第50話 しっかり、気絶してくださいませーっ!

 暗黒竜と化したケイトを見つけるのは、容易かった。

 鬱蒼と茂る森の木々が、彼の行き先を教えてくれたからだ。


 草木は焼き払われ、地面は黒ずんでいた。

 それを、久々に広げた翼で飛びながら、追いかけていく。


 森の奥、ベルの自宅とは正反対の場所に、ケイトはいた。

 彼の周りは逃げ道をふさぐみたいに炎の壁がぐるりと取り囲んでいて、その中でボルグはどうにか逃げ果せようともがいている。


 ケイトは、そんなボルグを嘲笑うかのように、じわじわと痛めつけていた。

 巨大な爪でボルグを引っ掛けては、「あーん」と食べる真似をしてみたり。逃がすとみせかけて、引きずり戻したり。


 一見すると、猫がねずみ遊んでいるようにも見えなくもない。


 遊んでいる猫から無理にネズミを取り上げるとどうなるか。

 取られないように飲み込んでしまうに違いなかった。


「そもそもボルグを助ける義理なんてないのだけれどね」


「呆れた。助けるつもりだったのか?」


 呆れるを通り越してキレ気味なルシフェルに、ベルは「ただのお人好しで言ったわけではありません」と答えた。


「機会があれば、そういうこともあったかもしれませんわ。だって彼、アスモお姉様が好きそうな体をしているでしょう?」


 アスモにもてあそばれた男の末路を、ベルは誰よりもよく知っている。

 にーっこりと無邪気に笑ってみせると、ルシフェルがひょいと肩をすくめた。


「……おまえも存外魔族なのだな」


「今更ですわよ、お兄様」


 ジロリと責めるようににらむと、ルシフェルはわざとらしくそっぽを向いた。

 口笛を吹こうとしているが、全然できていない。彼は変なところで、不器用なのである。


「それで……殴って正気を戻すのではないのなら、どうやって解決する? まさか、よくあるおとぎ話のように真実の愛のキスで戻すとは言うまい」


「ええ、もちろん」


「まさか、本気で……?」


「キスするわけ、ないじゃないですか。お兄様こそ、大丈夫ですか? 次期魔王とうわさされる方が、真実の愛のキスですべてうまくいくと信じているなんて……いい歳して恥ずかしいですわよ」


 ケイトへの独占欲は間違いなくあると言えるが、そこに呪いを解くような愛があるかは不確定である。

 よって、キスはなし。

 それに、ベルはもっと強烈な一手を持っていた。


「いや、父上の前で堂々とベルへの愛を叫んでいたケイトに引きずられただけだろう」


 言い訳めいた言葉に苦笑いしながらも、もしそうなのだとしたらと考えると、少しだけ興味が湧いた。


 ケイトが抱いているベルへの気持ちがどんなものなのか知りたいと、そんな思いからではなく。これはあくまで野次馬として知りたいだけなのだと、ベルは誰に言うでもなく言い訳を並べる。


「……そんなに、すごかったのですか?」


「すごかったな。父上なんて、感極まったように涙を浮かべていらした」


 はぁーぁぁ。

 ベルは特大のため息を吐いた。


「逃げ道をふさぐことがお上手で困ってしまいますわね」


 言いながら、ベルは下を見た。


 炎の壁が、ごうごうと燃え盛っている。

 ベルとルシフェルが上空から状況を確認している間も、ボルグの叫び声と命乞いが聞こえてきていた。


 戦士の命乞いほど、情けないものはない。

 見つかって助けを求められても面倒だ。

 ベルはさっそく、最終兵器をポケットから取り出した。


 取り出したるは、保護魔法を幾重にもかけたたる

 見慣れたワイン樽のようなものに、ルシフェルは訝しそうに眉を顰める。


「ベル。その樽はなんだ?」


「シュールストレミングの樽です。今は保護魔法を重ねているので無臭ですが、解けば想像を絶する悪臭・激臭がします」


「……知っているぞ。それは、人の国でもっとも臭いと恐れられている食べ物ではないか」


 嫌悪感もあらわに、ルシフェルは引き攣った顔で樽を指さした。

 心なしか、腰が引き気味である。


「よくご存知で。ええ、そのシュールストレミングですわ。この森で拾ったもので、何年熟成されているのかもわからない、実にファンタスティックな代物です」


「ファンタスティックって……パンデミックの間違いだろう」


「そうとも言いますわね」


「それを使って、どうしようと言うのだ」


「投げて、爆発させて、気絶させます。暗黒竜だって、竜の一種。おそらく嗅覚は人の姿の時よりもはるかに鋭くなっているでしょう。シュールストレミングの匂いに、耐えられるはずがありません」


「な、るほど……」


 ベルの計画はこうだ。


 シュールストレミングの樽をケイトへ投げ、頭の上くらいの位置にきたら衝撃を与える。

 おそらく樽の中にはガスが発生しているだろうから、爆散したシュールストレミングは広範囲に悪臭をばら撒く、というわけだ。


 飛び散った数滴だけでも悲惨なのに、浴びるように被ったらどうなるか。

 ルシフェルが心底哀れむように「かわいそう」とつぶやいていたが、知ったことではない。


 ベルさえ近づければいいのだ。

 暴食姫たる自分なら、すぐに耐性がつく。


「開封式を開催して大事に食べる予定でしたのに。残念ですわ」


「そうか」


「……というわけで。お兄様、逃げるなら今のうちですわよ? シュールストレミングの液が一滴でもつけば、とんでもないことになりますから」


 よっこいしょ、と樽を持ち上げたベルに、ルシフェルは一瞬で逃げた。

 周囲を見回しても、ベルとケイト、ボルグしかいない。


 ベルはすぅっと息を吸って、そして叫んだ。


「ケイト! あなた、私になら何をされたって受け入れられるって言いましたよね? ご希望通り、やらせてもらいますわ!」


 邪魔だ、と言わんばかりに目を鋭くさせるケイトに、ベルは清々しいまでの笑みを向けた。

 恐れ慄き、絶望するならまだしも、初夏を思わせるさわやかな空気に、ケイトは戸惑っているように見える。


「私のとっておきを譲ってあげるのです。しっかり、気絶してくださいませーっ!」


 ベルは勢いよく、樽を放り投げた。

 なんだこれはと、訝しみながら樽を見つめるケイト。


 落ちていく樽に、ベルは魔法で衝撃を与える。


 ミシミシミシ……プシッ


 軋むような音がして──樽は爆発した。

 思っていた以上の爆発音に、当事者であるベルも驚く。

 四方八方に、濁ったピンクグレーの液体とぐずぐずに溶けた魚の身が飛び散った。


 腐った酸っぱい魚と、腐った卵が混ざったような、生ゴミみたいなくさい臭いが森を包み込んでいくようだった。


 生まれてこのかた、ここまですごい匂いを嗅いだことがない。

 口から吸い込んだ空気が、鼻を抜けて頭に到達する。クラクラどころかグラグラと頭を揺さぶられて、気絶しそうだった。


「すっごい! これが、シュールストレミングの香りなのね……」


 ベルの唇が、ニィッと笑みを形作る。

 心奪われたようなうっとりとした表情を浮かべるベルの下で、暗黒竜は轟音を立ててひっくり返ったのだった。





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