チイコ

あべせい

チイコ



「河岸(かわぎし)さん、ね。あなた、いい声しているわね」

「ありがとうございます。お問い合わせは、どのようなことでしょうか?」

 河岸は悦に入る。自慢じゃないが、声はおれの唯一の武器だ。

「きょうは、太陽電池の寿命を教えて欲しいの……」

「弊社の腕時計のでしょうか?」

「そォ。最近、おかしくなってきて……」

「修理のご依頼でしたら、このお電話を修理部門にお回します。お待ちください……」

「待ってよ! 修理は……」

「いかがなさいました?」

「まだ修理するほどではなくて。だから、この腕時計についている太陽電池の寿命はどれくらいなのか。知りたいだけ」

「では、時計の機種をお教えください」

「機種って?」

「腕時計の裏蓋に記された、アルファベットで始まる6桁の文字と数字です」

「待って……これ、金属バンドだから……見え、見え、見えないッ。金属バンドが邪魔して、よく見えない!」

 苛立った女性の声がする。

 河岸は慌てて、

「お、お客さま。でしたら、表の文字盤で、けっこうです」

「早く言ってヨ。何を言えばいいの?」

「弊社のロゴの下に書いてあるアルファベットの文字をお読みください」

「エッ、これ?……小さいわね。この文字……見えやしない」

「小さいですか。拡大鏡でご覧いただければ……」

「そんなもの、そばにないわよ」

「わかりました。では、けっこうです。弊社の腕時計に搭載している太陽電池は、すべてスーパーソーラーですから……」

「すべて!? すべてなら、何も裏蓋とか、文字盤とか、見る必要はないでしょうが!」

「い、いいえ、それは……」

 この女、バカじゃなさそうだ。気を付けよう。

「あなた、わたしをなんだと思ってンの」

「お客さま、それは……他社製の腕時計の場合がありますので、念のために……」

「何が念のためよ。いいから、電池の寿命を教えなさいよ」

「失礼しました。弊社のスーパーソーラーの耐用年数は6、7年ということになっております」

「6、7年? 何かの間違いでしょう?」

「エッ、間違い? いいえ、長くて6年か7年程度となっております」

 会社の応答マニュアルにはそう書いてある。

「それはおかしいわ。時計売り場のパンフレットには、『電池交換の必要がないスーパーソーラー搭載』と書いてあったわ。あれは、ウソなの?」

「ウソ!? あれは、ボタン電池を使っている腕時計の場合、役に立たなくなった電池は新しい電池と交換しなければいけませんが、スーパーソーラーはその面倒がいらないという意味でございます」

