第46話 緊張と変調
ノックの音が響き、息を止めた。ゼールデが扉へと歩いていくのを見、ソフィーナは意識して深呼吸を繰り返した。
側に控えていたフィルが、立ち上がるソフィーナへと手を貸してくれる。それから彼女はソフィーナの正面に来て膝をつくと、「妃殿下」と驚くほど真剣な顔で口を開いた。
「傷つくことを恐れて、相手と自分の本当の気持ちから、目を逸らしてはいけません」
「フィル……」
今までのソフィーナをよく見てきた彼女からの言葉に、思わず唇を引き結ぶ。
これ以上傷付きたくなくて、フェルドリックの言葉や仕草に自分への好意を見出すのを殊更に否定した。自分の気持ちを見ないふりをした。見ても、そこから逃げることばかり考えていた――。
「自分についた嘘から人は逃れられません。その瞬間の鋭利な傷を避けるためについた嘘のせいで、ずっと性質の悪い傷を負うことになります」
フィルはその森色の目で、「あなたの心を長い月日をかけて狂わせ、殺していく傷です」とソフィーナを見つめる。
フィルの厳しい顔に、常に王族としての威厳を保つように、という母の言いつけも忘れ、泣きそうになりながら答えた。
「だって……もう怖い。ひどいかと思ったら、優しくて、優しいと思ったら、ひどくて、全然わからないの」
「私はあなたの味方です。あなたがもういいとはっきり思えるなら、そう仰ってください。何をやってでもあいつから引き離して、守って差し上げます」
(きっと彼女は本当にそうしてくれる――)
そう知っているから、返事ができなかった。そしてそれこそが答えだった。
思わず手を握りしめれば、フィルは逆の手で宥めるように、そこを優しく2回叩く。
「なら、逃げては駄目です――もう少しだけ頑張ってください、あなた自身のために」
それから、彼女は心底嫌そうに眉を顰めた。
「最初にあなたに会った時、可愛くて優しそうな方だなあと思ったんです。アレックスもそう言っていたし。だからこそあなたが、真っ黒、瘴気まみれのあいつのお妃だなんて、気の毒で気の毒で……」
「……ひょっとして、結婚のお祝いを言う時、言葉に詰まっていたのはそのせい?」
「他に何があると?」
「――へえ、いい度胸じゃない」
「っ」
息をのんだソフィーナの前で、音を立ててフィルが扉へと向き直った。同時に、彼女はソフィーナから声の主の姿を遮ってくれた。その間に動揺を鎮める。
「ふ、ふふ、ふふふふふ、言うようになったね、フィルの分際で」
「お、かげさまで。8つの頃から成長してないフェルドリックと違って、私は成長しているので」
「嫌味まで覚えたって訳か……?」
「い、嫌味を言われる心当たりがあるなら、いい加減上手くやることです。出来なきゃ今まで言われた馬鹿って言葉、そっくりそのまま返します」
「あ」
引き攣った笑いを浮かべたフェルドリックが、手近なソファにあったクッションをフィルに投げつける。
彼女はそれをなんなく受け取ると、投げつけ返した。
(そ、それは流石にまずくない……?)
