第9話 過去の記憶

「私はこれから仕事をするから、ここで大人しくしててね」


ミルはそう言うと、ニコニコ笑いながら部屋から出て行った。

出て行ったのを見送ると籠の中でぐったりする。


「ミャーフー」


思わずため息の混ざった、変な鳴き声が出た。

先ほどの事を思い出す。

まさか体をひっくり返されて足を広げられるとは思わなかった。思い出すと、顔が熱くなるのを感じた。


(誰かに体を洗われるのは、王族というのもあってよくある事だから慣れているが、あんなところを見られるなんて……)


爪と肉球の付いた前足を眺める。

落ち着くために籠の中で、グルグル歩き回り座り直す。

毛が濡れているせいか少し不快だが暖炉の火は温かいので、すぐに乾くだろう。

色々あったせいなのか疲れがどっと襲ってくる。

そもそもの失敗は、インクを使おうとしたところから始まった。

ミルに助けを求めようと決意したのはいいものの、いざインクを使おうと思ったら、そのインクの蓋を開けることが出来ないことに気が付いた。


(猫になっているんだから当たり前だ……)


それでもなんとか、コルクの蓋を開けることには成功したのだ。しかし、その反動で机から転がり落ち、もたもたしていたせいでそれと同時にミルが帰って来てしまったのだ。

そして体を洗われるはめになった。


(その後、ローグと名前を呼ばれた時も驚いたな……)


すぐに偶然だと分かったが、ミルも俺を猫にした連中と関係があるのかと一瞬思ってしまった。

部屋の外でタタタと歩く音やごそごそなにかしている音が聞こえる。

ミルが俺の頭を撫でてニコニコ笑っている姿を思い出した。まるで子供に言うように可愛い可愛いと言われてしまった。

まさかこんな大人になってから言われるとは……。


「フー」


思わずため息を吐く。

とは言え仕方がない、気持ちを切り替えて次はどうするか考えないと。無意識に自分の身体を舐めて毛づくろいを始めていた。動物の本能なのだろうか。しかし、おかげでかなり落ち着いた。


(もう一度、作戦を練ろう)


インクの瓶は手の届かない場所に移動されてしまった。

これでは何か書いて伝える事ができない。

他の方法を考えるか、なんとかもう一度あのインクを手に入れて伝えるか……。

インクは高い棚に置かれてしまったので割る覚悟で落すしかない。それ以外だと、ミルがインクを使うこともあるだろうしその時を狙うしかない。


(……なんだか眠い?疲れたか……。しかし、考えないと)


温かい暖炉の熱のせいか、頭がぼんやりしてきた。

のんびりしている場合じゃないのにと思っていたのに、気が付いたら籠の中で丸くなって眠っていた。


(ダメだ……今は寝たら……)


誰かに撫でられているのに気が付いて、俺は目が覚める。


「あ、起きた」


ミルは目が合うと嬉しそうにそう言った。


「起こしてごめんね、もう暗くなったし夕食にしようと思って……でも、よく寝てるしどうしようかと思って撫でてたら起こしたね」


もしかして、起きるまで撫でていたのだろうか。外を見ると眠った時は明るかったはずなのにもう薄暗くなっていた。


「ふふ、ローグは暖かいから撫でてるだけでも気持ちいいんだよね」


ミルはそう言って俺を抱き上げ、また撫でる。かなり眠ってしまっていたようだ。なんだか恥ずかしい。


「暖炉の火のおかげでポカポカだね。洗ったおかげで毛艶もよくなったし。よかったよかった」


そうしてミルはキッチンにむかった。


「今日はミルクしかあげてないからお腹空いたでしょ?口に合うのか分からないけど……」


そう言ってミルは俺を椅子に乗せ、テーブルに魚の身を解したものとミルクを置いた。

猫に食事を出すのだから床に置くのかと思ったがテーブルに置いたので少し驚く。

しかし、ミルは相変わらずニコニコ笑って今度は自分の食事の準備をしている。本人は何も気にしていないようだ。

ミルは椅子に座るとあらたまった態度で言った。


「ローグ、あらためてこれからよろしくね。私はいい主人になれるか分からないけど頑張るね」


ミルは真面目な顔でこちらをみつめる。

どうやらミルは誠実というか馬鹿真面目な人間らしい。わざわざ使役した猫にこんな事を言う必要もないはずなのに。

しかし、そうなるとますます俺の事情に巻き込むのは悪い気がしてくる。


(自分が人間だと言っていいのか……)


ミルは満足したのか、ニコニコした笑顔で食事を食べ始めた。

仕方なく、俺も出されたものを食べる。魚は味付けもされていなくて淡泊だったがお腹が空いていたこともあってとても美味しく感じた。感覚が猫になっているのも原因かもしれない。


(猫なのだからともっと酷い残飯が出されてもおかしくない、猫にされてしまってから碌なことが無かったが……まだましかもな……)


食事が終わったころ、どうやら外は雨が降って来たようだ。風も吹いてきた。


「うーん、ひどくならないといいけど……」


ミルはそう言って、心配そうな顔をしつつも戸締りをすると、寝る準備をし始めた。

眠るのが早いなと思ったが、ランプの油も安くはないだろ。王宮暮らしに慣れていてそんなこと考えたこともなかった。

俺も籠の中に入って寝ることに。


(俺が人間だと伝えるにしても、今日はもう無理そうだしな)