「ソーラーだって、電池でしょうが。役に立たなくなったら交換しなければいけないンでしょッ」

「はい、おっしゃる通りでございます」

「だったら、交換の必要がある、と書いておきなさいよ。6、7年で交換する必要があるって。わたしはそれに騙されて買ったのよ」

「騙された、っておっしゃられては……弊社の信用にかかわります」

「じゃ、何と言えばいいの?」

「乗せられて、とか、釣られて、とか……」

「おんなじじゃない。あなた、本当にカリタのひと?」

「カリタの河岸です。もう、よろしいでしょうか。ほかにも、問い合わせのお電話がたくさんかかってきておりまして……」

「あなたが自分の名前を言うのは2度目よ。あなた、わたしがなんであなたに電話したか、わかってないみたいね」

「エッ!」

 河岸は息を飲んだ。

「私に電話、って?……問い合わせ窓口にかかってきたお電話を、たまたま私がとっただけですが……」

「たまたま、ね。あなたがいまいる窓口には、全部で何人いるのか知らないけれど、少なくても、6人はいるわね」

「! どうして、そんなことまで……」

「あなた、鈍いのね」

 言われた河岸は、カチンとくる。

「鈍いですか」

「わたし、きょうは、お宅の窓口に電話するのは、これが5本目よ」

「!」

 河岸はようやく思い当たる。

 そういえば、かかってきた問い合わせ電話が、レシーバーをとって、こちらの名前を言った途端切れる電話が4本もあった。それで同僚が、首をひねっていた。

「あなたのほかに、渡辺、堀、太田、吉本、って人がいるでしょう。あなたが5人目。もう1人いるけれど、きょうは5本目であなたにつながった……」

 あと1人の柵木(ませき)は本日、公休だ。

「ということは、河岸と名乗る者が電話をとるまでお掛けになった?」

「あなた、鈍い。本当に鈍い。そこに辿りつくのに、何分かかってンの。それでカリタでよくやっていられるわね」

 だから、いまだに問い合わせ窓口にいるンじゃないか。河岸は、そう言ってやりたい気持ちをグッと抑えた。

「わたしに何かご用でしょうか?」

「用があるから、何度も電話をかけたンでしょうが。あなたの携帯の番号を教えたら、そこに掛け直すわよ」

「必要でしたら、私のほうからお掛けいたします」

「わたしの電話番号がわかる、っていうの?」

「こちらの液晶に表示されております」

「その番号はわたしのじゃない」

「エッ?」

「エッ、じゃないわ。いまは主人の妹の家から掛けているのよ。それに、あなたが掛けてくるとはとても思えない」

 河岸は急に声を低くして、

「かしこまりました。いま仕事中ですので、本来はそういったご依頼は受けかねますが、特別に応じます。但し、電話は、正午から午後1時の間にお願いします。いまから番号をお知らせします。メモのご用意はよろしいですか」

 河岸は携帯の番号を教えると、何食わぬ顔をして、待たせている別の問い合わせ電話を受けた。

 彼がプライベートの携帯番号を教えるという無分別に走ったのは、電話の相手を怒らせるとまずいことが起きるという直感が働いたためだった。

 それは、話しているうちに、電話の女性の正体が、急速に浮かんできたためでもある。

 おれはやはり鈍い男なのだ。河岸はそう自覚せざるを得ないと感じた。

 

 話は、2ヵ月前に遡る。

 1本の問い合わせ電話が河岸に回ってきた。

 河岸の真向かいの席にいる同僚の吉本が、パソコンの上からかわいい顔を覗かせ、左の手の平を立てて拝む仕草をした。

 嫌な相手なのだ。なんでも、話が長く、同じ話をなんどもさせられるらしい。吉本のような若い女性には、我慢ができないのかも知れない。河岸は逆のこともあるので、仕方ないか、と思ってその電話をとった。

 しかし、その前に吉本は、電話の相手に向かって、顔に似合わない小憎らしい捨て科白を残して電話を切っていた。河岸はそれを知らなかった。

「お電話、ありがとうございます。河岸です」

「何が河岸よ。さっきの娘を出しなさいよ!」

「吉本でしょうか」

「決まっているでしょ」

「吉本はお休みをいただいております」

 第一、この問い合わせ電話は、よほどの事情がない限り、問い合わせ相手の指名などは出来ない。吉本は、入社してまだ半年の若い女性だ。

 吉本千衣子。読みはヨシモトチエコだが、親しい者は、チイコとか、チイちゃんと呼んでいる。30代半ばで独身の河岸が、いま最も関心を寄せている女性でもある。

 おれは、ことしこそ、結婚相手を見つける。ローンを組んで、3LDKのマンションも買った。田舎の長兄がしっかり者で、おれは三男だから、両親の面倒をみる気遣いはない。いまおれに不足しているのは、女房だけだ。職場では鵜の目鷹の目で結婚相手を物色しているが、どうしても身近の女性に目がいってしまう。なかでも、チイコは、女性経験の少ないおれには、まぶしすぎる存在だ。

 電話の声は、40代と感じさせる女性。

 女性は万歩計が欲しくていろいろ探したが、最後にカリタの製品が最も信頼できると感じたため、カリタの問い合わせ窓口に電話をして、チイコから機能について詳しい説明を受けた。

 チイコは、最新の機種では、腕時計のように手首にはめたまま、歩数のほか、時刻、気温、湿度、血圧、脈拍、体脂肪が表示され、防犯ブザーやFMラジオの機能まで備えていると紹介し、その機種を教えた。

