほこりが舞ってた、から」

 舞っていたからどうだというんだ。取り繕おうとして意味の分からないことを呟いてしまって、顔からどばっと熱が噴き出るようだった。

「あーたしかに。図書室って少しほこりっぽいよね。人がいない分、ほこりが場所を取りやすいのかも」

 唯野さんは机に置いていた鞄を背負い、こちらへくるっと振り返った後、

「一緒に帰ろうよ」

 気さくな笑みを浮かべながら紡がれた一言に、私は咄嗟に反応することができなかった。口の中から生温い水が喉奥を横切り、伝った角度に沿って背筋が伸びる。

「え?」

「あ、図書委員だからここ、閉める作業しなきゃなのか。手伝うよ。カーテン閉めていい?」

 今まで一度も話したことがないのに、唯野さんの言葉のフットワークは非常に軽い。矢継ぎ早というわけではないけれど、テンポがいいのか、聴き取りやすくて滑らかな声だった。

 私が「ありがとう」とぽつり返した頃には、図書室の程よく磨かれた床の半分は暗がりになっていて、唯野さんの手際の良さを実感する。足先の運びも軽くて、どんくさい私には少し羨ましかった。

 カーテンの方は唯野さんのご厚意に甘えることにして、私の方もパソコンの電源を落としたり、コードリーダをカウンター裏の収納棚に仕舞ったりして帰り支度を進めた。

 いつもは一人でやっている作業に誰かが紛れ込んでいるのも、同級生から話しかけられるのも新鮮で、毎週通っている場所のはずなのに、まるで来たことのない部屋で動き回っているみたいだった。

 カウンター周りの作業が終わり振り向くと、夕日の光源分引き算された図書室が見事に出来上がっていた。

「じゃ、帰ろっか」

「う、うん」

 前を進む唯野さんの軽快なリズムに、鈍重で運びの悪い私の足先が追いすがる。施錠した鍵を彼女と共に職員室に返しに行くと、「珍しいわね」と、司書の先生が私たち二人の顔を見比べながら口にした。普段よく、「あなた、友達はいるの?」と直球で聴いてくる司書の先生の反応に少し面白いものを感じて、心のうちだけで「確かに」と同意しておいた。

 玄関の靴箱に向かう途中、「これ、ありがと」と唯野さんがほんの少し薄くなったポケットティッシュを返してきた。私の隣に並び、意識してか、歩幅を合わせてくる。私より数センチ高い唯野さんの影が私をすっぽり覆って、窓から差し込む夕日の気怠さが若干和らいだ。

 背筋がすっと伸び、前後に手先を振る仕草もどこか精錬されている唯野さんを、気づかれないよう視界の端に薄く捉える。

凛としている歩き姿を見ていると、隣で歩くのを尻込みしてしまって、自然と肩と肩の距離が開いた。何を話せばいいのか分からなくて、そもそも一緒に帰っている意味すら分からなくて、私はひどく困惑していた。昨日、泡を見上げていたときの焦燥感、浮足立った感覚とはまた別の、人と関わることで生まれる違和感が思考をふつふつと埋め尽くしている。息が詰まりそうで、自分がパンパンに張り詰めた風船にでもなったみたいだ。

 しばらく歩いていると、前方から一人の女子生徒が駆け走ってくるのが見えた。先生に見つかれば咎められてしまいそうなほどの速度で。

「あ、唯野先輩っ!」

 通り過ぎると思っていた女子生徒は、唯野さんの顔を認めた途端、きゅっとローファーの底を床に擦らせた。すんでのところで立ち止まり、唯野さんと目線を合わせる。唯野さんも「よっ」と言いながら手を上げ、口角をじんわりと緩めた。どうやら部活の後輩らしい。

「今日の練習メニュー、ちゃんとこなせました!」

「おぉー、それはよかった。怪我人はいない? わたしみたいにすっころんだ子とか」

「大丈夫でした…………というか、先輩の方は?」

「ぜーんぜん平気、来週くらいには参加できそう」

 小気味いいテンポの会話の中で、『怪我』という言葉が唐突にちらつく。怪我とは、昨日できたもののことだろうか。

「しっかり休んで治してくださいね。もうすぐ大会もあるんですから」

「もちろんさ」

 それから一言二言言葉を交わした後、女子生徒は「部室の鍵返してきまーす」と言いながら去っていった。

「ごめんね、後輩と話してて」

「いや、うん。別にいいけど……怪我って」

 言外に、昨日の? という想いを込めた。ズカズカと他人の事情を訊くのは良くないことだと分かってはいても、舌先から零れ落ちる言葉を留めておくのは無理だった。

「ん? ああ、昨日体育のときに転んじゃって……ってか、見てたか。そのとき、足首をちょっとね。別に大事にはなってないんだけど、念のためってことで今日は休んだの」

「そうなんだ……」

 歩いているときは微塵もそんな風には感じなかったのに。

 昨日の、藍色にばかり目を輝かせていた自分が恥ずかしくなる。人の怪我のことで舞い上がっていたのは不謹慎だ。そんなこと、昔から分かっていたはずなのに自分の気持ちだけ先行させてしまった。

