Sacrifice

城間ようこ

プロローグ

EVE-Black, EVE-White


“Sacrifice”


Bless for The Children.







……夢を見る。それだけは、憶えている。


朝靄に全てがかき消されてなお、まとわりつくように。声はそこにいる。



……誰?



脳裡に閃く疑問符は、あてどなく駆け巡りその先を塞ぐ。



* * *



「……だけど、このままで済むわけないだろ」


茶色の柔らかな髪に、どこまでも澄んだ黒い瞳の青年──天之河が、痛みを堪えるように低く呟きを落とし、座る脚の上で節ばった長い指を組み合わせた。


安楽椅子に凭れたそのさまを、昴──闇のように黒い髪と黒い瞳の青年は、眺めながら塗り固められたようだと思う。そのシーンに完結したさまだ。


「──だけど。天之河、」


「……いつか、きっとくる」


反駁する言葉も思いつかないままに、それでも切り出しかけた言葉は、天之河の言葉に遮られた。


昴が食い入るように見つめている天之河の姿は、その視線は、けれど昴の方へ向けられることはない。自らの組まれた指を、見るともなく見下ろしている。


「……流星は。どうしたって、思い出さずにはいられない」


昴は視線を逸らし、窓の外を見やった。カーテンの向こうに濁る空が塗りつけられている。外は朝から雨だ。真夏の空からは、生ぬるい水が絶え間なく落ちてくる。古い時代のレコードが回転しだすときのノイズに似た雨音が、この部屋──天之河の部屋の時間を塗り固めるのに一役買っている。


「流星は思い出すだろ。──それが、自分に与えられた“最初の言葉”なら」


……分かっている。





──マザーコンピュータ──“MOTHER”が統括・管理するハウスに、最初に送られてきたのは天之河だった。次に“昴”が送りこまれ、北斗がほどなくして加わった。その後に、流星と暁が送られてきて今の人数になるまでには十年以上の空白がある。


閉鎖された、そこは人工の楽園だった。子どもたちは育ちきった緑の世界に生かされていた。


何も決まりはなかった。──ただひとつの、“言いつけ”を除いては。


そして、その“言いつけ”が、与えられたあらゆる自由以上の拘束力を持っていたのかも、しれない。


だがそれは、この世界に鎖ざされた子どもたちに、ただひとつ定められた“祝福”だった。


何ひとつ道標を持たされなかった子どもたちの、ただひとつの言葉。意味を知るにせよ知らずにいるにせよ、彼らはそれを憶えている。大前提として。──ただ一人、流星だけが例外として。


流星だけが、その声の記憶を失っていた。何らかの理由があるのかもしれないが、それは誰にも分からない。


「昴。……頼むから、早く思い出させてくれ」


「……何で、」


「──お前が」


緩慢と問い返そうとした言葉が、再び天之河の声で阻まれる。天之河が、刹那顔を上げて視線がぶつかった。責めるような眼差しに、昴は応えるものも持たず、眼差しだけを受けた。


天之河の目が揺らぐ。のろのろと視線が外されてゆく。



「……流星自身に、それができないなら……昴、お前が」


天之河が右手で目を覆った。ギシ、と安楽椅子の背がきしみ、肘掛けのふちに投げやった左手に力が籠められた。指を組み合わせてから、ほどいて今に至るまで。その一連の動作を、昴はただ、見ていた。


天之河の声が、ひどく響く。


「……俺が、いつか動き出す前に」


──止めてくれ。天之河の言外の言葉は、いやというほど伝わってくる。


「……分かってる……」


辛うじて、昴が声を押し出した。立ち尽くし、下がったままの手のひらを、爪が食い込むほどきつく握りしめて。


分かっている。思い出さない彼の、それ故の異質な“自由”は、しょせん停滞でしかない。


忘れられない天之河が、それでも動き出せないこととは対極にある。それだけのことでしかない。




……けれど。


誰のせいかも分からないほど、縺れあったこの世界で。


彼に──流星に自由を望むのは、残酷なことなのか?






