A氏

にのい・しち

死臭の患者

 看護師に車椅子を押され、このカビ臭い部屋へ運ばれて来た、30代の男性。

 両足が不自由でスキンヘッドに血管が、うっすら表面化する色白の肌。

 目は見開き、こちら見てはいるものの、どこか別の場所、違う次元に心を奪われている節が伺える。

 彼は殺人を10件犯し一審で死刑を求刑されたが、再度行われた精神鑑定の結果、心身に異常があると認められ、刑法第39条に基づき二審で無期懲役へ減刑された。


 人権保護の観点から、この男性をA氏と呼ぶ。


「先生、こんにちは」


 私は彼の精神鑑定を担当する主治医だ。

 担当になってから、かれこれ2年。

 A氏という人物について、かなり詳しいつもりだ。


「先生、グーフィーは悪者だったんでしょうか?」


 グーフィーとは90年代のアメリカを震撼させた殺人鬼、ルイス・アルフレド・ガラビート・クビヨスの愛称だ。

 拷問、強姦、殺人は100件ないし300件とも言われ、その犯罪記録がギネスブックに載る程の悪魔だ。

 そんな凶悪犯だが、グーフィーという似つかわしくない愛称で、当時の捜査関係者に呼ばれていたそうだ。


「グーフィーは殺人鬼とかサイコパスと言われてたけど、グーフィーの犠牲者はほとんどが内戦で親を亡くし、路上に溢れた浮浪児だっのです。放置して置けば盗みや暴行で、市民に危害を加えていたかもしれない。現にグーフィーが殺害して回ったおかげで、コロンビアの街は路上生活する子供がいなくなったそうです。結果的にグーフィーは街の治安を守ったんですよ」


 A氏は幼少期に周囲から受けた暴力、歪んだ性体験を持ち、同じような生い立ちである殺人鬼グーフィーに自身を重ね、信奉している。


「社会正義なんて、つまるところ結果論です。掲げた声の数が現実になってこそ正論となる。弱者や人権を守らなければならない。この守らなければならない論理は、長い歴史で植え付けられたものです。正論とは限らない。数百年前は社会を発展させる為に奴隷が必要だった。奴隷を使うことは正論。女は子供を生むだけの存在。女は男の言うことに服従するのが正論。今の価値観では信じられないような倫理が、正論だった時代があるのです」


 車椅子に座るA氏は、いつになく機嫌がいいのか、饒舌じょうぜつだ。

 入所以来、ここまで口を開いたことはない。


「義務教育や何かの集団に属することで、人は幼いうちにルールや何かに従属しなければ、生きていけないと本能的に理解する。そうやって人格が形成される頃になると、法律や社会性を身につけて、いつのまにか"まとも"という首輪をはめられる」


 私はA氏に耳を向ける。


「話が逸れましたね。ある条件下に置かれると、人は道徳観や倫理を逸脱してしまうんです。例えば人種差別。肌の色が違ったり、違う歴史と文化を歩んで来たり、自分より劣っていると感じた存在、そういうった人種に対しては人間扱いなどしなくて良い。当たり前に持っていた性善説が覆ってしまうのです」


 反論も異論もなく、ただただA氏の聞き役になる。

 A氏の声は耳障りがよく、心地の良い響きで鼓膜をくすぐる。

 催眠術をかけるように、彼は甘美な声で相手の意識を奪い取る。


「一番、表面化するのが戦争ですよ。戦争になると自分と敵に別れる。いくら国連や協定で人権が保証されても、命の奪い合いになる戦場では、戦う兵士を人間だなんて思えなくなる。相手の人権なんて考えてるうちに、自分が敵に殺されますからね。そこに、常識やまともな考えなんて、通用しません。理性や倫理を守って死ぬか? 自身の命を守る為に敵を殺すか? どちらが正論ですかね」


 私の意識は朦朧もうろうとしてきた。


「今、並べた言葉の数々は証明されなければ、ただの妄言です。やはり、理論や仮説は証明してこそ現実になり、意味を成す。僕はこれから"それ"を証明しようと思うのです」


 唐突に奇跡が舞い降りたのか、A氏は車椅子から立ちあがった。

 いや、物の見方を変えると彼は、心神喪失を装い、自力で立てるにも関わらず、車椅子で無抵抗な患者を演じていたのだ。


「なので、いつまでも狭い部屋、煉獄のような病院でくすぶっている訳にはいかないのです……先生? 聞こえてますか?」


「あ、あぁ……がはぁっ」


 身悶えする私の視界にはA氏の隣で、袖を赤く汚した、看護師の姿があった。

 

 私はA氏を連れて来た看護師に、背後から首をナイフで切り裂かれ、机に伏せる。

 自身の血で頬と髪を汚し、苦痛で思考は断続的に停止する。

 もう息は長くない。


 私はA氏の演技を見抜いていた。

 故にA氏に注目し彼の精神を深く探る事に固執し、洗脳されA氏の信者となった看護師の心の変化に、全く気が付かなかった。

 

 精神科医でありながら、見事、患者にあざむかれた。


「隣に居る彼は立派ですよ。看護師という過酷な職場で、精神をギリギリまですり減らして働いていた。だから僕は彼の心の重荷を、少し軽くしてあげたのです」


 虫の息である私を通り過ぎたA氏は、扉を開け部屋を出る間際、こう、捨てゼリフを吐いた。


「先生、覚えておいて下さい。この世界にまともな人間なんていません。みんな、まともを装っているだけです」

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A氏 にのい・しち @ninoi7

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