 電話の女性は、暇だったのか、電話を切るとすぐに量販店に行き、その最新の、高価な万歩計を購入した。

 ところが、その数日後のよく晴れた朝。

 女性は万歩計を手首にはめ、買い物に出かけた。途中、公園のそばを通りかかったとき、突然一羽の大きなハシブトカラスが急降下してきて、女性に襲いかかった。

 女性は驚き、危うく転倒しそうになった。幸い体にキズをつけられることはなかったが、万歩計の液晶画面が大きくヒビ割れする被害を受けた。

 暖かくなった春のこの時期のカラスは、子育てをしていて、警戒心が強く、攻撃的になると言われている。女性が手首にはめていた万歩計の液晶画面が太陽光を反射してキラリッと光り、カラスの防衛本能を刺激して、女性が襲撃されたと考えられる。

 女性は、帰宅後すぐにカリタの問い合わせ窓口に電話をかけ、その万歩計を紹介したチイコを呼びだすと、万歩計の無償による交換と、慰謝料を要求した。

 チイコは、保障の規定にそぐわないからと言って、どちらの要求も拒否した。当然の対応なのだが、相手は承知しない、裁判にかけるとすごんだ。

 チイコも負けていなかった。わずか2万円足らずの商品のためにお客が裁判をするとは考えられない。慰謝料だって、とれるかどうかもわからない。脅しに決まっている。

「裁判がお望みでしたら、どうぞ!」

 と捨て科白のように言って一方的に電話を切っていた。

 河岸が受けたのは、その腹を立てた女性がすぐに掛け直してきた電話だった。

「お電話、ありがとうございます。河岸です」

「何が河岸よ。さっきのひとを出しなさいよ!」

「吉本ですか」

「決まっているでしょ」

「吉本はお休みをいただいております」

 シマッタと思ったが、仕方ない。

「何がお休みよ。いまのいままで話していたのよ。いい加減にしなさいヨ!」

「そうおっしゃられても、吉本は頭痛を訴え、たったいま退出いたしました」

 いい香りがするので、脇を見ると、チイコが河岸に体をぴったりと寄せて、河岸のレシーバーに聞き耳を立てている。

 そんなに近寄ったら、昂奮するじゃないか。と、建前では思っても、もっともっと近付いて欲しいというのが河岸の本音だ。

「あんたネ。あの吉本って娘が、いくつか知ってンの」

 23です、と声が出かかったが、河岸はグッと抑えた。

「あなた、あの娘のことをどう思ってンの」

「どうって? お客さん、お話がよく見えませんが……」

 河岸は、このあたりで気がつけばよかったのだが、彼はその程度の男だった。

「それはこっちの話。あなたたちはお客のことを何と思っている、ってことよ。カリタの社員教育はどうなっているの!」

「吉本は入社仕立てで、まだ不慣れでして、お客さまのお気持ちを害したのでしたら、どうぞお許しくださいませ。私から、叱っておきます。しかし当人は、あれでも、ことば以上にお客さまを大切に思っております……」

 それは大ウソだ。しかし、ここはチイコに対して点数を稼ぐチャンス。チイコが、人差し指で河岸の脇の下をこねくりまわしている。満足しているサインらしい。こんなタッチで気持ちよくなってくるのはどういうわけだ。

 河岸は、久しくなかった快感に頭がボーッとしてきそうになるのを、懸命にこらえた。

「吉本は年老いた母親の介護をしているからでしょうか。道で困っているお年寄りがおられますと、必ずそばに駆けよって、声をかけています。最近では、社内のマナーコンクールで、ダントツの1位を獲得、……」

