海の見える場所

夏場

第1話

高校3年生の時だった。

自分の中で始めて芽生えた衝動。恋とはつまりこういうことなのか、と理解した。

漫画やアニメの恋愛ものをいくら見ても、ずっとそれに共感することができなかった。

周りより少しばかり高い身長、白い肌に綺麗な長い黒髪、小さい鼻がポテっとあって、リスみたいな大きな丸い目は、その暗闇が吸い込むようにグッと惹きつけてきた。

スラっと伸びた鼻だったり、彫刻みたいな横顔だったり、透き通るような綺麗さ、というよりかは可愛かった。

クラスで3番目ぐらいの可愛いさ。

完璧すぎない彼女がなにより完璧で、可愛かった。

「初めまして。志野結衣、といいます。これからよろしくお願いします」

転校生の彼女は、そう挨拶してから担任が用意した席に行った。

窓際、一番奥の席から横に数えて2番目の席。

澄月の横の席に、結衣は座った。

結衣は澄月をチラッと見た後、これからよろしくね、とパッと笑った。


それから1限の現代文の授業が始まっても、澄月はまるで集中できなかった。

ずっと胸が高鳴って、横を気にしまう。

ただ、認めたくなかった。

これがもし恋という感情だとしたら、自分は同性愛者だった、ということに気づきたくなかった。

多様性やLGBTがいくら世の中でいくら叫ばれていたって、自分はその傍観者でいたかったし、いるもんだと思っていた。

まさに、自分がその当事者であるということを認めたくなかった。

「今日も、前回の続き、森鴎外の舞姫についてやります」

教師はそう言って教科書を開きながら、結衣の存在に気づいた。

「あれ、転校生だよね?」

教師がそう言うと、結衣はコクっと頷いた。

「舞姫について、今この授業では豊太郎がエリスをドイツに残して帰国する最後の場面なんだけど、あなたがいた学校ではどこまで進んでいた?」

「確か、同じくらいの進行具合だったと思います」

結衣がそう言うと、教師は、じゃあ問題出しちゃおうかな、とにやけた。

「豊太郎が何故、結局エリスを置いて帰国にはしったのか、前回の授業の最後に考えたんだけど、豊太郎を最後にそう動かしたのは、つまりなんだと思う?」

教師はそう言って結衣を見た後、まあ答えなんてないけどね、と続ける。

結衣は少しだけ黙ってくうを見つめた後、多分、と呟いた。

「豊太郎は、ずっとエリスに恋をしていたから、最後に帰国を決断したのだと思います」

その時、教室にクスクスと笑い声がした。

教師は、結衣がそう真剣に言うもんだから、なるほどな、と言って頷いた。

「いや、これは不正解じゃないぞ。前回のみんなの意見は、豊太郎は酷い奴だとか、結局最後は自分のために見捨てたとか、色々な意見があったけどこういう考え方もあるからな」

