膿
ジリリリリリとけたたましく、始業のベルが鳴った。ネイドとユーファのいるテーブルを避けていた生徒も、しぶしぶそのテーブルに座った。
ベルが鳴り終わり、電気を消した先生が話し始める。ホワイトボードに世界地図が映った。言語圏によって色が塗り分けられている。
「さて、昨日はディダル語で自分の好きなものをクラスメイトと話してもらいました。
話を振られて返す力は、決まった文章を読み上げるだけでは定着しない力です。
その力を伸ばすために、今日はディベートをしてもらいます」
生徒は口々に文句を言った。先生は手を叩いてそれを収めた。
「ディダル語圏は広いです。ディダル語を話す人も多い。移民も多いです。
それだけディダル語を使えるのは役に立ちます。
何より、交流し、わかりあい、知り合うことは自分の成長の糧となります。
なので———」
と、先生は話し続けた。
ぼんやりと話を聞きながら、ユーファはとなりのネイドに視線を送る。目をキラキラさせながら言語分布を見る彼を、ユーファは目を細めて眺めた。
ディダル語も終わり、その後の数学も終わり、もう空が真っ赤になっている時間になった。
「フォセカみたいだよね」
ユーファの前の机に寄りかかりながら、窓の外を眺めていたネイドが、ぽつりと言った。
「え?」
タブレットで課題のチェックをしていたユーファは顔を上げる。
「夕方の空」
「あぁ、うん…そうだね」
ネイドの見ている方と同じ方を向く。
「いいよね、夕方」
ほほえみながらユーファは返した。ネイドは彼の方を見て首を傾げる。
「青春?」
「うん」
タブレットの方に視線を戻したユーファに、ネイドは言う。
「ぼくらよりケルヴァたちの方が青春してるかもね」
「そうだろうなぁ」
「今何してるかな?」
少し、うーん、とうなってから
「ゲーセンにでもいるんじゃないかな」
と上目遣いにネイドを見上げた。
「ゲーセンかぁ。行ったことないかも」
今までの記憶を辿るように目を動かしながらネイドは言う。バッグにタブレットを入れながらユーファはびっくりしたように言った。
「そうなの?」
それにネイドはうなずく。
「楽しいものが小さい頃から家にあるからかな」
「楽しいものって?」
「うーん…ロボットとか」
「ロボット⁉︎」
「お母さんがロボットとか作る人なんだよね」
席から立って、バッグを掴んだユーファの隣にネイドは並んだ。
「楽しそう」
「楽しいよ。生きていないし、プログラム通りではあるけど…」
にぱっと笑って、ネイドは言った。
「作ったのはぼくら生きてるものだし、あったかいよ」
そんな彼を見て、ユーファは羨む。
「いいなぁ」
教室の扉を開けながら、ネイドは付け足した。
「ま、あったかいのはただのオーバーヒートだろうけどね」
教室から出ていく彼の背中を見ながら、なんともドライだな…とユーファは少し放心した。
家に帰り、夕飯を食べ、風呂を済ませ、あとはベッドに寝転がって眠るだけというときになった。ベッドのシーツに顔を突っ込みながら、ユーファは考える。
(僕も、前進しないと。…違う。僕だって、前に進みたい)
どっぷりと、黒く腐った思考の膿に潜り込む。その先にはやっぱり、彼がいた。
◆
「久しぶり」
真っ黒なべとべとの中を歩きながら、彼に向けて言う。うざったそうな視線をよこす彼に、少年は眉を八の字にしながらも目の前の彼に近づいた。
「なんだよ」
つっけんどんに言ってくる彼に、少年は笑うしかなかった。それに彼は眉をしかめた。
「ニゲラ…ネイドと実際に友達になって、浮かれてんのか?」
そう言う彼に、少年は返した。
「浮かれてるよ」
「開き直りかよ」
吐き捨てるように言う彼に、少年は冷静に返す。
「本当だよ。浮かれてる。嬉しいんだ」
「また、お前は差し出された選択肢で満足するのか?」
嫌悪をむき出しにした彼に、少年は縦に首をふった。
「満足するよ」
「お前はまた…」
罵倒し始める彼を、少年はさえぎった。
「でも。これは違う」
「これって?」
なだらかで穏やかな雰囲気のまま、少年は告げた。
「きみはもういらない」
彼は息を呑み、1歩、2歩と後退した。
「よく考えたら、きみを作った理由は、今はもう自分一人でできることだ。むしろ、きみは無駄に目隠しをしてくるようになっているんだ」
淡々と、まるで、なんでもないことかのように、少年は続ける。
「きみは僕を刺せない。でも、僕はきみを刺せる」
初恋をした娘のような笑みで、少年はつぶやいた。
「だから、もう、あきらめて」
少年が言い切ると、彼は膿に沈んでいった。
「嫌だ、なんで! なんで、なんで…」
悲痛な叫びを聞きながら、少年は顔を歪めるが、彼の「なんで」に答える。
「大丈夫、きみだって僕だから」
「嫌だ! なんで、なんで僕が消えなきゃならないんだ!」
「大丈夫」
「僕だってお前だ!」
彼の星色の瞳を、真っ直ぐに見返しながら、少年は言う。
「僕がきみを作った。友達が欲しかったから、僕がきみを作った」
「僕だって」
「きみは僕を作ってない。きみは、何も作っていない」
彼は、叫ぶもむなしく、膿の底へと沈み、沈み、沈み…そして、溶けた。
◆
ユーファが目を覚ますと、朝だった。
変な体制で寝たせいで、腰が痛い。
それと同時に、心が少し、どこか欠けたような、軽くなったような気がしていた。
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