第41話 犬
◆
自分の部屋へ戻り、俺はしばらく庭を見ていた。
立ったまま、何もない庭を見る。いや、何もないわけではない。岩があり、木が植えられている。砂利も敷かれている。小さな石の灯篭もあった。
考えるのは、カイリとホタルのことだった。
カイリが油断したとは思えない。
ホタルの剣技は、俺も初めて見た。
不可思議な剣術だった。俺が今までに見た剣術のどれとも異なる。
剣技と呼べるだろうか。
あれは、まるで獣の闘い方だった。
そう、野性むき出しの、獣の行動だ。
刀はホタルの牙であり、爪だった。
彼女は獲物を狩るようにカイリを倒してしまった。
最後の瞬間、ホタルにはカイリを生かして済ますことができたのは、俺を悩ませるところだった。
カイリは片腕を飛ばされ、武器も失っていた。態勢も、挽回が不可能な状態である。
ホタルは容赦なくカイリにとどめを刺した。
腕の傷からは大量の出血があった。仮にホタルが命を絶たなくても、失血でカイリは死んだかもしれない。ただ、それはやってみなければわからなかった。
事実は、ホタルがカイリを殺した、これである。
良心の呵責など見えなかった。
まるでそうするのが自然のように、ホタルからカイリに死は与えられた。
傷ついた相手を楽にするために命を絶つ、という主張をする者もいる。
ではホタルがその主張をするかといえば、とてもそうは思えなかった。
あの面を被ったような、無表情には、怒りも憎しみもない代わりに、慈悲もなかったのだ。
当然のことだと、ホタルは言いたかったかもしれない。
敗者の定め。
「オリバ殿」
俺は声をかけられるまで、そこに城のものがいるのに気付かなかった。
「タンゲ様がお呼びです」
返事をして、俺は部屋を出た。この日の朝、タンゲは腕が痛むということで医者を呼んでいた。その予定があったがために、彼は手合わせには顔を見せなかった。
城の奥へ進み、タンゲの部屋の前まで来た。
「オリバです」
声をかけると、招く声がある。そっと障子を開け、部屋に踏み込んだ。
タンゲは座った姿勢で、火鉢のすぐそばにいた。ひとりきりだ。
障子を閉め、彼の前に進み出る。
「手合わせのことを聞きたい」
その言葉には柔らかいものは一つもない。招き入れた声でさえも、固かったのだ。
「カイリ殿は敗れました」
「それは聞いている」
唸るような声に変わり、しかし端々が掠れていた。
「伝え聞いたものの話では、カイリ殿は敗れ、亡くなられたという。本当か、オリバ」
「事実です」
ふぅっと息を吐いた若者の瞳には、火花が散りそうな激しい感情があった。
「カイリ殿とホタル殿の技は、拮抗したか。どう見えた?」
「カイリ殿は全てを出したと思います。最後の瞬間まで、勝利を望んでおられたように見えました」
「ホタル殿はなぜ、カイリ殿を死なせたのか」
「あの女性は」
言いかけて、俺は言葉に詰まってしまった。その先を口にするのには抵抗があった。
「あの女性は?」
催促に、俺は一度、目を閉じた。
言葉は溢れ出るように、口から漏れた。
「あの女性は、人を切ることしか考えておりません」
「まさか……」
俺は今度こそ口を閉じた。
自分の表現に、自分でも驚いていた。
そう。ホタルは、人を切ることを考えている。それのみを考えている。
恐怖も、躊躇いもない。興奮もないかもしれない。
まるで紙を引き裂くように、人を刀で斬っているのだ。
人を切らずに、人を切ることをあれほど理解できるものがいるだろうか。それとも理解せず、本能的に、本来的に見つけているのだろうか。
「ホタル殿は」
俺の中の静かな恐れを感じ取ったように、タンゲの声もわずかに震えていた。
「ホタル殿は私と約束した。死なせずに、済ますと……」
「言葉が通じる相手ではないのかもしれません」
「そんなわけが……、そんなわけがあるか!」
怒りのままにタンゲが立ち上がったが、俺は姿勢を変えなかった。
もう手遅れなのだ。いや、状況は常に動き続け、たった今のものの考えなど容易に押し流してしまう。