 ごめんと言いたかったけれど、それを言っても唯野さんには伝わらない。見えないものが見えるという壁がほんの数センチの距離でも隔たりを生んで、やりきれない。

 靴箱に着いて上履きを脱いでいると、唯野さんが若干手間取った手つきで左足の上履きを持ち上げているのが見えた。

 左足のくるぶしに巻かれた、灰色のテーピング。

 さっと目を逸らして自分の上履きを仕舞い、唯野さんと共に校舎を出る。

 罪悪感に似たものが足首に纏わりついて、ローファーの底がひどく重たい。怪我の余韻を感じさせない唯野さんとの差はどんどん開いて、校門をくぐる頃にはその背中は落ち行く夕日に溶け込みつつあった。急いで歩幅を広げる。

「ねぇ板橋さん」

「へ?」

 前を歩く唯野さんから唐突に名前を呼ばれ、素っ頓狂な声を上げてしまった。なんで名前を、と思ったけれど、唯野さんならクラス全員の、私のようなパッとしない人間の名前も空で言えそうではあった。私には到底無理だけれど。

「実はわたし、板橋さんに聞きたいことあったんだよね。だから今日は帰り、誘ったの。そういえば、板橋さんの家はどっちの方向? ちなみにわたしはぁー」

 こっち! と、唯野さんが前方を指差す。ちょうど私の家も同じ方向にあったので、私も指をそちらに向ける。

「よかった! じゃあ話せるね」

 快活な笑みは、傷口から漏れていた藍色とは対照的に、真昼の温度を切り取ったようだった。朗らかで、暖かい。はためくポニーテールの先が夕日に擦れて、夜の到来を待ち受ける街に一筋の影が生まれる。

 長細い影が、私の頬をくすぐった。

「板橋さんってさ、すごい周りのこと見てるよね……あ、別にじろじろ見てるって言ってるわけじゃないよ。見てるっていうより、見えてる、の方が正しいかな」

「……え?」

 唯野さんから言われた言葉は予想外のものだった。私が、周りのことをよく見てる? 意図的に泡から目線を逸らしている、私が?

