第30話 変わりゆく公女と王太子の弱点①

「ふぅ、今日はとっても疲れたわ……」

 


 湯船に浸かりながら、アリシアは滑らかな腕を摩った。アリシアの後ろでは、シャシャが銀髪の毛束を揉むように洗い、リラックスできるように精油を垂らしたアロマストーンを置いてくれている。



 しかし、足を伸ばして寛いでいても、アリシアの耳にはまだ羽音が響いていた。

 


 毒蜂キラー・ビーに遭遇したら、逃げるが勝ちだと昔から言われている。毒蜂キラー・ビーの作るハニードロップスは、美味で高額で取引されるため、殺すことは禁止されているが、襲われた場合のみ魔法で攻撃することが許可されていた。



 その際、群れ全てを同時に攻撃し、戦意喪失させることが推奨されている。数匹でも無傷で残ればその仲間がどんどん凶暴になり、手が付けられなくなるからだ。つまり、凶暴になった毒蜂キラー・ビーに身体中を刺されて、酷い見目にされてしまう訳だ。



 毒針で刺されても死ぬことはないが、毒が抜けて元通りの姿に戻るのには、1年もかかると言われている。



 しかし、ルイスにはもう魔力はなく、アリシアの魔法ではそのような高度なことはできない。



 毒蜂キラー・ビーに追いかけられたアリシアは、あの後、ルイスと一緒に講堂へと逃げ込んだ。空き教室で隠れて過ごしていると、目的を失ったのか、羽音は段々遠ざかっていく。運よく難を逃れたアリシアは、その時ルイスと少しだけ話をした。



(まさかルイス様が、私と一緒に学院生活を過ごしたいと望まれていたなんて……)



 ちゃぷん。



 アリシアは湯気で赤くなった頬を隠すように、顔半分まで湯に浸かる。



 ルイスは勝負に勝ち、アリシアは負けた。そのため、今後はルイスの希望通り、つまり勝負中の時と同じような感じで、アリシアはルイスと一緒に行動することになる。呪いのことが知られた以上、気を負う必要もない。婚約破棄も、ルイスからされることはないだろう。



 多少、距離が近いことを除けば、ルイスほど心強くて頼れる人はいないし、話し相手と思えば寂しさを感じることもない。



 いずれ家族を含む上位貴族が、呪い持ちと零性遺伝子持ちのアリシアを不釣り合いだと猛反対する動きはあるかもしれないが、それまでの間は束の間の夢だと思えば、なんてことはないと自身に言い聞かせる。



(きっと、きっと平気だわ……)



 胸の奥で何かがチクチクと反応したが、気にしないようにした。



 状況は変わったが、アリシアの中で一つ悩みが減っただけで、やるべきことは変わらない。未来は未だ不透明で、いつ婚約話がなくなってもおかしくはないのだ。そのためには、勉学に励むことはもちろん、学院の社交場にも足を運ぼうと考えた。



 入学当初は、独りぼっちで社交など絶望的だったが、状況が変わったからだ。事情を知るルイスと一緒に行動ができれば、たとえ呪い持ちでもやりようはあると考えた。



 知識が深まり人脈を作れば、道は開ける。そう思うと、今まで死んでいたアリシアの心は、躍り立った。



(まずは、ヴィヴィに奪われた私の友達を返してもらいましょう。伯爵家のレイチェルと侯爵家のグレイを……。呪いを解く方法についても、調べなくてはいけないわ)



 やることが明確になると、アリシアは後ろを振り向いてシャシャに礼を言う。



「綺麗にしてくれて、ありがとう」

「いいえ、当然のことです。それより、アリシア様。何かいいことでも?」

「ええ……、少し話を聞いてくれるかしら?」

「はい」

「ありがとう……。昔、脆弱で短命で、何も成せないと言われて育てられた公女がいたの。その公女は、自分の人生に何も希望が持てなかった。その上、呪いもかけられたわ。でも、今はあの時の状況とは変わった。どうしてかしら?」

「そうですね……。それは、この世に移ろわないものなどないからでしょう。悪い状況ばかりが続くなど、あり得ません」

「さすがシャシャね、正解だわ。どんなに濃い霧が覆っていても、物事は常に刻々と変化している。これからも、もっと変わるわ。いい方向にね」

「アリシア様なら、きっとできます」



 シャシャが髪の毛に付いている泡を流しながらそう言うと、アリシアは小さな声で「ありがとう」と返事をした。



◇ 



 次の日の授業後、アリシアはいつもの待ち合わせ場所で、ルイスを待っていた。途中、ハプニングに見舞われたが、その全てが「氷の槍」よりマシだったと思えるようになったのは、不幸中の幸いかもしれない。



