第2話 時として理性は負けるのさ

 男にとって、あの日の事は脳裏にベッタリ張り付いて忘れようにも忘れられない。

自分の発した言葉のひとつひとつ

が、あいつの引き攣った表情が

ぐるぐると廻り始めると、涙が止まらなくなる。 

助けてくれ! 助けて欲しいんだ。


「お前さ、いい加減男漁るの止めたらどうだよ! 俺と言うれっきとした旦那がいるんだから」

「旦那? 漁る? 笑わせないでよ。結婚なんていつした?

こんな時ばっかり旦那ずらしてさ。煩いっうの。

で? 男漁りとは人聞きの悪い事言ってくれるじゃない。仕事なんだわ馬鹿! ホステスは後引かせてなんぼなんだよ。素人じゃあるまいし今更か? それじゃあんたはどうなのよ。それこそれっきとした私と言う女がいても、誰彼構わず突っ込んでくる色ぼけ男が。

何時までも許しやるとは限らないんだから」

 男は薄笑いを浮かベ、テーブルに出した煙草を咥え火をつけようとライターを持った途端、由美に思いっ切りライターを払われ床に落としてしまった。

 男は舌打ちし、ライターを拾うと煙草に火を付けた。

「ふ~旨い」

そう呟く男の顔を由美はジッと見つめている。男はそんなの事お構いなしに煙を吐き出す。

「覚えてないんだ。そっかなら仕方ないね。終わったんだ、終わっていたんだ」

ボソッと呟く由美の姿を思いだしていた。阿呆ってなんだよ、終わっていたって何だ? あの野郎訳わからんことを言いやがって。

 あいつとの出逢いは、俺が黒服のバイトの頃、別のチームの奴らと揉めて相手に大怪我をさせたことがあった。兄貴から絶縁を喰らう寸前で。その頃あいつは歌舞伎町界隈で売れっ子のホステス

誰もが店に置きたがるような。

そう……ほんとに綺麗だった。

そいつが俺にホの字だと噂があって俺も結構意識していた。

そのホステスが兄貴に頭下げて、大怪我をさせた相手への慰謝料まで払うことで首の皮一枚繋がった。それからなんだかんだあって、俺達はいわゆるそう言った関係になった。

たまに寝物語にその話しをすると、

「一目惚れ、あんたに一目惚れしたから」

そい言いながらくしゃくしゃって笑う顔が愛おしかった。

 そんなあいつはが俺にかわさせた、たった一つの約束。

「煙草は死んでも私の前で吸わないで。それを破ったら冗談じゃなく、私達はおわりだからね」


 あの日の男は破った訳ではなかった。全く意識に無かったそれだけだった。

 そして今どう言う訳か、あいつの震える声が頭の中で蘇る。

つけた煙草を慌て揉み消してみたものの意味ねつぅの。

残りの煙草とライターを摑みゴミ箱に投げすてた。

 古い空調で冷え過ぎているはずの皮膚から訳の分からない汗が吹き出してきた。

男は衝動的にベランダへ飛び出す。

過呼吸だっ 苦しいっ 息が……

震える掌にぼたぼた落ちる雫。


「ああああっ畜生……ああそうだよ! なのに俺はっ……馬鹿だ!

やり直してぇ……由美……」


 蹲っている男の肩に暑苦しい空気が鬱陶しいほどに纏わり付く。


逢いてぇなぁ。


今年で三度目の威丈高な夏が男をあの日に引き戻していく。


刹那……男は女に抱かれている錯覚に落ちるのだった。


人生は一度きり。

やり残した事は沢山ある。

だからこそ、巻き戻せなくても

もう一度自分に正直になりたい。


じゃあ

動けば良い。

何かが生まれるかもしれない。

後悔するかもしれない。


あの時ああしていればって思いを重ねるのも良いけれど。


たった一度きりの人生だから。

想いが今ここにあるのならば。

振り返っても良い。


 由美は小さな鞄をひとつ持ち、新幹線に乗り込む。

のどかな風景の中では生きられない自分は汚れてしまったのか。

違う。あいつと生きたい。  

絶対未練じゃない。

逢いたい。

抱かれたい。

生きたい。

未来を見るんだ。


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