一七章 魂が目覚める

 そのとき――。

 その場にいる誰もが忘れていることがひとつ、あった。

 シペルスも。

 〝知恵ある獣ライカンスロープ〟狩りのパーティーも。

 そして、メインクーンですら。

 全員がすっかり失念していた。

 その場にもうひとり、人間がいることを。

 薬師のもつ注射器の針。その先端がついにメインクーンの染みひとつない白い肌にもぐり込み、なかの液体を注ぎ込もうとした。その瞬間、その忘れられた人間の魂に火が点いた。

 「させない!」

 叫んだ。

 スクアローサが。

 誰からも忘れられた『化石の王女』。そのかの人が突然叫び、走り出した。

 メインクーンを突き飛ばすようにしてその上に覆い被さった。無我夢中で『ある言葉』を唱えた。それはずっと昔、まだかの人か正式な王女であり、国王夫妻であった両親も健在だった頃、学んだ言葉。両親が謀殺され、自身も過去の世界に幽閉されて以降、唱えることはなかった言葉。すでに、学んだこと自体、忘れていた言葉。

 その言葉がいま、必死の思いに駆られたローサのなかで蘇り、自然と声となって表に出ていた。

 その言葉と共に優しく、穏やかな癒やしの力が動いた。それは、ローサの体からメインクーンへの体へと流れ込んでいた。

 ――これは……月の呪法、〝若水ヒーリング〟⁉

 〝若水〟。

 それは、数ある巫女の癒やしの呪法のなかでももっとも強力とされる呪法。死と再生を司る月の力によって若返りの効果をもたらし、体力を回復させ、傷を癒やし、さらに、体内のあらゆる毒素までも浄化する。

 その癒やしの力がメインクーンの体内に注ぎ込みまれていく。

 ――ああ!

 エクスタシーにも似た感覚がメインクーンの体内で荒れ狂った。

 細胞一つひとつが火に焼かれたように熱をもち、若返る。すさまじい活力が体内に満ちていく。それと同時に、その身の自由を奪っていた毒素か消え去っていく。

 「……すごい」

 その快楽とも思える感覚にメインクーンは陶然とした声を漏らしていた。

 「こ、この……!」

 いきなりのことに呆気にとられていた薬師がようやく我に返ったらしい。

 使い終わった人形と思っていた相手に、仕上げの大切な瞬間を邪魔されて怒りに駆られたのだろう。顔を醜悪な形相にゆがめ、腕を伸ばした。

 ローサの腕を乱暴につかみ、引きはがそうとする。が――。

 「があっ!」

 薬師は突然、悲鳴をあげた。

 ヒュン、

 ヒュン、

 ヒュン!

 空気を裂く鋭い音と共に飛来した幾つもの手裏剣が薬師の顔面に突き刺さっていた。

 薬師は黒金くろがねの凶器が何本も突き刺さり、血の噴き出す顔を押さえながら仰け反った。

 甲高い女性の声がした。

 「よくも、ローサさまを!」

 ナナだった。

 ローサに仕えるメイドにして忍び。そのナナがメガネの奥の瞳を怒りにたぎらせ、何本もの手裏剣を立てつづけに投げ付け、薬師の顔と言わず、体と言わず、穴だらけにしていく。

 「ヒ、ヒイッ……!」

 突然の襲撃に驚いたのはシペルスだ。

 文字通り、腰を抜かし、悲鳴と共に尻餅をついた。その顔は滑稽こっけいなほどに恐怖に引きつっており、見るものの失笑を誘わずにはいない。

 謀略においてはひとかどであっても所詮、自ら荒事あらごとの現場に立ち会うほどの度胸も胆力もない男。襲撃されたとなればわらわわれるだけの醜態をさらすしかない。

 〝知恵ある獣〟狩りパーティーの残る三人、剣士、槍使い、魔導士がそれぞれ自分の獲物を手にとり、遅まきながら戦闘準備に入った。歴戦のプロであり、実戦経験豊富なかの人たちにしてこれだけ反応が遅れたのはやはり、自分たちの勝利を確信して気が抜けていたからだろう。そうでなければナナが建物内に侵入していることに気が付かないはずがなかった。

 剣士が愛用の剣を抜いた。

 槍使いが愛槍を構えた。

 魔導士が自慢の呪文を唱えた。

 しかし――。

 それより早く風が動いた。

 メインクーンだった。

 ローサの〝若水〟によってその身を縛る毒素を浄化されたメインクーンが風となって襲いかかったのだ。いくら、〝知恵ある獣〟狩りのプロとは言え所詮、人間。鍵を握る存在である網闘士はとうになく、リーダーである薬師までも失った。となれば、体の自由を取り戻したメインクーンの相手になるはずもない。

 まして、いまのメインクーンは〝若水〟の効果によってすべての細胞が賦活化ふかつかし、はじけ飛ぶような活力に満ちている。とうてい、敵ではなかった。一瞬のうちに間合いをつめられ、手刀の一撃で昏倒こんとうさせられる。もはや、メインクーンはかの人たちを倒すのに武器さえ必要とはしなかったのだ。