お腹が一杯になって眠ったことで、気持ちも少し落ち着いたのかもしれない。慌てても碌な事にならない。事実、インクの瓶を落としたことで目的がさらに遠くなってしまった。


(明日から、もっと慎重にことを進めよう)


そうして俺は目を閉じた。

それから、どれくらいたっただろうか。強い風の音で目が覚めた。


(なんだ?随分うるさいな……)


降っていた雨がいつの間にか嵐に変わっていたようだ。ごうごうという風の音と雷の音もする。凄い音で窓も揺れていて、その音で起きたのだ。

またひどく大きな音で雷が鳴った。体がビクッと震える。


(そういえば……俺が子供のころ……)


ふと子供の頃の事を思い出した。

俺は子供の頃、城で一人でいることが多かった。

使用人の子供ということなのか、身の回りの事をしてくれる使用人は一人しかおらず、その使用人も必要最低限の事しかしないし、すぐどこかにいなくなってしまっていた。しかも、その使用人も頻繁に人も変わるので、俺はずっと一人だった。


(今思えば、王妃がそうなるように手配していたんだろう)


寝る時も広い部屋で一人ぼっちで眠らなくてはいけなかった。

だから、こんな風な嵐になって雷が鳴っていた時も、ただ音に怖がりながらただ震えながら朝になるまでベッドの中で丸まっていることしか出来なかった。

今はもう大人になったので怖くないはずなのに、雷の音と暗闇のせいでその事を思い出して一気に心細い気持ちになってきた。

猫になってしまって、さらに使役獣にまでなってしまったことで不安が一気に膨らんできたのかもしれない

またひと際大きな音で雷と風の音で、またビクッと体が震えた。


「うわ!凄い音」


流石の音に驚いたのかミルも起きたようだ。寝ぼけた顔で起き上がると。窓から外を見た。


「酷い風になってるわね……」


ミルは深刻そうな表情でそう言うと、ローブを羽織ってパタパタと外に出て行った。どうやら外で飛ばされたら困るものを片づけたり、窓を板で塞いでいるようだ。

しばらくすると風でバタバタしていた窓も静かになった。


「ふう、少し濡れちゃった」


ミルはそう言って体を拭きながら戻って来た。


「あれ?ローグも起きたの?凄い音だったね」


そう言ってまた頭を撫でた。


「うん?もしかして震えてる?怖かったのかな?」


ミルはそう言って俺を抱き上げる。無意識に震えていたようだ。


「大きい音で、びっくりしちゃったね。今日は一緒に寝ようか」


ミルはそう言うと、俺を抱きかかえたままベッドに入った。寝転がると俺を横に置いてシーツを被せる。


「ふふ、こうしたらもう怖くないでしょ?」


そう言ってまたミルは俺を撫でる。



また、子供みたいな扱いをされているようで複雑な気持ちになった。昔の事を突然思い出したのもこの事があったからかもしれない。

それでも、窓を抑えた所為か音もなくなって、気分も落ち着いてきた。シーツをかぶったおかげで雷の音も遠い。


「ローグ、こんな事言うと怒られるかもしれないけど……」


ミルがゆっくり俺を撫でながら言った。


「ここに来てくれてありがとう。ローグは怪我をして大変だったのにごめんね……」


ミルは申し訳なさそうな表情だ。


「でも、本当に来てくれて嬉しいの……」


そう言ってミルはまた優しく俺を撫でる。


「私ね、ここよりももっと遠くの田舎で生まれたの。本当に畑しかないところで育ったんだけど、魔力があるって分かって王都まで来たの」


そう言ったミルの表情は少し悲し気だ。


「両親は最初。私が魔法使いになるのは反対してたんだ。でも私は魔法使いになって沢山の人を助ける仕事をしたいって言って、説得してここに来たの」


ミルの撫でる手つきは優しくて暖かい。無意識に喉がゴロゴロ鳴ってしまう。


「最後は両親も賛成してくれて、無理してお金まで作って送り出してくれたのに……いざ学校に入ったら落ちこぼれって言われるくらい魔法が使えなくて……」


ミルは昔の事を思い出したのか目から涙がジワリと滲んだ。


「それなのに、お父さんもお母さんも気にするなって、いつでも帰ってきていいって言ってくれて……」


そう言ったミルの表情には悔しさが滲んでいた。


「でも……このまま諦めたくなくて……」


詳細は分からないがミルはここまで相当苦労してきたようだ。


「頑張ったけど、ずっと成果が出なくて……でも……」


ミルは柔らかく微笑む。


「でも、あなたを使役できたおかげで、変われた……ありがとう」


そうして、くしゃっと耳の後ろをかいてくれた。自分では触れないところだから気持ちがよかった。


「私はまだまだ未熟だし、貧乏だけど。ローグのことは私が絶対に幸せにする……」


ミルは決意するように言ったあと、俺のおでこにキスを落した。


「じゃあ、おやすみ……」


しばらくするとミルの寝息が聞こえ始めた。もぞもぞと動く音と心臓の音も聞こえる。


(誰かと寝るって、こんな感じなんだな……)


子供みたいに撫でられるのは相変わらず変な気持ちだ。

でも、嫌な気分じゃない。

子供のころこんな風に撫でてもらったことは無かった。

すぐ側に人がいるからかとても暖かい。眠たくなってきた。

うとうとしていると、夢うつつにそう言えば、一度だけ俺の頭を撫でてくれた人がいた事を思い出した。

しかし、気が付いたらそのまま眠っていた。

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