教師はそう言うと、結衣に、ありがとう、と言って授業を続けた。


授業が終わった後、女子の一部が結衣の回りに集まって和気あいあいとしていた。

澄月は、結衣が楽しそうに話しているのを横目で見ながら、ただやり過ごした。

その日、学校が終わると、何人かが結衣に、一緒に帰ろう、と声をかけたが、結衣は、私の家少し遠いから、と言ってやんわりと断った。

教室から徐々に1人1人いなくなっていく中で、結衣は席に座ってただ本を読んでいた。

いつもは一人すぐに教室を出る澄月も、結衣の存在が気になってただうろちょろと歩き回りながら教室に残った。

やっと、教室は2人だけになった。

澄月は結衣をチラチラと見ながら、とっくに綺麗になっている黒板を再度黒板消しで拭いてみたりしていた。

そうして、静寂がまたずっと教室に流れて、澄月はもう教室を出ようかと思った時だった。

「澄月、ちゃんだよね?」

結衣は、いつの間にか本を読むのをやめて澄月を見ていた。

「え、あ、うん。そう」

澄月は、平静を装いながら答えた。

「誰か待ってるの?」

「あ、いや、そういうわけじゃないんだけど、一応まぁ仕上げに掃除しとこうかな、って」

「私も手伝うよ」

結衣はおもむろに立ち上がって、澄月の横で黒板消しで一緒に拭き始めた。

澄月は、自分では手の届かない高さまで拭いている結衣を羨ましく思った。

「結衣ちゃん、身長高くて羨ましい」

呟くようにそう言った澄月はすぐにハッとした。

「あ、別に、嫌味とか、全然そういうのじゃなくて」

慌てている澄月を結衣は横目でクスっと笑って、わかってるよ、と優しく言った。

そのまま、黒板を消している結衣を澄月はずっと眺めていた。

「家ってどの辺にあるの?」

澄月は、それとなく聞いてみた。

結衣は黒板を消しながら、遠いよ、と言った。

「海の見える場所」

「え」

「海の見える場所に一人で住んでる」

それを当たり前のように、結衣は言った。

澄月は、その先を聞くか躊躇った。

そうやって澄月が躊躇っているのを見た結衣は、そのまま黒板を消すのをやめた。

「親とかどうしているのって思ったでしょ」

「思った」

結衣はジッと澄月を見た後、奥の方に行って黒板を消し始めた。

「私ね、小さい頃に母親を亡くしてて、父親とずっと一緒に暮らしてたんだよ」

結衣がそうやって話すもんだから、澄月もまた、それを聞きながら黒板を消した。

「でもお父さんさ、お母さんが死んでから、毎日お母さんのことずっと嘆いていたの。四六時中お母さんのことばっかり」

「そうなんだ」

「だから私それが嫌になって、逃げ出してきちゃった」

結衣はそう言って、こんぐらい綺麗になればいいよね、と続け黒板消しを置いた。

「こんな話ごめんね。聞きたくなかったでしょ」

結衣は足早に自席に戻ってバッグを取った。

「あ、待って」

澄月は、急ぐように結衣の後姿に声をかける。

「私も、お母さんを亡くしてる」

結衣は、一瞬、え?と発した後すぐに黙った。

「私も小さい頃にお母さんを亡くしてて、それからおばあちゃんに育ててもらった」

結衣はただ、そうなんだ、と呟いた。

「私達、嫌なことがなんか似てるね」

結衣がそう言ってバッグを肩にかけながら、笑って澄月を見た。

澄月は胸が高鳴って、自然に笑みが溢れていた。

蛍光灯の白光がやけに明るい教室は、薄暗い外の夜とは対称的な温度だった。




それからの2人は早かった。

あの日、互いの秘密を打ち明け合った以降、1か月も待たないうちに段々と仲良くなっていった。

もうその2人の様子を見て、当初結衣と仲良くしていた女子達もまた離れていった。

放課後、2人で最後まで教室に残って他愛もない話をしては盛り上がった。


季節はどんどん流れて、7月も下旬となった。

夏休み前、特に進学校という訳でもない地元の小さなこの高校でも、教室はすっかり大学受験の雰囲気になっていた。