「クラスでもさ、気づいたときに黒板の端の方消してくれたり、机の位置直してくれたり。些細なことにすぱっと気づけるってのが、わたしの、板橋さんに対しての印象」

「あ、ありが、とう?」

 感謝が疑問形になる。多分褒められているのだろうけど、自分自身のことを言われている実感が持てなくて、言葉がぶつ切りになってしまった。

 もしかしたら私は、泡のことから視線を逸らそうとするあまり、その他の色々に対して視線の先を休ませていることが多かったのかもしれない。

 それが巡り巡って人から褒められることに繋がるのは、どうにも納得がいかない。

 逃げの一辺倒が人に認められるなんて、とも思う。

 それでも。

 隣を歩く唯野さんの瞳を直視することができない。そこに映る自分の表情を見るのが怖くて、前ばかり向く。

 きっと今の私は、だらしのない表情になっていると思うから。

「で、さ。ときどき気になってたんだよね。板橋さんがどんなことに興味があるのか」

 興味。足先が自然と向いて、視線の糸を容易く縫い留めてしまうもの。

 さっきまで作り上げていた星座が、ちかちかと思考を照らす。

 道しるべになってはくれない光源の下、私は確かに笑っていた。

「陸上に興味があるのか、それとも」

 わたしに興味があるのか。

 夕暮れの街並みに唯野さんが落とした言葉は秋風に揺られて、それでもちゃんと私に伝わる。

「なーんてね」

 唯野さんは口角を緩めながら、歌うように笑い声を重ねる。声量だけでスキップするように、弾む声色がコンクリートに見えない足跡を残した。

「ほんとのところ、昨日じぃっとわたしのこと見てたから、走るのに興味あるのかなって。昨日の板橋さん、いつもと目の色全然違ったもん」

 昨日視線が交錯したのは、気のせいじゃなかった。それも、じっと見られていたことまで知られていた。全身にどくどくと血が巡って、指先に羞恥心が溜まっていく。

 けれど、それよりも気になったのは。

「色?」

 私は一体、どんな目の色をしてあの藍色を見ていたというのだろう。

 今度はちゃんと唯野さんの瞳を覗き込んで次の言葉を、色の正体を、固唾を飲んで待つ。

 すでに自分の家は通り過ぎていて、駅前に近づいていくたび雑踏の足踏みが道路の裾を這っていた。

 それでも鼓膜の震えは全て、唯野さんの一言に委ねていた。

「夜みたいな、深い色」

 息を呑む。

 初めて。

 初めて誰かに、理解された気がした。

 途端に視界が淡く歪んで、唯野さんの輪郭に靄がかかる。私一人分の足音がやんで、その代わり、季節外れの雨が頬を伝う。

 熱い。きっと、無色の涙。

「え、えぇ!? ちょ、板橋さん!?」

 唯野さんの狼狽が耳たぶを掠っても、一向に涙は止まらなかった。まるで水中に潜っているみたいに、どんどん周りの音が遠くなっていく。感情の洪水に呑まれた身体は不安定で、私はその場に立ち尽くして、しゃくり上げることしかできなかった。

 


「はい、どうぞ」

「あ、ありがと……」

 唯野さんから差し出されたペットボトルを受け取り、できるだけ深々とおじぎをする。もうすでに陽は落ち切っていて、街灯が活躍を見せる頃合いになっていた。

 突然の号泣をかましてしまった私を、唯野さんはおろおろしながらも面倒を見てくれた。今は二人で、駅近くの公園のベンチで腰を下ろしている。

 一応親に『図書委員の仕事で少し遅くなる』と携帯で連絡して、唯野さんの方へ向き直る。もう涙は引いているけれど、赤く腫れあがった目尻を他人に見せるのは憚られた。まぁ、後の祭りだけど。

「あのさ」

 唯野さんが、口を開く。声色はさきほどとは打って変わって静かで、人波の遠ざかった公園の静寂をより一層深くするようだった。

 木々のざわめきが、言葉と言葉の間をはっきりとさせる。

「さっきは変なこと言ってごめんね。わたしてっきり、板橋さんがわたしの走る姿に見惚れてー……って、なんだか自分で言うと恥ずかしいけど、そう思ってたから」

 唯野さんと、藍色の泡。

 視線を向けた先にあったのはその二つで、彼女には当たり前だけど泡は見えないから、もう一方を『私が興味を抱いたもの』として考えたらしい。

 唯野さんの走る姿。実のところ、昨日の記憶は藍色で塗りたくられているからはっきりと覚えているわけではないけれど、丁寧だな、とは思っていた。運動靴の先で地面を蹴り上げて、柔く吹いていた風を切り裂く。手足を丁寧に振りしきって疾走する横顔は端正で、静かだった。

 そうだった。

 私は泡が立ち昇る前、確かに唯野さんのことを見ていたのだ。毛躓いて転ぶ前の唯野さんの、走り。別に心を奪われたわけではなかったけれど、「きれい」だと思ったのは本当だ。

「…………あ」

 もしかしたら。

 ある考えが、脳裏の大部分を占める。それはとんとアベコベで、成り立つはずもない思い付きだったけれど、妙な説得力を持っていた。

 もしかしたらが、願いに変わっていく。そうであってほしいと、断定したくなるたびに瞳が潤む。

「板橋さん?」

 突然声を漏らした私の顔を、唯野さんが覗き込む。心配そうな顔で。

「唯野さん」

 もし、唯野さんを見たとき、泡に色が灯ったのだとしたら。

 記憶の底に沈んでいた彼女の疾走に、「きれい」を見出したのだとしたら。

「私、唯野さんに見惚れてたのかもしれない。たぶんだけど」

 はっきりとそう口にして、今自分がひどく恥ずかしいことを言い放ったのだと気づく。夜長になる前、未だ夏の余韻が肌を這う夜に、余計な熱が全身に走った。

「え?」

 唯野さんの困惑した表情が視界いっぱいに広がる。

 意味が分からない。伝わらない。そんなのは当たり前だ。だって、私と彼女では見えているものが違うのだから。

 でも、声に出した。 

 知ってほしい。

 そんな独りよがりな願いを持ったのは、随分と久しぶりのことだった。

「たぶんなんだ」

 そう言った後、にっと口角を吊り上げて笑う唯野さんの瞳には、夜の色。

 街灯のせいか、夜空に浮かんでいるはずの星座は、私たちの元には降りてこない。

 それでも私は、唯野さんの笑顔を見失わない。細々とした街灯の、乏しい光の下でじっと、彼女を見据える。

 もう視線は、逸らさなかった。

 

 

 

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傷口は藍色 飯田華 @karen_ida

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