ローチェストに愛の言葉を

堀井菖蒲

第1話 弱っていた彼女に何も出来なくて

 正人は木材を手当たり次第作業台の上に並べていた。今日は手作り家具工房樹々じゅじゅに客はおらず、寄せ木細工の時計だけがカチコチと時を刻んでいた。細く開けた窓から、爽やかな風が抜けていく。六月の北海道には、青く澄んだ風が吹く。


 淡い紅が混じる桜は外せない。黄金色の楢も。コントラストを付けるなら、焦げ茶のウォールナットも入れたいところだ。スケッチブックに描いたローチェストと木材を代わる代わる眺めイメージを固めていく。


 これだけしか、出来ることはないから。


 朝玄関のドアを開けると、味噌汁の香りの中で振り返る美葉。

 自転車のペダルに片足を掛け、一度振り返り手を振る美葉。

 工房の勝手口に立ち、帰ってきたことに気付くまで待っている美葉。

 パソコンの隣に珈琲を置くと少し驚いて見上げる美葉。

 夕食を終えて寝床に帰る自分を見送る美葉。


 彼女はいつも芍薬のように鮮やかに微笑んでいた。

 その笑顔を、取り戻して欲しかった。


 美葉は高校卒業と同時に京都の木材卸会社に就職し、家を出た。旅立つ日の彼女の瞳は、希望に溢れて輝いていた。


 一ヶ月後のゴールデンウィークに帰郷したときは、友人らと楽しげにバーベキューをしていたけれど、瞳を陰らせてぽつりと呟いた。


『一人って、寂しいんだよ。部屋に帰ると真っ暗で、誰も「お帰り」って言ってくれない』

 その言葉が胸に引っかかっていた。


 祝日の無い六月も、美葉は故郷に帰ってきた。とても浮かない顔をして。


 二泊三日の実家への帰郷に大きなキャリーケースを転がしていて、その中にはぎっしりと建築関係の本が詰まっていた。手荷物のショルダーバッグも書籍で膨らんでいた。


『ちょっとでも沢山頭に詰め込まないとね。努力しなきゃいつまでたっても一人前になれない』

 美葉はそう言って、新千歳空港から当別へ向かう軽トラックの中でも、工房にやって来てからも本を読んでいた。食事時も本から目を離さないので、普段無口な父親が窘めたほどだ。


 隣人の美葉は高校時代、毎日工房にやって来た。作業台の隣に置いてある卓球台を机代わりにパソコンを開き、SNSに樹々の情報を発信して広報活動を行なったり、家具作り以外の些末なことを補ったりしてくれていた。六畳一間の宿直室で寝起きする正人を気遣い、父子二人の食卓に招いてくれもした。家族のような距離で正人は、美葉の成長を見守ってきた。密かな恋心を抱いて。


 美葉が座るのは正人が彼女のために作った椅子だった。長方形の背もたれは頑張りすぎる背中を受け止める。しかし今回の帰郷では、背もたれに背中を付けることはなかった。ずっと前屈みになり、本に視線を落としていたから。


 見かねた正人はミルで豆を挽き、丁寧に珈琲を淹れた。いつも飲むのはブラックだが、ミルクと砂糖を少し入れた。


 美葉はやっと背中を背もたれに付けて頼りなく息を吐いた。珈琲の湯気がゆらりと揺らぐ。美葉は木製のマグカップに口を付け、少し啜った。


『大学に行かないで、独学でデザイナーになろうなんて、無謀だったのかな』


 マグカップから唇を離した美葉は、ぽつりとそう呟いた。正人は首を傾けて、俯く美葉を見つめた。ゆらゆらと揺れる湯気を見つめながら、美葉の次の言葉を待つ。


『先輩がさ、グチグチ嫌味言う人で、私のこと甘いって毎日言うんだよね。「系統立てて学ばんと手当たり次第知識入れたって何の役にも立たん」とか言って、何をやっても全否定するの。悔しいから鼻を明かしてやりたい。でも、もがけばもがくほど辿り着くべき所から離れて行く気がする』


 いつも真っ直ぐ前を向き、夢に向かって力強く突き進む美葉から、弱音を聞いたのは初めてだった。彼女は優秀で、高校生ながら樹々の広報戦略を練り、家具を生かす空間をデザインした。その内に空間デザイナーという仕事に就きたいと夢見るようになった。


 デザイナーになるのなら、本来は大学で専門的なことを学び、建築事務所で修行するという道を進む。しかし美葉は働きながら独学で学びデザイナーになりたいと思うようになった。素人ながらすでにデザイナーの才能を発揮していたので、余計なことを学ぶより実戦しながらの方が早く一人前になれると思ったようだ。京都の木材卸業者が空間デザイン事業をやっており、高校卒業後そこで働きながら学ぶことになったのだ。


 希望を胸に旅立った美葉が、どんどん弱っているような気がする。


 金曜日の夜に帰ってきて、日曜日の朝に京都へ帰る。そんな慌ただしい帰郷であった。折角帰ってきたのに友人にも会わず、樹々で本を読んで過ごしていた。その姿に胸が痛んだ。


 時間に追われても、故郷の土を踏みたい。だけど、学びの手を休めることが出来ない。


 寂しさと焦り。その二つに支配され、芍薬の花がしおれるように笑顔から輝きが消えていた。


 新千歳空港の出発ロビーで、美葉は立ち止まったまま動こうとしなかった。その背中は力がなくて、迷子が途方に暮れているようだった。


『……』


 美葉は言葉を発したが、アナウンスの声が重なり聞き取ることが出来なかった。でも聞き取れなかったのはアナウンスのせいだけではない。美葉の声も、とても小さかった。


『背中、押して』


 暫くして美葉は、振り返らずにそう言った。


『保安検査場をくぐる勇気が持てないの。背中、押して……』


 そう言って本が詰まって重たくなった鞄を抱え、背中を丸めた。長い黒髪がはらりと胸の方へ垂れた。


 押したくなど、なかった。

 出来れば抱きしめてこのまま連れて帰りたかった。


 だが正人は両手をその背に翳し、そっと保安検査場に向かって押し出した。


『来月、帰ってくるのを楽しみに待っています。僕も、頑張ります』

 そんな言葉しか、掛けられなかった。背中を押されて一歩前に踏み出した美葉は、そのまま前に進み後ろ手に手を振った。

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