外の蝉がずっとうるさいその日、2人はまた放課後の教室に残っていた。

「そういえば、結衣は受験するの?」

結衣の前の席の椅子に立って寄っかかりながら、澄月は言った。

「一応、しようかなって思ってる」

澄月はそれとなしに、一応へーっと言ってみた。

「ちなみに、どこの大学?」

「東京の大学」

結衣はそう言って、奨学金も借りて頑張ろうかなって思ってる、と続けた。

結衣もまた、澄月は?と返した。

澄月は少し考える素振りを見せた後、どこかの専門学校行こうかな、と言った。

澄月は、この先も結衣と一緒にいたいということは言えなかった。

それも結衣はとても頭が良くて、前回の彼女の定期テストの順位は、数百人いる学年の内5番目の成績で、澄月は結衣と到底同じ進学先を選ぶことはできないと思った。

夏の空は、18時になってもまだ明るい。

澄月は、そんな白い空を見ていたら、なんだか急に寂しさを覚えた。

「ねえ結衣、今から結衣の家行っちゃだめ?」

澄月は、今まで言わなかったことを結衣に言ってみた。

結衣は少しびっくりしたような表情をした後すぐに笑顔になって、いいよ、と言った。

二人は、いつもより早い時間に教室を後にした。



学校の最寄り駅から電車で1時間くらいかけた「鳩里」という場所に、結衣の家があった。

アパートの一室、1Rの部屋はこじんまりとしていた。

ただ物はあんまりなく、白の壁紙で囲まれた綺麗な部屋だった。

「ここ、景色だけはいいの」

結衣はそう言って、白の花柄のカーテンをパッと開けると、目前は青い海が広がっていて、長い砂浜がずっと伸びていた。

「ほんとだ。綺麗」

澄月がそう呟くと、結衣は嬉しそうな顔で、そのままキッチンの下の戸棚からおかしとコップ、冷蔵庫からりんごジュースを持ってきた。

「食べよ」

結衣は、部屋の真ん中のテーブルにそれを無造作に置く。

窓をそのまま開けているから、部屋には潮風が入ってきた。

「ポテトチップスがいつもよりしょっぱい気がする」

「絶対気のせいでしょ」

二人は笑ってまた一枚ずつそれを取った。

澄月は、ずっと胸が高鳴っているのがわかっていた。ただ、この気持ちを結衣に伝えてしまえばもうこの関係性が終わってしまうのが怖かった。

「澄月、ポケベル語って知ってる?」

「ん?なにそれ」

結衣がチョコレートマフィンのお菓子の包み紙を開けながら、澄月を見た。

「お母さんがまだ生きていた時に、私に教えてくれたんだよね」

結衣はマフィンを口に入れて、窓の外の海を眺めた。

「ポケベルっていうのがお母さんが私達ぐらいの時に流行ったらしくて、ポケベル語ってのがあったらしいんだ」

「へー、聞いたことないかも」

「それで、ポケベル語ってのが言いたい事を全部数字で表すものらしくてね」

結衣はそう言うと、ふと、じゃあ問題ね、と続けた。

「サンキューは、ポケベル語でなんて言うと思う?」

「え、なんだろう」

澄月は黙って、少し考える。

そのまま答えが出ないままの澄月を見て、結衣は、時間切れーと笑った。

「正解はね、999。9が3つでサンキューってことらしいよ」

結衣は続けて、第2問、と言う。

「これは簡単かも、おはようは、何て言うと思う?」

「おはよう?えー」

澄月はまた考えて、0840、とか?と返した。

結衣は少し驚いて、お、正解、と言ってから、澄月はポケベル語センスあるかもしれないね、と笑った。

「ポケベル語センスって何なの」

澄月はそう言って笑うと、今考えた、と結衣もまた大きく笑った。


潮風が、ひゅーと部屋に入ってきた。

澄月は自分の髪が潮風でべた付いているのがわかった。

「ねえ結衣。愛してるってポケベル語で何て言うの?」

今度は、結衣が考える。

「そういえば、お母さんが死ぬ前に私に言ってくれたな。確か…14106だったかな。なんかポケベル語の文字盤があってそういうらしいよ」

「そうなんだ」

