学校にて その3
朝の大通りは非常に騒がしい。
どれほど耳を覆ったとしても、鼓膜を揺らす波は阻害できない。ヘッドホンをつけて曲でも聴けばいいだろうと思うだろうが、それでも雑音として聞こえてしまう。完全なる無音はないのだと諦めるしかない。
しかし雑音に興味がなければ克服できる。それを成し遂げている少年がここにいた。
少年の薄黄色い瞳はどこか遠くの、はたまたすぐ近くの何かを見つめていた。それでいて伽藍堂で誰もいない。幽体離脱をして上から体を魂の糸で操っているのだろうか。そんなことはあり得ないが。
今日、いつも通りにできるかな。
学校にいる奴らは関係ねーだろ。スイッチでも入って通常運転でいけるんじゃね? 行き当たりばったりがお前の人生じゃん。
すぐにそうやって僕の人生全部に話広げるよね。
確かにな。お前がそれを望んでいるんじゃねーの。達観した自分が欲しいんじゃねーの。僕にはよくわからないけどな。
結局のところ、きみはそうなんだよね。刺せば終わる。
刺せるの? 僕はお前なのに。お前はお前を刺せるの?
いや、僕は刺さない。きみにきみ自身を刺させるよ。きみはそれができるだろう?
本質は変わらないよ。
僕はそれがいいんだよ。
あっそ。
少年は息を切らすことなく坂を登りきり、学校の敷地内に入っていった。僅かに垂れた汗に、生ぬるくて弱い風が触れる。右手に引っ掛けられたようにぶら下がるカバンは風によって動くことはなく、少年の歩みに合わせて揺れるだけだ。
地面を見ながら透明な扉を開くと、前方から足音が聞こえた。それからずりずりと這うような音も。なんだろうと思い、視線を上げると、そこには髪が藍色の人間と黒いヴァジが並んで歩いていた。少年の目が見開かれる。だがすぐに頭を振って歩いていった。静かで無音の空間に二人分の足音と鱗が床をこする音が響ている。少年は歩く速度を早めて急いで教室に向かっていった。
見間違えてやんの〜。
仕方がない。あんなに似てるんだから見間違わない方が難しいよ。
まあな。いやーあそこまでソックリなやつがいるんだな。びっくり。世界には自分と同じような見た目をした奴が何人かいるって聞いたけど、おんなじ国のおんなじ州のおんなじ町にいるのはすごい確率じゃね?
うんうんそうだね。
あしらうならもっと優しくできないの?
できるけどきみにはしたくない。
乱暴に教室のドアを開き、廊下の静寂を叩き割って粉々にしてばら撒く。自分の席に座ると、少年はカバンを開いた。
お前さ、焦りすぎじゃね? みすぼらしいぜ兄弟。
うるさい黙れ僕だってなんでここまで焦ってるのかわからないんだよ。
お前の語彙力『うるさい黙れ』ばっかりだな。本読みな。
毎朝読んでるよ、知ってるでしょ。
まあな。ていうかお前、自分のことわからなすぎだろ。僕に指摘されてやっと気づいてる。もっと自分のことについて考えろ。
お前がいつも悩んでいることは自分のことのように見えるが、実際には周りから見た自分なだけだ。純粋に自分のことだけについて考える時間を設けろ。僕に手助けされない時間をな。
もう飽きた。また面白そうになったら出てきてやるからそれまではボッチでお利口に座ってな、無知な優等生サマ。
自らいなくなってくれて清々するよ、劣等生。
少年は机に置いたカバンで何をするでもなく、顔を突っ伏した。赤黒い皮膚の裏が視界を覆い被さって風景を削除した。聴覚の膜に触れる波紋だけが触れずに情報を伝えてくる。大好きなはずの静けさが、心地いいひだまりとまどろみが、空いている窓からぼんやりと滲み入ってくる乾いた暑さが、スニーカーと冷たい床がぶつかる音が、何もかもが、少年の意識の外の外。もう少年の目に映る全ては現実から引き離されていく。
「ソレヂャア、一体全体何ガ見エテイルノカ」と問われたとて、これといった返答は一生帰ってこない。
少年の脳内に広がる風景は一瞬で変わっていく。止まることなど知らない。ヘドロの塊と、恐ろしい魔物が混ざり合い炎天下のもと溶けていく。泥と愛憎と腐った果実が塊として美しくそびえ立つ透明なガラスの塔に突き刺さってヒビをうんでいく。
割れた部分が膿んでいく。気持ち悪い物体がその傷口から溢れかえって漏れ出して、どろどろのぬかるんだ地面に落ち吸収されて天に還っていく。少し遠くには枯れ木が群れて身を寄せ合って折られる瞬間に恐怖しながら微動だにせずに突っ立っている。その世界に少年は存在しない。
そんな世界が砕け散って戻らなくなった。
「おっはよ〜!」
教室に入ってきたダルカの眩しい声が少年の鼓膜を殴った。少年はカバンから顔を上げ、いつもよりずっと早く登校してきた友人の姿を視認する。
「今日早いね」
「なんとなく早めに来てみたぜ。嬉しいだろ」
「うん、新鮮」
いつもの優しい笑みを浮かべ、少年はダルカと話しながらカバンを机の横にかける。ニコニコと楽しそうにしている少年を、ダルカは静かに見つめる。横一線に結ばれた唇を舐めて、口を開こうとした。
「朝早く学校に来るのも楽しいでしょ?」
薄く開かれた口から流れ出る声と細められたまんまるくて黄色い衛星に見詰められ、ダルカの言葉が出る幕もなく消え去る。
「ほら、いつもと違ってさ。異世界みたいな。ダルカってそういう本好きだったよね?」
たった少年の声だけが優しく柔らかく空間の中を打ち寄せてかえっていく。
「うん、好きだよ。めっちゃ読む」
無理だ。
「やっぱり。なら普段から早く来なよ」
これ以上は無理だ。
「そうしよっかな〜」
ここが境界線。もう
「でもできる?」
こいつの心に踏み込むことは
「今日できたしいけるっしょ」
許されない。
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