 それは無記名で投票する電話対応のコンクールだが、吉本には河岸が入れた1票と本人の1票しか入らなかった。

「お申し出の件でございますが、壊れた万歩計をお送りくださいませ。勿論、着払いでお願いします。修理をさせていただいたうえで、後日お送りさせていただきます」

「そォ……」

 相手は急に穏やかになった。河岸の声が怒れるライオンを大人しくさせたのかも知れない。

 河岸は、マダムキラーと呼ぶ者がいるほどの声だ。あまく、やわらかく、あたたかみがある。女性のハートにはグーッと食い込ンでいくらしい。

 このうえマスクがよければ、若い吉本だってイチコロなのだろうが。もっとも、河岸本人は、自分をまんざらでもないと思いこんでいる不幸せに、いまだ気づいていなかった。

「修理代はどうなるの?」

「必ず、私と吉本の責任で、無償修理させていただきたいと考えております」

 修理の有償、無償は、社員ならどうにでもなる。修理依頼品が送られてくるサービス課に、知り合いの修理だからと言って脇に取り除けておいてもらい、修理伝票の無償チェック欄にチェックを入れ、修理部に回せばすむ。細かい報告はいらない。

「お金はいらないのね」

「1円のお金も頂戴いたしません。お約束します」

 相手は満足した。

 これで、事は丸く収まる、はずだった。

 チイコは河岸のそばを離れる際、彼の肩に豊かな胸のふくらみをそっと押しつけていった。

 河岸を有頂天にさせるには、それだけで充分すぎるほどだった。


 そして、この2ヵ月間、何事もなく平穏に経過してきた。この女性のことは完全に河岸の頭から抜けていた。

 きょう電話を受けたときも、万歩計と腕時計の違いはあるにせよ、声を聞いてすぐに思い出せただろうに、河岸はチイコのことが気になっていて、ふだんの思考状態になかった。

 彼は昨晩、チイコと初めてデートにまでこぎつけていた。ブランド品のリサイクルショップに始まり、居酒屋、最後はチイコが懇意にしているという小さなスナックに連れて行かれた。

 しかし、河岸は不覚にも酔いつぶれた。自分では、そう思っている。

 気がついたときは、タクシーの中だった。

「お連れさんは、さきに降りられたですよ」

 運転手にそう教えられ、自分のアパートに着いたときは、1万円近い乗車賃を請求された。

 午前11時半から午後1時半までの2時間は、基本的には6名のうち3名づつ交替で昼休みをとり、残る3人でお客からの問い合わせに応じる。

 きょうは柵木が休みのため、11時半から休みに入ったのが2人。河岸はその2人が戻ってきたので、入れ替わりで休憩に入ることにした。

 河岸と一緒に休みに入るのは、堀とチイコ。河岸はチイコと2人で一緒に昼食をとりに行こうと席を見たが、チイコの姿がない。いつの間に?

 河岸は不思議な気がしたが、目の前の席にいる彼女の動きに全く気がつかなかった自分を責めた。

 堀は河岸より5つ若い28の男性だ。ずんぐりしている河岸に比べて、すらりとしていて、タッパもある。顔は……いい勝負じゃないか……。

 河岸がそんなことを考えながら、牛丼店に行く前に、熱いお茶を飲んでおこうと思い、3階廊下の突き当たりにある、半畳余りの給湯室に行った。

 と、給湯室の隣の応接室のドアが、わずかに開いている。

 お客がいるのなら、しっかり閉めておかないとダメだろう、と余計なことを考えたのが、いけなかった。

 彼は中にひとがいるか確かめようと、静かにドアを開いた。

 その瞬間、彼は慌ててドアを閉じた。いけないものを、見てシマッタ!

 チイコが堀に抱きつき、2人はしっかり互いの胸を合わせていた。

 ドアが開いてびっくりした彼女の顔は、猛犬に襲われたような恐怖でいっぱいの表情だった。それでも、河岸にはかわいく見えた。

 しかし、同時に彼はどうにもならない衝撃に包まれた。昨晩、どうしてタクシーのなかで目覚めたのか、彼女からその顛末を聞くつもりでいたのだが、そんなうすぼんやりした妄想は吹き飛んだ。

 ドア越しに応接室の中から声が聞こえる。

「チイコ、いまのはだれだ?」

「あの、ずんぐりムックリみたい……」

「カリタのチャウチャウか。おまえ、昨日、つきあったンだろう?」

「仕方ないじゃない。エルメスのバッグが欲しがっているのをだれから聞いたのか知らないけれど、安い店を知っているっていうから……」

「買わせたのか」

「あいつが勝手に買ったのよ。一度も使っていないといっても、中古よ。いちばん安いクラッチバック。家に帰ってから、よォく見たら、底のほうにシミがあって、いやになっちゃう……」