澄月は胸がずっとうるさいまま、もうそれを隠すことはできない衝動で苦しかった。

「ねえ、結衣」

澄月は、結衣をグッと見ると、結衣も、ん?と澄月が何か言いたそうにしていることに気づいた。

「どうしたの?」

「私、結衣のこと14106」

結衣は一瞬、え、と発した後、あ、ありがとね、と続けるように笑った。

澄月は、結衣の手を衝動的にグッと掴んだ。

「友達としての、じゃない。恋人としての」

結衣は掴まれた手をほどかないまま、そのままうつむいて、黙った。

海の向こうから船の汽笛が大きく鳴って、それが部屋に響いた。

澄月は、急にふと我に帰って結衣の手をパッと離した。

「あ、ごめん。いや、あ、嘘っていうか。ごめんね、急に気持ち悪いよね、何やってんだ私」

澄月を顔が火照って、やってしまった、と思った。

そのまま澄月はただ下を向いて、結衣の顔が見れなかった。


結衣は、ふと、32と呟いた。

え、と顔を上げた澄月が結衣を見ると、結衣は笑って、ミートゥー、と言った。

「え、え、結衣も?」

「私も、澄月が好き」

結衣はそう言うと、そのまま澄月の頬にキスをした。

澄月は心臓がバクバクして、それとともにずっと大きい喜びで満たされてるがわかった。

二人は互いにグッと見て、そのまま見つめ合った。

そのまま、今度は唇を重ね合った。

澄月は、自分の頬に触れる結衣の髪もまたべた付いていることがわかった。

途端に、腹の底から満たされない感情が襲ってきて、澄月は結衣をただ見つめた。

「ねえ、澄月って、処女?」

澄月は、うん、と呟くと、結衣も、私も、と言って澄月の制服を脱がし始めた。

「女の子同士のセックスってどうやってやるんだろうね」

澄月もまた勢いのまま、結衣の服を脱がしながら、わからない、と返す。

そうして互いに下着姿になると、結衣は立ち上がって部屋の電気を消した。

気付けば外も薄暗くなっていて、2人はより近くで重なるようにして互いを認識した。

そうして、二人は交じり合った。

「これで正解なの?」

「わからないけど、私達なりのやり方でいいよ」

澄月はそうしていく中で、ずっとこの時間が続けばいいと、そう思った。



やっと夏休みに入ると、それから二人は受験の事も忘れて毎日のように遊んだ。

カラオケやボーリングをしたり、映画やアニメを観たり、古いゲーム機を中古で買ってきてそれを一緒にしては、盛り上がった。

ある日、2人は海に行った。

その日は結衣の家の前の海ではなく、違う海に行こう、ということで少し遠出をした。

結衣は、真っ白のワンピースに麦わら帽子を被って、いかにもアニメやドラマのヒロインのような服装だった。

綺麗な黒髪が風に靡いて、ワンピースが揺れる度に、その長い細い足が時折見えたりしている。

澄月は、そんな結衣を可愛いと思った。

「結衣、そんな恰好してくるなんて聞いてないよ」

澄月はちょっとからかうようにそう言うと、結衣ははにかんで、澄月に見せたくて、と言った。


そのまま二人は砂浜に座って、近くのコンビニで買ったアイスを舐めた。

「海ってずっと繋がってるんだね」

目前に広がる海を見て、結衣がチョコレートアイスをペロペロと舐めながら言った。

「結衣の家の前の海とも繋がってることかぁ」

バニラアイスを舐めながら、澄月も同調した。

夏の日差しが反射して、海は所々でキラキラと光っている。

「私、いつか世界の海を全部見るのが夢なんだ」

結衣のその言葉に、澄月は思わず、どういうこと?と笑いながら返した。

「海ってさ、広くて綺麗で光ってて、嫌なこととかあっても見てたら全部忘れさせてくれるじゃん」

澄月はアイスに夢中になって、から返事で、そう?と返した。

結衣はそんな澄月を一瞬見てから、フフっと笑った。

「そうだよ。だから私がもし死んだら、その時は、遺骨は海に撒いてもらうことにしてるの。燃やしたりとか山に撒くとかは嫌だな。海がいい」