 〝知恵ある獣〟狩りのパーティーと黒幕であるシペルスを縛りあげ、無力化したのを確認すると、メインクーンはローサとナナのふたりに視線を向けた。


 「やっぱり、何かおかしいって思ったんです」

 ナナはそう話しはじめた。

 「あの国王陛下が、それも、わたしを指名して各国の情勢を調査させるなんて。それで、命令違反にはなりますけど出発した振りをして王宮に潜み、調査していたんです。そうしたら、シペルスが〝知恵ある獣〟狩りのパーティーを雇っていることがわかって、急いでやってきたんです」

 ……間に合ってよかった。

 心からの安堵の息を漏らしながらそう言うナナであった。

 その身が小刻みに震えているのは『……もし、間に合っていなかったら』という恐怖をいまさらながらに感じているためだろう。そんな恐怖を感じているからこその、本当に心からの安堵の息だった。

 「そう。ありがとう。おかげで助かったわ」

 助かったわ。

 メインクーンが他人に対し、そんな言葉を使ったことがいままでにあっただろうか。それほどに、今回ばかりは窮地きゅうちであったのだ。

 ナナはそう言われて『えっへん!』とばかりに胸を反らして見せた。

 「メインクーンさまはローサさまのお友達ですから。ローサさまにお仕えするメイドとして当然のことです」

 メイドの喜びを全身に満たしてそう宣言するナナだった。

 「それと……」

 メインクーンはローサに視線を向けた。

 そこにいたのは過去に魂を囚われた人形ではない。はっきりとした意思をもち、静かだが強靱な知性と利発さとをもって、いま現在を見つめるひとりの女性だった。

 「あのとき……」

 ローサはそう語りはじめた。

 その言葉にもはっきりした意思と力強さが込められており、いままでのようなぼんやりとした印象はない。

 「メインクーンさまがひどいことをされそうになったとき、一枚の絵が見えたんです。父と母が殺されたときの絵が。その絵が浮かんだとき、わたしのなかでなにかがはじけました。

 『もう誰も死なせたくない!』

 そう思ったんです。そうしたら、自然と体が動いていました」

 「そう」と、メインクーン。

 「あなたの人を思う優しさがあなた自身が自分にかけた呪いを打ち破ったのね。多分、あの薬師があなたを操るために一時的に魂を呼び戻すための薬を使った、その効果もあるんだろうけど」

 だとすると、あの薬師には礼を言うべきなのかも知れない。薬師の使った薬物は文字通りの諸刃の刃だったわけだ。

 「とにかく、あなたには助けられたわ。あのときのわたしは本当に指一本、動かせなかった。あなたが助けてくれなかったら今頃、ゾンビ化されて意のままに操られるだけの道具にされていたわ。本当にありがとう。心から感謝するわ」

 メインクーンは優美な宮廷作法のままにお辞儀をして、謝意を伝えた。メインクーンの言葉は一切の飾りもなければ、嘘偽りの入り込む余地もない、真摯なものだった。その言葉を受けてローサは静かに首を振った。

 「……いいえ。そもそも、わたしが操られてしまったからこそメインクーンさまを窮地に陥れてしまったのです。わたしが弱くて、過去の世界に逃げ込んだままだったから……」

 「そんなことありません!」

 両拳を握りしめ、必死にそう言ったのはナナである。

 「たった五、六歳の身でご両親が殺されるのを目の当たりにして、ご自分も幽閉ゆうへいされてしまったんです。誰だって心が壊れて当たり前です。ローサさまは弱くなんてありません!」

 「ナナ……」

 「そうね」と、メインクーンもナナに同意した。

 「わたしもあなたが弱いとは思わない。いえ、以前は苛立っていたけど、あの瞬間に行動できたあなたはまちがいなく強い。それは確かよ」

 「メインクーンさま……」

 「でも、あなた、月の呪法なんて使えたのね。驚いたわ」

 「幼い頃に巫女としての修行を積んだことはありますから。ほんの少しだけですけど。学んだことも忘れていたぐらいですから使えてよかったです」

 ローサはかすかな笑みを浮かべた。ちょっとはにかんだような姿が、思わず抱きしめてキスしたくなるぐらい魅力的だった。

 「少し学んだだけで〝若水〟が使えるようになるって、その方がすごいんだけど」

 「ローサさまは幼い頃から本当に優秀でしたから。それぐらい、当然です」

 ナナが我がことのように、いや、飼い主の自慢をする飼い犬のように熱烈に主張した。

 「もう。ナナったら」

 言われてローサも照れたのだろう。白い肌にうっすらと赤みを差して笑みを浮かべた。病的な、不健康な白さの肌がこのときは生き生きとした生命力に彩られ、輝いて見えた。

 メインクーンが声をあげた。

 「さあ。とにかく、外に出ましょう。この場は自分を取り戻した女性がいるのにふさわしい場所ではないわ」

 その言葉に――。

 ローサとナナはそろってうなずいた。

 三人は建物の外に出た。ときはすでに朝になっていた。朝一番の清新なきらめきが三人の行く手を祝福するかのように輝いていた。

 

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