と蒼褪めるソフィーナの前で、フェルドリックはそれをなんとか避ける。
「ちっ、避けるとは……少しは成長したのか」
「王太子に向かって猫の分際で……」
「お前たちはまた……」
狙いを外したクッションは、ちょうど戸の向こうから現れたアレクサンダーにあたったらしい。それをつかんだ彼は疲れたような溜息を零す。
彼らを前に固まっているゼールデが、半年前のアンナにそっくり重なって見えた。
そんなことに気を取られている間にフェルドリックは、ソフィーナの傍らへと来ていた。緊張する間もなく手を取られる。
「行こう。ソフィーナ」
「…………はい」
跳ね上がった心臓は、触れ合っている彼の指先が冷たいことに気づいた瞬間、鎮まった。多分ソフィーナの手も、同じくらい冷たいだろう。
「本日は私がご案内いたします」
「ジェミデ? まあ、どうしてあなたが?」
会場となる迎賓宮への先導のためにやってきたのは、侍女長のジェミデだった。彼女の職位には明らかに不自然な行動に、ソフィーナは目を丸くする。
高位とは言え、使用人としての身分でのことだ。カザック太子という立場では、無視しても全く不思議ではないのに、フェルドリックは目線でジェミデについて尋ねてきた。
「侍女長のジェミデ・ゾールンです」
ソフィーナの紹介にジェミデが跪礼を執る。下げられた彼女の頭を見た瞬間、元々真っ黒だった髪に白が一気に増えたことに気づいた。
「私の母をずっと支えてくれた人です。今回も、色々、本当に色々助けてくれました――私のことも」
母が生涯重用したこの人が、今回命を懸けて陰からハイドランドを、母が遺した思いを、兄の命を護ってくれた。そしてソフィーナの未来への選択肢も。
あの日父のみならず、兄も殺されていたら、カザックでの地位がどうなるかはともかく、ソフィーナはハイドランドに帰るしかなかった。そうなれば、こうして迷うことすらできなかった――。
かすかな呟きだったはずなのに、フェルドリックの目線がソフィーナに向く。
「……」
ジェミデは無言のまま皺の浮かんだ顔を優しく緩めてソフィーナを見た後、改めてフェルドリックへと向き直り、深く長く頭を下げた。
その彼女に軽く目を見張ったフェルドリックは、それから一切口を開かなくなった。ソフィーナにだけでなく、護衛として背後に付き従うアレクサンダーにも、フィルにも。
戦勝会の会場である迎賓宮に入ってからも、明らかに彼の様子はおかしいように思えた。人が周囲から途切れる瞬間もそれなりにあるというのに、皮肉を投げかけてくることも毒を吐くこともない。
(絶対に変……)
そっと掠め見た横顔は、いつになく真面目で強張っているように見える。
「……」
あまりの居心地の悪さに思わず身じろぎしてしまったというのに、それをからかってくることも呆れたように見てくることも、今のフェルドリックはしない。本当におかしい。
ハイドランドの先王の暗殺に始まる内乱、そこに介入してきたシャダとの戦争とその後処理。
落ち着いたとはまだ言い切れない状況で開かれたとあって、戦勝会は格式ばったものにはなっていない。
ほとんどの者は略装で、戦勝の祝いにふさわしく、制服姿の双方の軍関係者と、叛乱に関係のなかった貴族や有力者の中で、特に積極的にルードヴィに対した者とその家族のみを集めて立食で行われている。
けれど、砕けたその空気とは対照的に、ソフィーナとフェルドリックの間の空気はとても硬かった。
「フェルドリック殿下、こんな機会とは言え、再びお目見えできて光栄です」
「シャダは相当の痛手を負って敗走したとか」
「救援いただきましたこと、心より感謝申し上げます」
他の人がいるといつものように完全に猫をかぶり、柔らかく計算高くふるまうのだが、ソフィーナと2人になった瞬間毒を吐くという、いつもの習慣はやはり出てこない。
(そもそもさっきから私を一切見ない……)
そう気づいてソフィーナは眉根を寄せた。
(アレクサンダーは「もう一度機会を」と言っていたけれど、本人にその気がないのなら、どうしようもないような……)
困ってしまって会場に彼の姿を探せば、ひと際大きな人だかりの中心にいた。一緒にいるのはソフィーナがタンタールの森に入る前に出会った、ティムという名の見た目のいい騎士で、周りは見事に女性ばかり。
頬を染めた彼女たちから何かを期待するような目で見上げられたり、さりげない感じではあるが、触られたり、甘えるようにしな垂れかかられたりしている。
(…………なんか、距離、近くない?)
