6章 人の国の珍味 イカの塩辛

第29話 もう、会うことはない

 ゴミ溜めの森ホーディング・フォレストにある湖では、イカが釣れる。

 湖なのにイカが泳いでいて、釣れるのである。


 本来イカは、海にいるものだ。

 湖には、いない。


「すごいな……」


 釣れたイカをマジマジと見つめながら、ケイトは「ほぅ」と感嘆の息を吐いた。


 珍味を釣る気満々で湖へやってきたケイトだったが、まさかイカが釣れるとは思ってもみなかったのだろう。

 その顔は、鳩が豆鉄砲を食ったようである。


 湖でイカが釣れるなんて、彼の常識では考えられないことだ。

 しかし、ここは地の国で、さらに言えばなんでもありのゴミ溜めの森である。


 ケイトの常識なんて、ちっぽけなもの。

 深く考えるだけ無駄というものだ。


「イカが釣れるなら、漁火いさりびを用意しよう」


 魔王を倒すために鍛錬していた際、なんでも経験だと漁師の手伝いをしていたことがある。

 その時の経験が、まさかこんなところで役に立つとは。


「持つべきものは、金遣いの荒い仲間だな」


 彼がいなければお金が足りなくなることもなかったし、漁師の手伝いをして金を稼ぐこともなかった。

 当時はパーティーから追放してやろうかと本気で悩んだものだが、今となってはいい思い出である。


「今頃、何をしているのか」


 魔王を倒したあとは、美人な嫁さんをもらってかわいい娘に囲まれるのだと豪語していたから、酒場で看板娘を口説いているかもしれない。


 うっかり騙されて金を巻き上げられていないか心配ではあるが、ケイトはそうならないよう祈るのみである。


「もう、会うことはないだろうからな」


 ケイトはもう、人の国へ帰るつもりはない。


 無責任なのは重々承知しているし、帰した仲間たちに悪いとは思っている。

 だが、魔王に敗北した勇者なんて格好悪過ぎて顔を出せそうになかったし、なにより、ベルのそばにいたいのだ。


「この森でのんびりと、彼女と生きていけたら……」


 ケイトの頭の中では、レティの存在などなかったものにされ、ベルと二人きりの妄想が繰り広げられている。


 ウサギを抱いていたベルの姿は都合よく子どもを抱く姿に変更され、ケイトは恋に恋する夢見る少女のような顔で「いい……!」と噛み締めるようにつぶやいた。


 もともと、勇者なんて性に合っていなかったのだ。

 食べるために動物を狩ることはあっても、ただ前に出てきたからという理不尽な理由で魔獣を狩ることは、経験を積むためには仕方のないことだと頭では分かっていても、心が追いついていなかった。


 捨て置くしかなかったそれを、ベルはごちそうだと喜んでくれる。

 ケイトでも食べられるように、面倒な加工も率先してやってくれる心遣いが、好きだ。


 だから今の生活は、彼にとって理想なのである。

 たとえベルに家を追い出されようとも、森の中で暮らし続け、こっそりと彼女の家の前に貢ぎ物を置くくらいはしてもいいだろうと、人によってはゾッとするようなことを考えていた。


 魔王が人の国を害するかもしれないという心配は、不思議と湧いてこなかった。


「おっと。今はそんなことを考えている暇はないな。漁火を焚いて、イカを呼び寄せないと」


 ──光の玉ライトボール


 呪文を唱えると、ケイトの周りに光球が現れる。はずだった。

 一度、二度と唱えても、光球は出てこない。


「んん?」


 マッチを擦るよりも簡単に出来ていたことが、できない。

 ケイトは顔を強張らせた。ヒク、と勝手に苦笑いが浮かぶ。


「しばらく使っていなかったから、感覚が鈍ったのか……?」


 とはいえ、神の祝福を持っているケイトが最も得意とするのは光属性の魔法である。

 一番得意な属性の、最も簡単な攻撃魔法が使えないなんて、そんなことあるのだろうか。


 仕切り直して火属性の火の玉ファイアーボールを使ってみると、今度はシュボ、と難なく火球が出現した。


「魔法が使えないわけではないのか」


 思い返してみると、魔王との戦いでも光魔法での攻撃は奮わなかった。

 光が届かない地の国では有利に思える光魔法だが、それは単なる思い込みで、もしかしたらその逆なのかもしれない。


「まぁ、いいか。とにかく今は、イカだ、イカ!」


 なんとかなるさが信条のケイトは、あとで考えればいいやと頭を切り替えた。


 イカは、光に集まってくる。

 そう思っている人は多いだろう。

 もしくは、光に集まってきたイカの食べ物を狙って、とか。


 実際は、違う。イカは、光を嫌うのだ。

 漁火によるイカ漁は、光を嫌ったイカが暗い場所に逃げ込んでくる、それを捕まえるのである。


 火球を湖の上へ漂わせ、できた暗い場所へ疑似餌ぎじえを投げる。

 水面に着水したら疑似餌を沈めて、たるんだ釣り糸を巻きとりながらしゃくり、イカに存在を気づかせる。


 イカが疑似餌を抱いてくるのは、しゃくってから動作を止めて疑似餌が沈んでいく時だ。

 エビが跳ね上がったあとの動きを真似て、フワフワと自然に落とす。


 そして、少しでも違和感があれば素早く竿を動かして、しっかり針を引っ掛ける。


 イカは、面白いくらいよく釣れた。

 入れたらすぐに食いつく、まさに入れ食い状態である。


 無心になって釣り続けた結果、気づけばかなりの数のイカを釣っていた。


「これだけあれば、いろいろ作れるな」


 刺身に、和え物に、煮物。揚げてもいいし、蒸してもいい。

 もちろん、バターで炒めたものも捨てがたい。

 時間があれば、干すのもいいだろう。


 どんな料理を披露しよう。

 ベルの笑顔を思い描きながらケイトがニヤついた、その時だった。


「ほぅ。これだけの量を……なかなかいい腕をしているな」


 いつからそこにいたのか。

 背後から、声をかけられる。


「そうですか? ありがとうございます」


 突然声をかけられて驚きはしたが、褒められて悪い気はしない。

 大量のイカを前にすっかり舞い上がっていたケイトは、警戒することなく背後を振り返った。

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