昴は沈黙のなか、窓の向こうに視線を戻した。


この会話はここまでだろう。互いに、これ以上言うべき言葉は持っていない。





* * *



天之河の部屋を出て向かった雨の庭は、面白いものでもなかった。昴は見るものもなく、空を見上げた。


叫びかかるように、降り注ぐ滴が見える。


顔を打つ水。目に落ちて視界を塞ぐのに任せて昴は目を閉じてみる。


雨は何も流しはしない。たとえ人に忘れられても、事実は大地に染み込んだままだ。


そして歴史は還元される。何の意思も感慨も持たない器の中で。






「──昴!」


声と同時に、バシャ、と濡れた芝を蹴る音が聞こえた。昴が目を開けてみる。ぼやけた視界が徐々に映像をうつし出す。走り寄ってくる誰か。


「……流星」


突撃しそうな勢いで、流星が昴の前に立った。上背があるものの威圧感はなく、目鼻立ちのはっきりした顔は人好きのする様子で、どことなく大型犬を思わせる。


昴はリアリティを拒絶したままの頭で向き合った。


「何やってんだよ、こんな所で!」


「……!」


がし、と流星の両手が昴の顔を包む──というよりは掴んだ。


「ああもう、びしょ濡れじゃん!──こんな季節に風邪ひいたら莫迦だよ!?」


何やってんだよアンタ、冷えきってるし。──怒りながら、流星が掴んだ昴の顔を引き寄せた。



「……昴?」


そうして、その顔を覗き込む。


昴が、ひとつ、ゆっくりと瞬きをした。


「……お前に莫迦って言われるとはな」


あーあ、と殊更めいた溜め息を漏らしてみせると、流星は「うるさいよ」と表情を少しやわらげて返してきた。


「──って、だからそうじゃなくて。天之河君も心配してたし」


憶えていない流星は、あっさりと口にする。


「……帰ろう?」


ほら。──そう促して、あやすように頭を撫でて。


「……うん」





……流星が、なぜ憶えていないのかは知らなかった。けれど、どちらにしても同じことだろう。


どちらでも。──“あるべき姿”なんて、そんなものは。


始まりを思い出すことが、それまでの“自由”を思い返すことに他ならないなら。






「……昴、まだ起きてる?」


流星がそっと囁いて、昴は閉じていた目を薄く開けた。


あれから、流星によってバスルームにぶち込まれ──「百数えるまで出ちゃ駄目だからな!」とは流星からの厳命だった。もちろん守らなかった。──流星によって用意された服に着替え、流星が淹れた熱いコーヒーを手に、流星の部屋に連れ込まれた。よほど信用がないらしい。


床に座ってコーヒーを飲んで、他愛ない雑談を途切れがちに交わして。流星が手渡してきた毛布に二人でくるまって──キツいんだよ、お前はお前でくるまってろと昴は反駁したものの結局根負けした──人肌のぬくもりが籠もるそこは、緩やかな眠気を呼んで、昴はいつしかぼんやりと意識を漂わせていた。そこに、声がかけられた。



「……何?」


「ん。……あのさ」


半分眠ったまま応えると、流星の腕が伸びてきた。髪の匂い。同じもので洗っているはずなのに違う。陽射しを受けた匂いだと、昴はふと思う。


流星が、顔を昴の首筋に埋めて凭れる。昴が手を上げてその頭に触れると、微かに擦り寄せてきた。


「そばにいていい?」


昴の意識が、急速に覚醒してゆく。


「……何、急に言い出してんだか」


「だって、憶えてないから。自分が、何望まれたか──あの人に」


それでいいんだと、言おうとして、けれど言えない。


「俺には、最初から昴しかいなかったから」


流星が、体勢をずらして昴に両腕を回した。流星の肩から毛布が落ちかける。それを、昴がそっと摘まんでかけ直した──しがみつく体を、包むように。


「……昴?」


何かを言って欲しいのだろう。流星が見上げてくる。


「……いいよ」


だから、囁いて、両手で流星の頭をくるみ込んだ。眠ってしまえというように。


「そばにいなよ。──流星」


子守唄の響きで語りかける声に、流星が静かに目を閉じる。


「……このままでいい」


外では、まだ雨がやまない。


一瞬、風が空を奔り抜けて、雨滴が怒号のように窓を打った。






──昴しかいなかった。


そう言った流星の、その言葉の意味は昴には分からなかった。この、育ちきった緑の世界に送りこまれて、初めて触れあった人間が自分だという意味なのか──そう思い、けれどそれは確信にはならなかった。


掴みようのない真実は、大地に染み込んで。


そうして、巡り、巡る。

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