「すまない、先生と話をしていたら遅くなった」

「いいえ、大丈夫です。ルイス様」

「それで、話とは……?」



 ベンチに腰かけているアリシアの隣に、ルイスも座る。その距離はとても近い。あの日に聞いた噂を彷彿させる距離だった。もちろん、ルイスはローズも噂も全て否定したが、アリシアにはこの距離がどうしても、受け入れられない。



「ち、近いです」

「距離を空けると、心配だからな。私の隣の場所は間違いなく、今後もアリシアの場所だ。遠慮しなくていい」

「そういう問題では……」

「私としてはそういう問題なんだが……」



 ルイスは、ローズのような令嬢にはもう懲り懲りだとでも言いたげな表情をする。



 確かにそれを考えれば、隙間などない方がいいかもしれないが、他の令嬢がしたことと同じことをするのは抵抗感があった。どうしてそのような気持ちになるのかは、ちっとも分からないが、胸がムカムカする。



 しかし、今日はそのことを話すために時間を設けた訳ではない。



「分かりました。ではこのままの距離で、本題に移ります」



 そう前置きしてから、アリシアは話し始めた。



「呪い持ちの私の周りでは、度々ハプニングが起こりますが、私も皆と同じように社交がしたいです。ルイス様にはその……、お手伝いをしていただきたいのですが……」

「……それは、ハプニングが呪いのせいだと周りに気付かれないように、私がフォローするということか?」

「はい、そうです。私はこの歳になっても、両親からデビュタントを許されていません。社交について、本の知識以外は何も知らないのです。烏滸がましいことだとは分かっていますが、どうかご検討を……」



 アリシアは視線を隣に移したが、顔を上げることはできなかった。見上げてしまえば、ルイスの顔がいかに近くにあるかを意識してしまうからだ。隣に向けた視線をすぐにまた前に戻したのも、そのせいだった。



 アリシアがそわそわしている間、ルイスは何かを考えるような仕草をして黙っている。


 その沈黙の時間、割り込むように突風が吹いた。



「きゃっ……!」

「くっ」



 これがハプニングだと思った瞬間には、もう轟々と風が吹き荒れている。



(今日はいつもより風が荒れていたから、こういうハプニングは起きそうだと思っていたけれど、さすがにこれは……)



 銀の髪は横に靡いて、ルイスの顔にかかっていた。アリシアは何とか髪の毛とスカートを押さえるも、その隙間から髪や衣服が流れていく。しかし、ルイスはその突風を魔法でどうにかすることはしなかった。



 勝負が終わった今も、ルイスはハプニングからアリシアを守り続けている。今日の昼食時もハプニングは起きたが、相変わらず嬉しそうに、ルイスはハプニングからアリシアを守ってくれたのだ。



(『ローズの呪いが解けて、だいぶ魔力は回復した』と、ルイス様は仰っていた。それに、ヴィヴィの呪いは、ルイス様の魔力回復を大幅に妨げるものでもないから、心配はないとも……。たかが突風、魔法を使うまでもないと思ったのかもしれないわ)



 次第に風が弱まっていく頃合いを見計らい、アリシアはルイスに声をかけた。



「ごめんなさい。ルイス様のお顔に髪がかかってしまって……」

「いや、これは……、すまない。考えごとをしていて、魔法を使うタイミングを見逃した」

「大丈夫です、たかが風ですから。それよりも、ルイス様のお身体を大事にしてください。あ、髪が……」



 数本、アリシアの銀髪がルイスの制服ボタンに絡まっている。それを解こうとして、「失礼します」と手を伸ばすと、がしっと大きな手で止められてしまった。 



「ル、ルイス様?」

「……私がやる」

「は、はい」



 突然、手を掴まれたアリシアは、驚きながらも手を引っ込める。



(まただわ。ルイス様が何を考えているのか、ちっとも分からない……)



 アリシアが俯くと、ルイスは絡まった髪を解きながら、先ほどの返事を返した。



「……アリシア、社交場に来てもいいが、相手は私が選ぶ。犬を選ばれては困るからな」

「い、犬ですか!?」

「たとえ話だ。噛み付くような令息令嬢も中にはいるだろう。ローズのように……」

「分かりました。ですが、最初の相手を選べるなら、伯爵家のレイチェルと侯爵家のグレイがいいです」

「グレイ……?」

「はい、私の幼馴染です。レイチェルは私の友達で……」



 ルイスはなぜか「グレイ」という名前だけに反応して、眉間に皺を寄せるが、


「……分かった。調査が済み次第、彼らを誘い、茶会でも開こう」


 と最終的には承諾してくれた。



「ありがとうございます、ルイス様」



 俯いていた顔を上げてお礼を伝えると、ルイスは何とも形容しがたい表情を浮かべていた。

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