結衣はそう言った後、これは私と澄月だけの秘密ね、と続けて笑った。

「次は、澄月の番だよ」

澄月はわざとらしく、えーと言ってみた後、私の秘密かあ、と呟いた。

「私って、あかりって言うじゃん」

「うん」

結衣は、アイスが溶けて下に落ちるのを防ぐように必死に舐めながら相槌をうつ。

「これお母さんが付けてくれた名前らしいんだけどさ、澄って字、サンズイが入っているじゃん」

「うん、あチョコレートやばいかも」

「ちょっと、結衣、真剣な話」

アイスが残り半分になった澄月は、むくれたように結衣に言った。

結衣は、ごめんごめん、と笑って誤魔化しながらまたアイスをペロペロと舐める。

「これ、どうやら子どもにつけるのは縁起がよくない名前らしくてさ」

「そうなの。初めて知った」

「らしいよ。で、お母さん死んじゃった後、おばあちゃんが、あの子は学がなかったからこんな名前をつけたんだって、ずっと言われた」

澄月はそういい終えて、アイス棒に残った最後の部分をかじった。

結衣も、残りの部分を一気に口に放り込むと口から冷たいのを逃がすように、はぁーと息を出した。

結衣の唇がチョコレート色になっているのを見て、澄月は笑った。

結衣はそれをやっと飲み込んで、笑っている澄月を見た。

「私はそうは思わないけどな」

結衣は、海に目を移して言う。

「澄って字、澄み渡るって意味もあるでしょ。とっても素敵で綺麗な字だと思うよ」

結衣は、ただ普通にそう言った。

「サンズイがどうとか関係ないよ。少なくとも私はサンズイ賛成派だからね」

結衣はふざけた口調で、そう言って笑った。

澄月は、どこか胸の中に積もった雪が、結衣の言葉とこの空気によって少しだけ溶けたような気がした。

その日も、夜までずっと二人でいた。




「澄月、次の講義行くよ」

友達の声が、うわのそらだった澄月の意識を戻した。

友達の後を追いつつ、澄月は次の講義の教科書を取りにロッカーに急ぐ。

高校卒業後、澄月は服飾の専門学校に進学した。

バイトと学校を行き来する日々は、小中高でやってきた生活スタイルとは全くの別物だった。

新しい友人ができたり新しい学びがあったりと、充実感もあったが同時に疲労感も大きかった。


ふと、澄月はメールを見た。

まだ、返信を先送りにしている人に名前の中に「志野結衣」と表示されている。

「そういえば、結衣と全然会ってないや」

卒業以降、あれから澄月は結衣と会うことはなかった。

それも、結衣はあの後第一志望の東京の大学に進学したため、互いの生活リズムはもう全く合わなくなっていた。

それぞれの日々を過ごす中で、最初のうちは会う事はなくとも、メールや電話だけは定期的にしていた。

しかし、それもいつからかやりとりが少なくなっていった。

朝に、おはようと送って、夜は、おやすみと送る。

卒業前に二人で決めたその約束事も、最近はもうやらない日も多くあった。

そんな中で、澄月は、結衣が恋人であることにどこか違和感を覚えてしまった自分がいることに、いつからか気づいていた。

あれ程結衣を愛しく思った高校時代の記憶や感情が、日々の忙しい生活の中で段々と薄れていく。

そうしたら、いつの間にか結衣のことを愛しく思う気持ちも、もう忘れてしまった。


その日、講義が終わった夜中、帰りの電車を待つ中で澄月は結衣に電話をした。

「ん?澄月、どうしたの?」

電話先の結衣は明るい声で、開口一番そう言った。

「あー、いや、伝えたいことがあってさ」

「なに?」

結衣は次の言葉が中々出てこないまま、なんとか吐き出してしまおうとした。

「結衣、もう私達、別れない?」

「え」

電話の向こうで、明らかに結衣の声が低くなったのがわかった。

「いや、私達もう全然会えてなくてさ、もう互いに日々を過ごす中でそっちの方がいいかなって」

電話先の結衣から、何も言葉はない。

ただ、澄月もそのまま結衣の言葉を待った。

