覗く人

ノミン

覗く人

 私の実家の近くにS病院という、公立の大きな総合病院がある。私は小学校、中学校とその病院の近くの学校に通っていた。

 病院というだけあって、怖い話、噂話には事欠かなかった。診療所では対処できない怪我や病気の場合は、大抵皆、そのS病院に行くので、馴染みがある分、S病院を舞台にした噂や怪談には現実味があった。

 入院棟に泊まっていると、夜、首の無い看護婦がやってくるとか、子供の駆け回る音や声がしてくるとか、夏の夕涼みにはちょうどよい話を、私も友人とよく、したものだ。

 中学生の時、私は盲腸でS病院に運ばれた。急な腹痛で、近所の小さな診療所に駆け込んだのだが、そこでは鑑別がつかず、紹介状を書いてもらって、S病院に救急で運ばれたのだ。血液検査で盲腸の診断がくだり、すぐに手術をすることになった。

 私にとっては人生はじめての手術だったが、緊張しているような時間もなかった。局部麻酔をかけて、早々に手術が始まり、気づいたときには終わっていた。

 翌朝、S病院の入院棟で目を覚ました私は、そこで医者と母から、退院がニ日後になると告げられた。初めてのことで心細かったが、私もちょうど思春期の入り口で、医者にも家族にも、それくらい大丈夫だ、心配し過ぎなんだよと強がってみせた。その時はまだ、慣れないこともあるし、夜は多少怖いだろうが、まぁ、たかが三日間だ、あっという間に過ぎて、気づいたらいつもどおりの日々に戻っているだろうと思っていた。

 私は、六人部屋の窓際のベッドに泊まることになった。四段の小さな引き出しと、その上には花瓶、そして窓には白いカーテンがかかっていた。

 病院での最初の一日は、ごく退屈なままに過ぎていった。笑ったりすると腹が引きつって痛いので、退屈で、話し相手のいない生活は、むしろ盲腸手術後の患者にとっては一番良いのかもしれなかった。

 夜になり、部屋の明かりが消された。消灯は九時だったか、九時半だったか、定かではない。消灯後すぐに、たぶん私は寝ていた。体感では、一時間か、二時間程度だろう。ところがどういうわけか、真夜中に目を覚ましてしまった。

 どうして目を覚ましたのか。

 ぼんやりしていると、近くから、ガタガタ、ガタガタと聞こえてくるのだった。あぁ、この音に起こされたんだなとわかった。その音は、窓の振動する音だった。窓は白いカーテンで隠れているので見えなかったが、まぁとにかく、風だろうとほっとして、目を閉じた。その日はそれで眠ったが、眠る直前まで、ガタガタ、ガタガタという音の、風にしてはどこか不自然な窓の振動を意識していた。

 翌日、私は昼頃、昨夜の窓の音の事を思い出して、カーテンを開けてみた。何の変哲もない透明な銀縁の窓がはまっているだけだった。窓から見えるのは、S病院の駐車場である。私は再びカーテンを閉じ、ベッドに横になった。

 眠りに落ちるかどうかというところで、私はふと、また窓が、ガタガタと音を立てているのに気づいた。そして、昨夜は感じなかった、人の気配というようなものを、カーテンの奥にかすかに感じた。

 真っ昼間で、生ぬるい室温のはずだが、私は凄まじい寒気を覚え、全身に鳥肌が立つのがわかった。

 ガタガタ、ガタガタ。

 窓は断続的に、音を立て続ける。

「採血の時間です」

 ちょうど私が恐怖に慄いている時、看護婦さんがやってきた。

「カーテンを、あけてもらっていいですか」

 術後のせいでささやき声のような弱々しい声で私が頼むと、看護婦さんはすぐにカーテンを開けてくれた。カーテンの奥には、やはりなんの変哲もない窓がはまっているだけだった。

「風、強いんですか?」

 私が看護婦に尋ねると、看護婦は笑顔で答えた。

「昨日も今日も、全然風が吹かなくて、外はすごく暑いよ。今日も熱帯夜かもね」

 私は恐る恐る、窓を見上げていた。

「カーテン、締めてもらっていいですか」

 看護婦さんは私の言うとおりに、カーテンを閉めてくれた。私は、言いようのない恐怖を感じていたが、幽霊なんて居るはずがないし、超常現象なんて気のせいだと、どこかで確信していた。窓のガタガタは、ビル風だろうと思いこむことにしていた。

 ところがどういうわけか、私がビル風と思い込んだ窓のガタガタが、私がうとうとしはじめると、決まって鳴り始めるのだった。

 ガタガタ震える窓。カーテンの奥の気配。誰かが、こっちを見ているような気がした。しかし、明日になれば退院、今夜は早く寝てしまおうと、私は思った。

 夜、昨日と同じように、私は消灯後すぐに眠りについた。ところがまた、昨日と同じように、目を覚ましてしまった。ガタガタ、ガタガタと、やはり窓が音を立てている。静止したようなカーテンの奥から、窓の音はだんだん、強くなっている。

 私は、カーテンに手をかけた。きっと風だろう、きっと風だと思いながら、ちょっとずつカーテンをあけていく。窓の端のほうが見えてきた。私は、思い切って一気に、カーテンを開け放った。

 青白い顔の人が、窓に張り付いていた。両手をべったり窓につけ、ぐらぐらと窓を揺すっている。落ち窪んだ目で、じっとこちらを凝視しながら。




 翌日、私は予定通り退院することができた。昨夜の出来事は、夢だったのか、現実だったのか、最近までよくわからなかった。気づくと、朝になっていたのだ。

 社会人になった私は、実家を離れて暮らしていた。実家に帰ったときも、S病院の方に行くこともなかった。

 しかし先日、お盆で里帰りした折、地元の友人達と集まることになって、そのとき私は初めてこの不思議な体験を、怪談として披露した。

 それならちょっと見に行こうかということになって、私とその他三人で、自転車を漕いでS病院に行くことにした。病院はこの十年少しの間に随分綺麗に建て替えられていた。

 まっ昼間、夏の病院。

「で、どこに入院してたんだよ」

 私は、友人たちに部屋の場所を教えるため、駐車場の方に回り込んだ。私の泊まっていた病室は、駐車場の向かいにある。

 病室が見える所まで来て、私は当時入院していた部屋を指差した。

「ほら、あそこ――」

 言いかけて、私は息を呑んだ。

 まだソレが、病室の窓を覗き込んでいたのだ。

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