1-3.アルズは肖像画への指摘に反論する
画家はモデルの姿を瞼の奥に焼きつけていく。肖像画を描くためだけではない。今生の別れとなるかもしれない妹分をしっかりと記憶するためだ。
この時代の人々は生まれた街とその近隣で一生を終える。外国へ行くのは他国を侵略する軍隊か、交易商人か、海外の政治や文化を修学する貴族の徒弟くらいだ。
(ペールランドか……。隣国とはいえ、そう簡単に行ける場所じゃない。仮に行っても、王妃にお目通りが叶うわけもない……)
見つめる視線の先で、モデルの頬にほんの僅かな朱が差す。画家は光の加減が変わったのだろう程度にしか思わない。妹分が兄に対して胸に隠し秘めている想いなど、兄は知りもしない。
絵筆の音が吐息のようにゆっくりと部屋に充満し、二人だけの時間が密やかに過ぎていく。
二度と戻らない、最後の穏やかな時だ。窓から差しこむ陽差しがフレデリカを包み、レースの金糸が儚く
しばらくしてから静寂を破るのは、アルズにとって唐突な騒音。だが、音の主からしてみれば何度も呼びかけた挙げ句の大声。
「描き直せ!」
「うわっ」
画家は絵筆とパレットこそ放さなかったが
背後に抗議の視線を向ければ、フラダ王国の王太子シヴァ・ノワールが眉を吊り上げていた。長いまつげが形良く縁取る瞳は、意志の強さに漲っている。貴族の娘にも見紛う金髪はさらりと背中で揺れ、成る程確かにフレデリカの実兄であると分かる。その美貌は、王子に懸想する娘を並べれば城壁を一周すると市井で冗談が広がるほどだ。
部屋着であるため服の構造自体はアルズの貫頭衣と大して変わらないが、生地は明らかに上等で、襟や袖に金糸を織り込んだレースがあしらってある。
王子も王女と同じように四年前までアッシュ家で育てられており、アルズにとっては兄貴分であり幼馴染みでもある。
「ようやく気付いたかアルズ」
「シヴァ! いきなり耳元で怒鳴るな!」
アルズが立ち上がる理由は、王族に敬意を払うからではない。兄貴分に頭上から怒鳴られないように、少しでも顔の位置を近づけようとしたのだ。
十七歳のアルズは身長百六十センチメートル。二つ齢が上のシヴァは百七十センチメートル。出会った頃から何年が経っても、身長差は一向に縮まらない。
「アルズ、作業に没頭しすぎて周りの音が聞こえなくなるのは悪い癖だぞ」
「いくら妹の部屋だからって、入る時はノックくらいしろよ」
「アルズ……。お兄ちゃんはちゃんとノックしたし、私が入っていいって言ったよ」
「え?」
「隣の部屋で控えている侍女に確認してみるか?」
「む……」
「集中していたのはいいことだが……。これは駄目だ。描き直せ」
「何故だ。確かに瞳の発色に手こずっているが……。自惚れたことを言うつもりはないが、他はフリッカの魅力を十分に出せているはずだ。何処に問題がある」
売り出し中の若手画家が食って掛かると、依頼主の息子は指さしながら一つ一つ不満の箇所を指摘する。父の工房で物心ついた頃から修行していた画家は、その全てに反論する。
「先ず、瞼を一重に直して全体を野暮ったくしろ」
「フリッカの瞼は形の整った二重だ」
「目は小さく、もっと白目がちにしろ」
「お前の目は節穴か。フリッカの瞳は大きくて美しいだろう。昨今、王侯貴族の間で人気が高いのは、ラベンスが描いた聖女アーリスのように幼くも気高い顔つきだ。まさにフリッカのような――」
「いいから、もっと暗い地味な色を使え」
「いいや、使うのはもっと明るく澄んだ色だ。瞳の青を再現できなくて、俺がどれだけ苦労していると思ってる! 手持ちの材料じゃ出せない美しさだ」
画家が我を通して反論すれば、蚊帳の外でモデルが顔を赤く染める。アルズの反論はことごとく、フレデリカの容貌を褒めていた。
「鼻をもっと大きく、唇を分厚くしろ」
「鼻も唇も整っている。シヴァ、お前はフリッカの綺麗な顔立ちを崩したいのか?」
アルズとシヴァは白熱して言い争うため気付かないが、少し離れた位置でフレデリカは首まで朱に染め、俯いたまま顔をあげられない有様だ。
「も、やめ……」
羞恥で震える声を兄達の大声がかき消す。
「いいから不細工に描き直せ!」
「何故だ! フリッカはこれからもっと美しくなる。だから俺は、あどけなさの残る今の姿を精確に――」
興奮して声を荒らげていたアルズだが、視界の片隅で何かが動いたため意識が逸れ、ようやく自分が何を口走ったか理解する。
(しまった……。これではシヴァ以上に兄馬鹿だ。王女に対して言うことではなかった……)
フレデリカは部屋を飛びだしてしまった。
アルズは開け放たれたドアに声をかける。
「フリッカ。絵はまだ完成していない。戻ってくれ」
返事はない。まさか城内で王女を追いかけて取り押さえるわけにもいかない。
アルズがどうしたものかと考えあぐねていると、シヴァが肩に手を置き、抱き寄せるように顔を近づけてくる。
「今日はここまでだ。話がある。着いてこい」
「しかし、納期まで一週間しかないんだ」
「後は細部の調整だけだろ? お前は父さんと似て手が早い。問題はない」
「……分かった。だが、せめて筆は洗わせてくれ」
「侍女にやらせろ。お前が何度も来るから、既に手入れの方法を覚えている。着いてこい」
兄の有無を言わせぬ口調を聞けば、弟に逆らえるはずはなかった。
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