それは時として思考を抑え込む。
紫陽花の花びら
第1話 由美 見失う想い
あの日行かないでくれていたら。あの日無理矢理にでも止めていたなら。
今、後悔を見つめる自分の姿は情け無いほど蹌踉けている。
戻りたい。あなたの腕の中でこの言葉を呟いたら、あなたは人差し指を私の唇に押し当てて、甘い言葉を囁いてくれたのよね。
◆
今でもあいつの事を? 惚れてる? 阿呆らしい冗談じゃぁ無いわ! と啖呵きりたいよ。
何度帰ってくるなと思った事か。
なのに、名前を呼ばれ抱きしめられると、身も心も安心してそのまま眠りにつけるあの幸せは忘れられない。
「由美好きだ……」
耳元に蘇るあのゆったりとした響き。
暑い。そして熱い。
「よく判った。たった一カ月が、私たちの四年間を呆気なく消したわけだ。終わりだね」
由美は向かいに座る男を睨みながら吐き棄てるように言った。
シラッとしたこの空気が、由美の苛立ちに拍車かけているのだ。男はまた由美を裏切りった。
何度、こんな事を繰り返すのだろうか。
悲しい? そんな感情とっくにない。あるのは寂しさ、由美がどう足掻いても伝わらない。
向き合い方を間違えたのか?
胸が苦しくて震えが止まらない。
ったくこの態度、全く悪びれる素振りもない。由美は震えをぐっと押さえ込み、男が垂れ流がす戯れ言を聞きている。
「何切れてんだよ。私たち終わった? 良く言うよ。お前の下半身はよ、別れるの嫌だってさ」
「はあ? 下半身がどうしたって? 阿呆か。あんたのなんか要らないよ。そんなチンケな物」
男は下を向いて押し黙っている。
いつものはったりだ。凌げ凌げ。
由美は冷たく言い放つ。
「その女の所に帰んなさいよ。
好き放題出来るんだろうから」
由美は立ちあがると男の肩を思いっ切り小突いて店を出て行った。
本当は横面を張り倒したかったがそこまではできない。だって悔しいけど……惚れてるんだ。
それだけはどうしようも無い事実。
由美は店を出て深呼吸をした。震えが収まらないのだ。
冷え切った体は暑苦しい空気を、さも愛おしそうに纏う。が、次の瞬間いともたやすく剥ぎ取ってしまうのだ。
そうか、そうなだっのか。
由美は、夏の暑苦しい空気は自分なんだと理解した。
あいつにとって暑苦しく息苦しい存在だったとは。だから息抜き? それでも今まで一度もあの事はわすれなかったのに。今回はあいつにとって何かが違ったんだろう。
あいつの心の中から自分が消え始めている存在なんだと思い知らせれている。そのことに耐えられず、人前も憚らずに声をあげて泣き出している。あいつは何も判ってないんだバカだから。ほんと愛しいほどバカだから。
由美は携帯を握り締めふらふらと雑踏に紛れていった。
男は暫く由美の出て行った方を見つめていたが、気を取り直し薄ら紅が付いたストローに目を移す。置いてけぼりにされたアイスティーを飲むと小さくため息を漏らした。
なんだよ、おかしな奴……
まぁ三日もしない内に連絡がくる事は判っている。
あいつは絶対に謝らないが、必ず夕飯はなに食べたいか聞いてくるんだよ。
この時期だから冷や奴だろ。後は生姜焼き食べてぇなぁ。
あいつのは美味いんだ!隠し味に味噌とにんにくを入れるらしいが、分量は秘密だって教えてくれない。
もちろんキンキンに冷えたビアグラスと瓶ビールが用意されている。
本当可愛いんだよ。家庭的なんだよな。キツい女だが別れられない。あれの具合もいいしなぁ。
しかしその思惑は外れた。
由美からはあれっきり連絡が無く携帯も解約され店も辞めていた。
誰も何も知らないと言う。
嘘をつくな! 嘘付くなよ。
数日後、ポストに入ってた封筒のなかには、荷物は適当に処分して欲しいと書かれた紙切れと処分代金一万円。そして合鍵。
本気だったのか! いつもの事だったはず。三ヶ月帰らなくても許していたじゃないか。なのに何処に消えた? 帰って来てくれよ、
ここで待ってる。
男は一時的に錯乱状態に陥ったが、やっと正気を取り戻して
今は辛うじて息だけはしている。
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