「わかった。澄月がそうしたいなら、そうする」

そう言った結衣の声は、泣きながらなんとか漏らした声だった。

「澄月、覚えてる?あの日、私のこと好きって言ってくれた日」

「うん。覚えてる」

「私、別に最初は澄月のことなんとも思ってなくて、でも段々と仲良くなっていって、段々と好きだなって思うようになってさ」

「うん」

「でも、それでも告白された日さえも、恋人として好きって気持ちは正直なかったんだ」

澄月はそれを聞いても、落胆するようなことはなかった。それほどもう冷めてしまった関係になっていたのだと、また自覚した。

「でも、私をまっすぐに見てくれた澄月が急に愛おしくなって。それから私の方がどんどん澄月のこと好きになってさ」

「うん」

「こんなことなら、私だけが馬鹿みたいじゃん」

泣きながら悔しそうにそう吐き捨てた結衣に対して、澄月はただ無言を貫いた。

「うん、わかってたよ。もういいの。澄月も、高校卒業してから段々メールの内容も会える日も、薄くて少ないことになっていたことも感じてたよね」

「…うん」

「だよね。でも、これだけ。私は結衣のこと、今でもずっと好き。愛してる」

結衣のその声は、もう澄月への諦めを含んでいることを澄月はわかっていた。

「ねえ結衣。これからは、友達としてでいいかな?」

澄月はこの会話から逃げるように、もうさっさと終わらせてしまおうとした。

それから、結衣の返答までは10秒くらいの間隔が空いた。

「もちろんだよ。友達として、ね。よろしくね」

「うん、それじゃあ」

澄月は、通話のボタンをそのまま切ろうとした。

「あ、澄月」

「ん?」

「あ…いや。なんでもない」

結衣は、何か最後に言おうとしていたが、もう澄月はそれを聞くまで待つこともなかった。

「それじゃあ」

「うん、それじゃあね」

結衣が最後にそう言った声色は、ずっと泣いていたけどもう吹っ切れたみたいだった。

澄月は、乗るはずの電車を一本見過ごしてしまって、次の電車を待つ時間ずっとホームに立ってぼうっとした。

夏の夜空はとてもカラカラとして、吹いた風が心地よい程度のものだった。



一昨日からずっと降る雨は、また一層強くなって傘を強くもってないといけないほどだった。

学校の帰り道、空は曇天の灰色に包まれ夜の闇が迫る時間になっていた。

「いよいよ、今年も終わりますね。あっという間でしたね」

横切った家電量販店のテレビから、そんな会話が聞こえた。

「もう今年も終わりか」

澄月はまた傘を持ち直して、一人呟く。

クリスマス、年末、お正月、世の中は楽しいイベントに溢れていたが、澄月はどこかそれを俯瞰しながら見ていた。

ここ最近、友達が澄月を遊びに誘っても、澄月は色々な理由をつけて断っていた。何かずっと心にあるわだかまりがへばり付いて離れないまま、今年がもう終わろうとしていた。

「帰ろう」

澄月は、そのままその場を去ろうとした。

「次のニュースです。今日未明、千葉県の鳩里峠付近で一人が海に流され、行方不明になっているということです。これは、鳩里峠の中継です」

グイっと服を掴まれたように澄月は急停止して、その中継映像を見た。

大きな4Kのテレビ画面に移るその海は、雨に打たれて勢いよくしぶきをあげている。

「鳩里峠、結衣の家の海だ…」

澄月は、大きな白文字のテロップの「行方不明」から目を離すことができないでいた。

「まさか、まさかそんなわけないよね」

自分に言い聞かせるように、そう呟いてみた。

しかし、ずっと鼓動が早くなる中でとても嫌な感覚がずっとしている。

大丈夫だ、と再度自分に言い聞かせて、逃げるようにそのままその場を後にしようとした。

「ただいま新しい情報が入ってきました。行方不明になっているのは、この付近に住む大学生、ということです。ただいま、連日の雨も重なり川や海が大変激しさを増しています。絶対に近づかないように…」