気になってしまって彼の妻であるフィルを探せば、対方でヘンリックと語らっていた。アレクサンダーの方を気にした様子もない。
「……」
ふと羨ましくなった。フィルはアレクサンダーに振り回されたりしない。彼の言動に一喜一憂したりしない。
(私もあんなふうになれたらよかったのに……会ったことはないけれど、多分メアリーだって)
半ば逃避気味にフィルとヘンリックを見ていると、それに気づいた彼らはソフィーナを見て、微笑みかけてきた。
いつもほっとする2人のその顔が、今のソフィーナには真逆に働いた。
(今日は本当に厳しい)
逃げるなと念を押しているのだと悟って思わず溜息をつくと、絡ませている先の腕が少し硬くなった気がした。
「どうかなさいましたか……?」
「……いや」
勇気を出して彼へと視線を上げれば、露骨に逸らされる。それにもっと眉が寄ってしまう。
そうして再び沈黙が訪れた。
「ソフィーナさま」
「ガードネル、調子はどう?」
足を引きずりながらこちらへと歩み寄ってくる知己の姿に、手助けがいるかとソフィーナは思わず足を踏み出した。
が、フェルドリックと絡んだ腕が離れず、結局その場にとどまる。
「ガードネル・セリドルフでございます。再びお目にかかれて光栄です、フェルドリック殿下。この度の救援、騎士として、ハイドランド国民として、お礼申し上げます」
「いや」
フェルドリックにしては不自然としか言いようのない、愛想のない答えに、ソフィーナは彼の顔を見上げた。
「――ソフィーナさまを敬愛する者としても」
その瞬間、フェルドリックの眉が微妙に寄った気がした。
「……」
フェルドリックは無言のまま、彫像のような顔をガードネルに向け、同じく無言の彼と見つめ合っている。
「……殿下?」
妙な緊張感が漂っている気がして小声をかければ、そこでようやく金と緑の瞳がソフィーナを向いた。
「ひょっとして先ほどからご気分が優れないのでは?」
(この人、見栄っ張りで意地っ張りだもの。不調があって戦勝会に出られないとか、絶対やらない、絶対に隠すわ)
さっきから妙に大人しいのは体調が悪いせいかも、と思い当って、ソフィーナは顔色を変えた。
「戻りましょう。じゃなくて、私も……というより、そ、そうです、私が体調が悪いのです。戻りますから、付き合ってください」
意地を張られてはかなわないと思って、自分の不調をでっち上げたソフィーナに、フェルドリックはようやく表情を動かした。目が微妙に丸くなる。
(大丈夫、「自己管理が甘い」って言われる覚悟なら、もうできてるわ。その通りですって開き直って、絶対に連れ戻してやる)
「……私は平気だ。ソフィーナは戻ったほうがよさそうか? なら一緒に行く――話がある」
だが、予想に反して、彼は顔全体を柔らかく緩めた。そして逆の手でソフィーナの頬に優しく触れ、親指でそこをゆっくりと撫でる。
(え、な、なに……というか、話?)
「あ、いえ、き、気のせいだったかも。その、殿下は主役のお1人です。大丈夫であれば、ここにいていただいたほうが」
いつにない表情と仕草に顔に血が上っていくのがわかって、ソフィーナはもごもごと返すと、慌てて顔を伏せた。
「…………ソフィーナさまは高潔で、本当にお優しく、何事にも一生懸命な方です。他者の気持ちに寄り添って、一緒に笑い、泣いてくださり、手を差し伸べてくださる」
ずっと無言だったガードネルが、呟くように話を再開させた。
脈絡のわからない言葉に、ソフィーナは赤い顔のまま彼に目を向けた。だが、ガードネルはつっと視線を逸らす。
「ソフィーナさまをお慕いし、笑顔でいてほしいと願う者は、ハイドランドに数多おります。私もその1人――中でも想いが強いと自負しております。フェルドリック殿下、どうか、」
そこまで言って、ガードネルは再びフェルドリックを見た。
「どうか、ソフィーナさまを幸せにしていただきますよう、切に……、衷心よりお願い申し上げます」
「ガードネル……」
古い知己からの温かい言葉に胸を熱くするソフィーナの横で、フェルドリックは硬い顔のまま、唇を引き結んだ。
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