「それからホテルに、かッ」

「わたしにだって、それくらいの分別はあるわ。バッグ代くらいのお返しは、しとかないと後がたいへんだから。居酒屋のあと知り合いのスナックに行って、きついアルコールを飲ませて、静かに寝てもらって……」

 河岸は廊下に立ったまま、しばらく聞き耳を立てていたが、男と女の内緒話を盗み聞きしている自分が、ようやくいやになって、すごすごと退出した。

 エルメスのバッグは質流れだが、5万円もした。河岸にとっては、ネットで中古のパソコンを買って以来の大出費だった。それなのに、手も握らせず、タクシーに乗せられ、寝かされてしまった。

 あれは、ウイスキーに一服盛られていたに違いない。エルメスのバックを買うとき、チイコは言った。

「こんなに高いの、無理しないでいいのよ。河岸さんとは、まだ恋人未満なンだから。それとも、思いきって、ラブラブになっちゃおうかな……」

 そうして、おれの太股をさっと撫でた。河岸は、そのひと撫でで、慣れないクレジットカードを思いきって使ってしまった。

 チイコに、あんな男がいたとは。灯台下暗しというが、暗すぎる。堀は、おれの斜め前、吉本の右隣の席だ。そんな2人にいままで気がつかなかったなンて。バカにもほどがある。

 河岸は、自分の愚かさを呪った。

 気がつくと、いつも行く牛丼店の前だった。エルメスのバッグ代の損失を埋め合わせるためには、しばらく昼も夜も、牛丼店にするしかないだろう。

 河岸がそう考えたとき、携帯が鳴った。非通知だ。

「もしもし」

「わたし、わかるでしょ」

 河岸は時計を見た。1時5分前。あの女だ。

「何でしょうか?」

「あなた、33なんですって?」

「だれに聞かれたンですか」

 河岸は、突然身ぐるみをはがされるような恐怖を覚える。

「あなた、昨夜、チイちゃんと何もしなかったンだって?」

「待ってください。あなたはどなたですか」

「わたしは、チイちゃんの叔父さんの女房よ。そんなことも知らなかったの。仲が悪くて、よくケンカするけれどね。チイちゃんが、カリタに勤め出したから、いろいろ余禄を回してもらっているンだけれど、あの娘、融通が効かないから、2人でしょっちゅうケンカしているわ……」

「待ってください。それじゃ、問い合わせ窓口にどうして電話をかけて来られるンですか」

「あなた、鈍いから話すけれど……」

 鈍いは余計だ。

「あの娘、尻軽だから、早く結婚させたいって、周りはみんな考えているの。で、職場にいいひとがいないか、調べてみようということになって。この2ヵ月、みんなで交替して電話をかけて、応対ぶりなどをチェックしていた、っわけ。あなた、聞いてる?」

 聞いているゾ! カリタの問い合わせ窓口をなんだと思っているンだ。

 河岸はどなりつけたい気分になった。

「わたしとわたしの主人、あの娘の両親の4人で出した結論は……」

 河岸は、この期に及んでも、じっと息を詰めた。

「年齢的にも、お客に対する言葉遣いでも、あなたがいちばん……」

「本当ですか!」

 河岸は、心底、ひとがいいのかも知れない。

「あなたがいちばん人間的にも豊かで、いいンじゃないかと思ったの……」

 そりゃそうだろう。6人のうち、女性はチイコと5つ年上の渡辺。男性は河岸を除くと、堀と太田、柵木の3人だが、3人は河岸より3つも4つも若い。伊達に年はとってはいない。

