第17話 小さな変化


 意外にも、遅刻はしなかった。 

 先を走る櫻井に続いて俺が校門を走り抜けば、俺と櫻井以外にも校舎に向かう生徒達が慌ただしく走っていた。

 その生徒達の波に乗って、俺達も校舎に向かう。走りながら時間を見れば、本当に遅刻ギリギリだった。

 昇降口で速攻で靴を履き替えて、早足で廊下を駆け抜ける。そして階段を三階まで登れば、すぐに俺達の教室はあった。


 階段を駆け登った俺達は、そのままの勢いで教室に駆け込んでいた。

 教室に俺達が慌ただしく入った瞬間、一斉にクラス中の視線が俺達に向けられる。しかし俺達が遅刻寸前で慌てていたことを察したのか、すぐに教室はいつもの雰囲気に戻っていた。

 でもどこか、俺と櫻井を見るクラスメイトの視線が少し気になった。


「なんとか間に合ったぁ……」


 肩で息をしながら安堵する櫻井に相槌を返して、俺も少しだけ荒くなった息を深呼吸で整える。

 櫻井の鈍足に合わせていたおかげか、そこまで身体に疲労感はなかった。汗も出ていないからゆっくりと呼吸をすれば、すぐに俺の息はある程度落ち着いていた。


「はぁ……はぁ……疲れたぁ〜」


 しかし俺と違って、櫻井はかなり辛そうだった。膝に手を添えて、荒くなった呼吸を必死に整えようとしている。その額には汗がじんわりと滲んでいた。


「大丈夫か?」

「だいじょうぶ……久々に全力で走って疲れただけだから」


 で全力だと聞かされて、俺は本当に櫻井は運動が苦手なんだと察した。前に楓花から話には聞いていたが、彼女が相当なインドア派の人間という話は本当らしい。

 あまりにも辛そうな姿を見て、思わず俺は彼女に声を掛けていた。


「キツかったら保健室行くか?」

「そこまで、じゃないよ。少し休んだから落ち着くと思うから……心配してくれてありがと」

「それなら良いけど……」


 そう言われてしまえば、俺にできることはもうなかった。

 しかしこれでなにも言わずに櫻井を放って自分の席に行くのは、どうにも気が引けた。だから最低限の心配は見せようと思って、俺は口を動かしていた。


「ちゃんとホームルーム始まるまで自分の席で休めよ?」

「そうするよ……あ、さっきのお礼は後でするから」


 今、すごく面倒なことを言われたような気がした。

 櫻井の返事を聞いた瞬間、俺の口が脊髄反射で動いた。


「別になにもしなくて良い」

「それは絶対に駄目。お礼はちゃんと受け取ってもらうから」

「……さっきのありがとうって言葉だけで俺は良いんだけど」

「佐藤くん。私ね、助けてくれた人に感謝の言葉だけで終わらせる人間になりたくないの。だからちゃんとお礼はする。助けられた恩は必ず返せって教わったから」

「誰だよ。そんな律儀なこと教えた奴」

「私の好きな映画の主人公」


 そう言い残して、櫻井は俺の返事も聞かずに自分の席へ向かっていた。そんな彼女の背中を、俺は呆気に取られながら見つめていた。


 予想外だった櫻井の返事に、素直に俺は呆れていた。まさか彼女がそんなことを平気で言う人間とは思わなかった。悪い意味ではなく、良い意味で。

 漫画やアニメ、映画でもそうだが、好きな作品の影響を受ける人間はいる。その最上位になるのが中二病だろう。

 櫻井はただ純粋に面白いか面白くないかで映画を雑食で見るタイプだと勝手に思っていた。しかしどうやら、それは俺の勝手な思い込みだったらしい。


 人並みより遥かに美人な彼女にも、意外と子供らしい一面もあったようだ。別にそのギャップに惹かれるなんてことはないが……少し意外だった。それに俺が思っていた以上に、櫻井は頑固らしい。

 俺が呆けていると、気づいたら櫻井が自分の席に座っていた。それに合わせて、いつも一緒にいる風宮達が彼女の元に集まっていた。


「珍しいな、愛菜がこんな時間に来るなんて……寝坊でもしたのか?」

「寝不足なのは確かだけど寝坊じゃないよ。ちょっとさっき色々とあって」


 そしてホームルーム前だっていうのに、風宮達は普通に世間話を始めていた。

 流石にあの中に割って入ってまでさっきの話をする気にもなれなかった俺は、渋々と自分の席に戻るしかなかった。


「おいおい……どうしたんだよ⁉︎」


 そう思った俺が早足で席に座ると、なぜか啓太が慌てた様子で小声で話し掛けてきた。

 鞄に入っている勉強道具を机に入れながら、俺は怪訝に答えていた。


「なにがだよ?」

「なにがって……お前と櫻井さんが一緒に教室に来たことだよ!」


 慌てる啓太に、少しの間を空けて俺はその言葉の意味を理解した。

 啓太から見たら俺と櫻井が一緒に登校してきたように見えたらしい。コイツの反応を見て、ようやく俺は先程の妙なクラスメイト達の視線の意図を察した。


「あぁ……そういうことか。別にお前が思ってるようなことじゃない」

「じゃあどういうことだよ!」

「そんなに慌てるって、本当に大した話じゃない。ホームルームが終わったらちゃんと話してやるから」


 俺がそう言うと、啓太が渋々と頷いた。しかし彼の目は、今だに疑い深く俺を睨みつけていた。


「本当に教えろよな?」

「ちゃんと話すって、そんなに疑うなよ」

「絶対に教えないと怒るからな⁉︎」

「しつこい、次また同じこと言ったら教えないからな?」


 何度も疑ってくる啓太に、そう言い放って黙らせる。しかしそれでもまだ納得できないと不満そうに顔を歪めていた。


 なにを勝手に勘違いしてるんだか。


 そんな啓太を放置して、俺は手早く鞄の勉強道具を机に入れる。

 そして俺が勉強道具を机に入れ切った時、ふと俺のスマホが震えた。

 なにげなくスマホを手に取って見れば、画面にはメッセージアプリの通知が表示されていた。

 そこに表示された早瀬楓花という名前に、思わず俺の頬が引き攣る。そっと風宮達と一緒にいる楓花を見れば、彼女は眉をひそめて俺に視線を向けていた。


 遅刻ギリギリだったということは、つまり楓花を怒らせることになる。


 今更そんなことを思い出しても、もう遅過ぎた。

 きっとかなり怒ってるんだろうな……本当に遅刻ギリギリだったし。

 楓花からのメッセージを見たくない衝動に駆られる。だけど放置する方が確実に面倒になることをすぐに察して、俺は渋々と彼女のメッセージを見ることにした。

 しかし、来ていたメッセージの内容は、俺の予想とは全く違っていた。


『智明、愛菜ちゃんになにしたの?』


 今までと違う楓花のメッセージを見た瞬間、返事を返そうとした俺の指が止まった。

 過去に二度と繰り返した二週間で、こんなメッセージを彼女から受け取った覚えなんてなかった。

 ふと、楓花に視線を向ければ……彼女は訝しむような表情で俺を見ていた。

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