澄月が持っていた傘は、いつの間にか路肩近くの草木に放り投げられていた。

澄月は、そのまま画面をずっと凝視する。

そんなわけない、そんなわけないよ、と澄月は永遠に自分の中で唱え続けた。

急に、ザァッと、また一段と雨の勢いが増した。

通りゆく人は雨に打たれる澄月を不審そうに見ながら、他人事のように去っていく。

澄月は震える手で、すぐに結衣に電話をかけた。

しかし、ずっと呼び出しの着信音がなるばかりで結衣は一向に出る気配はなかった。

10回目の呼び出し音が鳴った瞬間、そのまま傘も放ったまま、澄月は駅に向かって走った。



澄月の髪が雨に浸って、髪先から下に雫がぼたぼとと流れていた。

結衣のアパートの前。

衝動的にここまで来ていた。

鳩里峠にはパトカーや救急車が来ていた。

アパートの前、警察に事情を聴取されていた男性を澄月は見つけた。

「あの、あの、志野結衣の、お父さんですか?」

澄月は、そう言って男性の前に駆け寄ると、その人は少し驚いた様子で、はい、と答えた。

「あの、結衣は今部屋にいますか?」

結衣の父親は澄月を見て、急に下を向いて黙り込んだ。

「え?」

急激に、澄月は自身の心臓の鼓動が早くなるのがわかった。

「警察です。志野結衣さんのご友人の方ですか?」

黙りこむ結衣の父親の横で、警察は澄月を傘の中に入れて、落ち着いた口調でそう言った。

澄月は、何も言わずただ頷くと、警察は結衣の目を再度グッと見た。

「落ち着いて聞いてください。目撃情報や監視カメラの映像から、今、鳩里峠に流されたのは、志野結衣さんと思われます」

その瞬間、バクバクバクバク、と心臓が一気に早くなったのを澄月は抑えることはできないまま、そのまま何度も嗚咽した。

「結衣が、結衣が流されたって、嘘ですよね?ね?」

警察はそのまま、何も言わずただ黙りこんだ。

「ねえ、なんか言ってくださいよ。嘘ですよね。そんなわけないですよね」

警察は、半狂乱な澄月を見て、ちょっと落ち着きなさい、と必死になだめた。

「ねえ、嘘だよね」

警察は、やっと焦点が合った澄月の目から溢れんばかりの涙が零れ落ちるのを見て、少しひるんだ。

結衣の父親は澄月に向き直してから、これ、と枯れた声で携帯を出した。

「さっき警察の調査で、結衣の部屋に入って、机に携帯が置いてあったんだ」

結衣の父親は、またカクっと下を向いた。

「けど、ロック番号がわからなくて、何か携帯に書いてあるのかなと思って。結衣がどうして海に行ったかわからなくて」

途端に泣き崩れた父親から強引に携帯を取った澄月は、その電源を入れた。

壁紙は、いつか一緒に海に行った日の、澄月と結衣が笑ってピースをしている写真だった。

「結衣…」

5桁のロック番号。

結衣の誕生日、3月14日。00314。

違う。

「ねぇ結衣のお父さん、誕生日はいつ?」

結衣の父親は、澄月の言葉をまるで聞いてないみたいにずっと泣いている。

澄月は、それを見てもう言葉を抑えることができなかった。

「あんたがそうやってずっと泣いてるから!結衣はいなくなったんだよ!早く答えてよ!」

警察は、思わず澄月に向かって、こら!と大きな声で怒鳴った。

結衣の父親が顔を上げると、泣きじゃくった顔で、8月31日だよ、と言った。

00831。

その瞬間、パッと画面が開いた。

ロックが解けた携帯の画面に最初に映ったのは、澄月と結衣のメール画面だった。

「え」

見ると、結衣が打とうしてやめたであろう文字が、未送信となって残っていた。

なんだろう。

数字だった。

11014。

澄月はとっさにポケットから携帯を出して「11014、ポケベル語」とインターネットで検索した。

携帯は雨に打たれて、画面が歪んだ。

水滴を手で一気に払うと、文字がくっきりと写された。