 河岸は、誇らしげな気分になった。

「第一、声がステキ。でもね。チイちゃんの気持ちもあるでしょ……」

 上げて落とすのか! 河岸は暗い落とし穴に落ち込む自分を想像した。

「それで、あなたに掛ける前にチイちゃんに電話で聞いたの。『だれがいいの?』って。そうしたら……」

 聞かなくても、わかっている。河岸は、年上の渡辺の顔を思い浮かべた。チイコは高望みだった。渡辺なら……。

「チイちゃんは言った。『河岸さんは、女性にすぐに手を出すにひとじゃないし、仕事も真面目だし、声もいいし……』」

 まだ、おれに目はあるのか。

 河岸は淡い期待をつなぐ。

「『ただ、話がおもしろくないの。退屈で……』」

 やっぱり。しかし、話術を上達すれば、おれでもいいのか。チイコ、そうなのか。

「奥さん。堀はどうなンですか」

 いきなり、奥さんと呼びかけて、相手はびっくりしたらしく、

「堀さんね。チイちゃんもあなたの次に考えている、って。でも、こうも言っていた。『堀さんは、気前がよくて、カッコいいけど、浪費家でお金が貯まらない。貯金ゼロになったと言って自慢しているって。それに、だれにでも手を出す女たらしだし。遊び相手には最高なンだけど、な』って。そんなことを言っていたわ」

「もし、もしですよ。もし、ぼくが話の上手な男だったら、彼女はぼくのことを本気で考えてくれるということでしょうか?」

「そのようね。でも、あなたにできる?」

 努力しないうちから出来ない、とは言いたくないが……。

 河岸は人前に出ると、考えていることの1割も口に出せない自分を知っている。

「そう。だったら、やってみることね。わたしからの話はそれだけ。チイちゃんに頼まれたわけではないわよ。チイちゃんの保護者の意見を代表して伝えただけだから」

「ありがとうございます」

「お礼を言うンだったら、代わりに、腕時計の壊れた太陽電池も、交換してよ」

「はい。着払いで送ってください。大至急、無償で交換させます」

「あなた、いい人なのね……」

「そんなことは……。きょうはわざわざ、お電話いただき、ありがとうございます」

 すると、いきなり、河岸の肩を小突く者がいる。

「なに、携帯を前に持って何度も頭を下げてんの」

 チイコが、肩を並べるように河岸のすぐ隣にいる。

「吉本さん! どうして……」

「河岸さんは相変わらず固いのね。もう一緒にお酒を飲んだ仲なンだから、チイちゃんと呼んで……」

「しかし……」

「わたしも、速雄さんと呼ぶから」

「ぼくの名前、知っていたンですか」

「もっと、いろんなことを知っているから」

「しかし、堀さんと……」

 堀と熱く抱き合っていたチイコの姿が蘇る。チイコも思い出したのだろう。

 顔を赤くして、

「カレとはまだ何もしていないわ。あれは仕方なかったの。カレにお金を借りているから。給料日に返すと言っているのに、すぐ返せ、いま返せ、って。応接室に引っ張り込んで。でも、それ以上の深い関係はないンだから。信じて……」

 信じていいのか。河岸には、それを冷静に判断する心の余裕がない。

「もう食事はすんだの?」

「は、はい……」

 これから、とは言えない空気がある。

「じゃ、一緒にお茶しない?」

「はッ、はい」

 喫茶店でサンドイッチでも食べればいいか。

「バッグのお礼もしたいし……」

 チイコが、左手で、そっと河岸の右手を握ってくる。

「チイちゃん、ぼく……」

「速雄さん、ってホント固いのね。さァ、行こう。きょうオープンしたおしゃれな店があるから」

「はッ、はいッ」

 河岸はチイコに手を引かれるようにして歩き出す。

 チイコはまっすぐ前を見て、

「わたしたち、もっと深い関係になったら、チイコと呼んでね」

「エッ! チイコですか」

 河岸は、突然のチイコの変わりようについていけない。携帯の電源を切り忘れていることにも気がつかない。

 河岸に電話をかけてきたチイコの叔父の女房は、2人の会話をこっそり聞きながら、考えている。

 あの娘は、男をお金でしか見ない癖が、やっぱり治らないみたい、と。

「チイちゃん……」

 河岸がつぶやくと、

「なァに……」

 チイコが歩きながら、かわいい笑顔で河岸の顔を見上げる。

 そのとき、河岸は思い出した。

 堀が応接室で、彼女のことをチイコと呼び捨てにしていたことを。

                (了)

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チイコ あべせい @abesei

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