「父上は」
頭上からの声に、俺は顔を上げた。
そこにあったのは、激しい怒りに赤黒い顔になった青年の姿であり、それは俺を悲しくさせずにはおかなかった。あれほど純粋で、純真だった青年が、今ではそれを失いつつある。
「父上は何を考えておられる」
「ホタル殿には何かしらの褒美を与えるでしょう。あるいは、剣術指南役の役目を与えるかもしれません」
タンゲが目を見開き、歯ぎしりするのが聞こえた。
「そんな馬鹿なことがあるか」
「ケイロウ様にはケイロウ様のお考えがあるはずです」
「その役目のために、アマギ殿が死に、カイリ殿が死に、何の意味がある!」
「我々には」
言葉にしながら、自分の考えがみっともなかった。
タンゲにはわからないのかもしれない。彼は最初から全てを与えられている。彼はどこまで行っても、有力者の息子であり、その立場なりの苦労があるだろうが、世の大半のものはもっと別の、過酷な苦労を強いられているのだ。
「我々は、与えられる役目一つで、全てが変わるのです。剣術指南役となれば、屋敷を与えられ、封禄も与えられる。それだけのことでも、変化は変化です」
「何が言いたい」
「旅の中で、様々なものを見ました。多くのものが、夜露をしのぐこと、わずかなものを口にすること、それに汲々としております。着物は擦り切れたものをまとい、着替えなどはほとんどありません。毎日を田畑で過ごし、雨なら家とも呼べぬ小屋の中で、草履を編み、むしろを編み、過ごすのです」
さらなる歯ぎしりの音が聞こえた。
しかし俺はもう、構わなかった。
「我々は、何かを手に入れる機会があれば、それに死に物狂いで飛びつく、飢えた犬なのです。犬の生き方を理解していただきたい、とは申しません。しかし、我々がどういう種類の人間かは、お考え下さい」
つまらぬ。
その声の後に「部屋へ下がれ」と言葉が続いた。
俺は深く頭を下げ、タンゲの部屋を出た。
自分の部屋へと廊下を進みながら、じわじわと若いものに説教をした自分への恥ずかしさがこみ上げ、たまらなくなった。
どんな理屈も、正論であっても、剣でねじ伏せられるという過信が、俺の中にあるかもしれない。文句があるのなら、切ってみせよ、というような。
だから、どんなことでも言えるのだ。
今、その過信がホタルの技を前に揺らいでいる。揺らいでいるがための苛立ちを、タンゲにぶつけたようなものだった。
幾つもの理由が、俺に俺の恥を突きつけていた。
いつの間にか自分の部屋の前に立っており、俺は庭を見ていた。
強いものだけが生き残る世は終わりつつある。支配者が誰か、誰も疑わない時代がくる。
剣が意味を持たない時代だ。
俺は自分を犬と表現した。まさにこれから、そうなるかもしれない。
野良犬のように、銭を求めてさまようもの。
同じ立場のものと争い、醜い己に気づくことなく生きる、亡者のようなもの。
無知にして、無恥な存在。
思わずため息が漏れる。
庭へ降り、俺はゆっくりと刀を抜いた。
カイリは死んだ。
次に死ぬのは、俺だろうか。
それともホタルか。
瞼を閉じずとも、ホタルの剣を思い浮かべることができる。
実際の光景に重なって、ホタルが見える。
光が閃き、幻の切っ先が翻る。
俺は構えを変えない。
幻の刃が俺を抉っていく。
おそらくその筋の技は二度と来ない。この筋は、カイリを切った筋だ。
あの横に腕を伸ばす、奇妙な構え。
まるで素人の、遊びのような構え。あれでは剣を繰り出せる範囲が限定される。それに、繰り出すには一度、肘を畳むなりしなくて、力を込められない。
馬鹿げている。
だからこそ読みにくい。
不規則からなる、変幻の剣だった。
しばらく俺は刀を構えたまま、そこに立っていた。
不意に光が差し、それまで黒い雲が空を覆っていたのに気付いた。
ただ光はすぐに消えてしまった。
まるで人の世の希望のように。
(続く)
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