一四章 結婚しなさい!

 「この馬鹿者が!」

 エリンジウム公爵家の執務室。そのなかに若き当主アドプレッサの怒号が響いた。いや、部屋のなかだけではない。その外に至るまで、ビリビリと壁を震わせるような大音響となって鳴り響いていた。

 その声を聞いた使用人たちが思わず仕事の手をとめ、『何事か⁉』という表情をしたのは、アドプレッサは普段、こんな風に怒号を露わにするような人物ではないことを知っているからだ。

 そのアドプレッサがこんな叫びをあげる。

 いったい、何事が起きたのか。

 幾ばくかの好奇心と、それを上回る不安とを感じるのが当たり前だった。

 その怒号となった張本人、〝知恵ある獣ライカンスロープ〟の少女であるメインクーンは完全な嫌がらせのために特徴的な猫耳に指を突っ込んで見せて、『兄』の怒りを煽っていた。

 「自分の立場をわきまえんか! よりによって、おれに黙ってあの女狐めぎつねに会うなどとは……!」

 「『女狐』じゃなくて『ドーナ王妃』でしょ。一応、臣下なんだから、呼び方には気をつけなくちゃだめでしょう」

 「そんなことはどうでもいい! 問題はお前がおれに黙ってあの女狐に会いに行ったということだ!」

 「なに? わたしがいなくなっちゃいそうで心配? だったら、添い寝して、子守歌でも歌ってあげようか? 膝枕でもいいけど」

 「ば、馬鹿者……! そんなことを言っているのではない!」

 アドプレッサは怒鳴ったが、ついついその頬が赤くなってしまうのが、メインクーンに言わせれば『ヘタレ』なのだった。

 「立場をわきまえろと言っているのだ! あの女狐、ドーナは我がエリンジウム家の政敵。その政敵に会いに行くなど……。お前もエリンジウム家の一員であるからには……」

 「政敵、政敵って言うけど、別に兄さん自身がドーナ王妃と敵対する理由があるわけじゃないでしょう。別に仲良くしたってかまわないじゃない」

 「馬鹿者! そんなことができるか」

 「なんで?」

 「な、なんでだと……?」

 アドプレッサは思わず絶句した。

 こうもまっすぐにドーナと敵対する理由を問いかけられたことはない。そして、言われてみればたしかに『ドーナとなぜ、対立するのか』という点に関して深く考えたことはなかった。聡明なアドプレッサとしては、うかつと言っていいだろう。理由を深く考えもせずに政敵だと『思い込んできた』のだから。

 アドプレッサが答える前にメインクーンの方から話し出した。

 「ドーナはここ、北方大陸の有力氏族。そのドーナが王妃でいる限り、地元の一族が宮廷を牛耳ることになる。東北翼系のヴェガ貴族としてはそれが面白くない。というより、自分たちが粛正しゅくせい対象たいしょうにされそうで怖い。だから、何としてもドーナ王妃とその一族を排除したい。そう言うことなのよね?」

 「そ、そうだ……」

 「でも、そのためには、対ドーナで団結するための旗印が必要。そのために選ばれたのが、建国以来の大貴族であるエリンジウム公爵家。つまり、ドーナ王妃を排除したい連中が必要としているのは『エリンジウム公爵』であって、兄さん個人ではない。でしょう?」

 「それは……そうだが」

 「だったら、兄さん個人にはドーナ王妃と敵対する理由も必要もないってことじゃない。わざわざ、神輿を欲しがる連中に煽られて神輿みこしやくを務める義理もないでしょう」

 「……おれはエリンジウム家の当主だ。エリンジウム家はヴェガ貴族をまとめ、その権益を守る立場にある。その立場を忘れるわけにはいかん」

 はああ、と、メインクーンは溜め息をついた。

 「そう言うところが面倒くさいって言うのよ。なんで、人間っていちいち立場だの、家系だのを気にするの?」

 徹底した個人主義者である〝知恵ある獣〟にはまったくもって理解出来ない。生まれもった立場のために自分の感情を押し殺すなど。

 まあ、人間の面倒くささにも慣れたからいいけど。

 メインクーンはそう付け加えた。

 「でね。ちょっと、考えてみたんだけど」

 「考えただと? 何を考えたというのだ?」

 「事態を丸く収める方法」

 「くだらん。そんな方法があったら……」

 「それがあったのよ。あっけないぐらい簡単な方法が」

 「なんだと?」

 さすがに、聡明なアドプレッサも意外さに驚いたようだった。白皙はくせきの美貌に一割の興味と九割の不審が浮いている。

 メインクーンはおやつのケーキを選ぶよりも簡単な口調で言った。

 「兄さんがリアナ姫と結婚すればいいのよ」

 「なっ……!」

 実は赤面症?