画面に大きな黒文字があった。


「11014 会いたいよ」



澄月はそのまま、海に向かって走った。

澄月は後ろの方で、警察が自分を呼び止める声がしていても、それでも全力で走った。

「結衣、結衣、結衣」

走りながら呟いて、雨の粒が口一杯に入ってとても苦かった。

瞼から水滴がこぼれ落ちて、前が見えなくなってもただ走った。


砂浜、海にきた。

海は大きく荒れて、波同士が打ち付け合う轟音が響いていた。

「結衣!」

精一杯の大きな声で叫んだ。

「こら!危ないからそこ、女の子、離れて!」

警察や救急隊が、澄月に向かって大きく叫んだ。

しかしそんな声も、もう澄月には聞こえてなかった。

「結衣!結衣!結衣、返事してって、結衣!」

その時、澄月は、急に海の遠く真ん中に人がいるような気がした。

「ねえ、結衣なの?結衣でしょ?」

それは段々と濃い残像となって、やっと人の形すべてができあがった。

いつかの真っ白のワンピースを着た、結衣がこっちを見て笑っていた。

「結衣だ、結衣だ」

澄月は、結衣の方向目指して駆けていく。

救急隊がそれを見て、また澄月の方に走った。

結衣は段々と薄くなって、そのまま最後にはにかんだ後、遠い水平線の方に歩いていく。

「ねえ、結衣。待って。行かないで。私も会いたかったよ!」

ザバッザバッと波に入っていく澄月は、ずっと結衣を追いかけようとした。

「こら!何やってんだ!!!」

救急隊は、怒りに満ちた声で、澄月の体をグワっと掴んだ。

「やめて!離して!」

結衣がどんどんと向こうに歩いて、薄くなって消えていく。

「離せ!離せぇ!」

声を精一杯枯らして全ての力を使っても、澄月を抑える救急隊の力は強かった。

「おい!君!何を考えているんだ!ふざけるな!!」

救急隊の怒号は荒れる波にすぐにかき消される。

「離せって言ってるんだよ!離せ!掴むな!離せ!離せぇ!」

水平線の全体に雨が打たれて、しぶきに変わって結衣の姿がもう、見えなくなっていく。

「結衣!結衣!ゆいぃぃ!!!」

澄月の顔は雨と涙でぐちゃぐちゃになって、もう自分自身が今何をしているかすらわからないほど狂ってしまっていた。

「うあああああああああああああああああああ」

澄月がそう必死に叫んでも、結衣はもうそのまま消えていった。

そうして、救急隊に背負われるように澄月は砂浜の方に引き戻された。

雨はその勢いをさらに強めながら、波とずっとぶつかりあっていた。




夏、蝉がうるさいぐらいに鳴いている。

「うん、大丈夫」

それなりに化粧をして笑顔をつくった。真っ白のワンピース。麦わら帽子。

鏡に移った自分はそんなに似合ってなかったけど、もう大丈夫だった。

澄月はそのまま、電車に揺られた。

まさにドラマやアニメのヒロインみたいなその服装に、電車に乗っている回りの人はチラチラと澄月を見た。

澄月はそんなことも気にせず、ただ携帯をいじった。


海についた。

鳩里峠。

砂浜にはそれなりに人がいて賑わっていた。

澄月は、人が少ない場所を探して駆けた。

そのまま靴を脱ぎ捨てて、砂浜を駆けて、波打ち際にきた。

ザパーンと、足元に波が打ち付けては戻っていく。

海は、日差しが反射してずっとキラキラしていた。

澄月は息を沢山吸って、水平線のもっと遠くを見た。

「結衣ーーーーーーーーーーー」

そう叫んだ澄月に、遠くの人の視線が一斉に向けられた。

「1!0!5!6!1!9!4!」

澄月は笑って、水平線の方におもいっきり麦わら帽子を投げた。

風に揺られて、そのまま麦わら帽子は飛んでいく。

また、澄月はもっと向こうへ駆けていった。

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