 そう思うぐらい赤面しやすいアドプレッサも、このときばかりは驚きの方が勝ったのだろう。頬を赤くするのも忘れて絶句した。しかし――。

 その驚きはたちまち怒りに取って代わられ、頬は照れたためではなく、怒りのために赤く染まった。

 「馬鹿を言うな! そんなことができるものか」

 「なんで? リアナ姫が好きなんでしょう? だったらちょうど良いじゃない」

 「なっ……」

 〝知恵ある獣〟らしいまっすぐすぎる物言いにさしものアドプレッサも言葉を失った。

 「『事態を解決するためにもっとも重要なことは常に同じ。本当の問題はなにかを見極めることだ』。わたしは、師である『誰?』からそう教わった。そして、この件で本当の問題はなに? ドーナ王妃やその一族? ちがうでしょう。本当の問題は国王エルウッディ。あの無気力名前だけ国王が自分で政務を取り仕切らず、ドーナ王妃やその一族に任せきり。それが問題なんでしょう。国王たるものが王妃の一族を制御してさえいれば、専横を許すことなんてないんだから。だったら、もっと強力な王がいればいい。自分で政務を取り仕切り、外戚がいせき専横せんおうを許したりしない。そんな王がね。兄さんならそうなれるでしょう」

 「し、しかし……」

 「リアナ姫は紛れもなく国王エルウッディの娘。そのリアナ姫と結婚すれば誰であれヴェガ国王となる資格を得る」

 誰であれ。

 メインクーンがわざわざそう言ったのは、アドプレッサの立場を影から指摘するためだ。

 アドプレッサは実はエリンジウム公爵家の血を引いていない。婿養子であった先代当主が妻以外の女に産ませた息子。そのことが、アドプレッサの立場を危うくしている。だからこそ、メインクーンがその『先代当主が妻以外の女に産ませた子供』になりすまし、『妹』として入り込んだのだ。しかし――。

 王女であるリアナ姫と結婚してしまえば、誰も文句の付けようのないれっきとした王族。もはや誰もアドプレッサの立場について言及することは出来なくなる。そうなれば、アドプレッサの立場も安泰になる。

 ――ついでに、わたし自身も『国王の義妹』として圧倒的な立場を得られるし。

 もちろん、メインクーンはその計算もしている。

 その計算はとりあえず脇に置いておいて、メインクーンはつづけた。

 「兄さんが王になってドーナ王妃の一族をどこかの辺境にでも追いやってしまえばいいじゃない。エルウッディはあの通りだし、ドーナ王妃だってもともと『平穏な家庭の主婦であればいい』と思っていた人。辺境に追放されたらむしろ喜んで、最近はやりのスローライフとやらを楽しむわよ」

 メインクーンはやや皮肉を込めてそう言った。

 「そうなれば、東北翼系の貴族たちだって安心するだろうし、兄さんは大好きな女の子と結婚できる。それでいいじゃない」

 「……駄目だ」

 「なんで?」

 「リアナをそんな政争に巻き込めるか! まして、政略結婚など……」

 「形はどうあれ、兄さんがリアナ姫を好きなのはたしかでしょう。だったら、れっきとした愛ある結婚。問題ないじゃない」

 「……問題はある」

 「どんな?」

 「リアナは……リアナは、おれのことを愛してはいない」

 そう言ったときのアドプレッサの表情は苦悩に満ちていた。メインクーンは目を丸く見開いて『兄』を見た。

 「なんだ。気が付いてたの。リアナ姫が兄さんのことを男として見ていないって」

 わざわざ口に出してそう言ってしまうところが、良くも悪くも〝知恵ある獣〟。とにかく、正直でまっすぐであり、その分、『気を使う』ということができない。

 はっきりそう言われたときのアドプレッサの傷ついた表情ときたら――。

 『見物みもの』と言うには、痛ましすぎた。

 〝知恵ある獣〟の少女は、〝知恵ある獣〟らしく、そんなことは気にせずつづけた。

 「愛されてもいないのに結婚なんて出来ないってわけね。だったら、こう考えてみたらどう? リアナ姫を『愛なき結婚』から守るためって」

 「どういう意味だ?」

 「わかってるはずでしょ。リアナ姫だって一国の王女。放っておけば他国から政略結婚の話がやってくるわ」

 「………!」

 「と言うか、いままでに来ていなかったわけじゃないでしょう? すでに幾つもの話が来ているはず。手をこまねいていればリアナ姫は政略結婚の道具とされ、愛なき結婚を強いられる。それでもいいの?」

 「いいわけないだろう! リアナを政略結婚の道具になど……そんなことが許せるものか!」

 「だったら、その前に奪っちゃいなさいよ。リアナはたしかに兄さんのことを『男』として愛してはいないかも知れない。でも、『幼馴染みのお兄さん』として好意をもってはいる。愛してもいないどこかの誰かと結婚するぐらいなら、兄さんと結婚した方がいいと思うわよ」

 「し、しかし……」

 「大体、ドーナ王妃といがみ合っている場合? シリウスとの戦争中なのよ? 王妃と最大貴族とで争って国内に隙を作ってどうするの。言っておくけど、シリウスの宰相、すばるは、その隙を見逃すほど甘くないわよ。そして、シリウスは征服した国の王族は全員、殺す。もし、ヴェガがシリウスに負ければリアナ姫だって当然、殺される。それでいいわけ?」

 「いいわけがあるか!」

 「だったら」

 メインクーンは両手を腰に当てると、ズイッと義兄に迫った。

 「おとこを見せなさい。リアナ姫をものにして、ドーナ王妃と和解して、国内の貴族たちもまとめあげて、シリウスに対抗できる勢力を作りあげるの。そして、リアナ姫を守りなさい。好きになっためす一匹、守れないようではおすとは言えないわよ」

 アドプレッサはなにも言わなかった。

 反論のしようがないのだ。

 やがて、この冷徹な貴公子にも似合わない不安そうな声をあげた。

 「リアナは……おれを受け入れてくれるだろうか?」

 「雌をその気にさせるのが、雄の求愛行動ってものでしょ。それぐらい、実力で何とかしなさい」

 言うだけ言うとメインクーンは身をひるがえした。形の良い歩き方でドアに向かう。

 「それじゃ、あたしはドーナ王妃に結婚の申し込みに行ってくるから。リアナ姫の方は自分で何とかして」

 「なんだと⁉」

 「あっ、今回はちゃんと『ドーナ王妃に会いに行く』って断ったから。『おれに黙って』会いに行くわけじゃないから、お説教はなしね」

 そう言ってメインクーンは形の良い指を振って見せたのだった。


 「なるほど。アド坊やとリアナの結婚か。それは確かに面白い案じゃな」

 「でしょう?」

 メインクーンは芳香を放つ深紅の茶を飲みながら答えた。

 王宮にあるドーナの私室。

 そこで、ドーナ手ずかられたお茶を飲みながら、国内最大とも言うべき懸案けんあんが話されているのだ。もちろん、テーブルの上にはドーナ自ら焼いた菓子が並んでいる。

 「たしかに、アド坊やは能力においては信用できる。あれにならリアナを任せることも出来る。しかし……」

 ドーナは苦笑した。というより『吹き出した』と言うべきだろうか。『苦笑』と呼ぶには愉快そうな笑いだった。

 「あの坊やに、リアナに求婚するだけの度胸があるかな?」

 「けしかけますよ」

 メインクーンはそう断言した。

 「バカ兄貴のひとりやふたり。手玉に取れないようでなにが妹ですか」

 メインクーンはそう断言した。

 ――うちのバカ兄貴とリアナ姫が婚約すれば最大の問題は解決する。あとはわたしを襲った連中の黒幕だけど。

 メインクーンは絶妙の甘さと焼き加減のケーキを口に放り込みながら思った。

 ――もう一度、『狩り』に来てもらうのが早いわね。

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