一一章 化石の王女

 ――刺客しかく

 メインクーンがそう思ったそのときだ。

 人影が動いた。

 その姿が視界から消えた。

 ――うまい。

 メインクーンにして思わずうならせる身のこなし。

 実際に姿を消したわけではない。

 高速で動くことで視界から消えたわけでもない。

 最初にあえて明るい場所に立って相手に姿を見せつけておいて、暗がりに移動する。光度の差による錯覚さっかくで自分の姿が見えないようにしたのだ。

 ――しの装束しょうぞく伊達だてじゃない。基本はしっかり身に付けているというわけね。でも。

 これが人間相手ならたしかに有効な策だ。

 人間であれば、一瞬でも相手の姿が消えたことに戸惑い、奇襲を許す隙を見せていたにちがいない。しかし、メインクーンは〝知恵ある獣ライカンスロープ〟。いくら、視界から姿を消したところでそれだけでかくおおせることなど出来はしない。

 体臭。

 衣服のはためき。

 物体の移動に伴い乱される大気の動き。

 あまりにも微細びさいで人間にはとても感じ取れない刺激の数々。しかし、〝知恵ある獣〟の鋭敏な感覚にとってはそのすべてが相手の居場所を示すはっきりとした印。

 メインクーンは惑わされることはなく、もちろん、奇襲を許す隙を見せることもなく、自分も即座に動き、相手と同じ距離、同じ角度を保った。

 忍び装束に身を包んだ人影が暗がりから飛び出した。右手が動いた。ヒョイ、という感じで何かを投げた。メインクーンは横に動いてそれをかわした。人影の投げたものが地面に落ちた。その途端――。

 爆発した。

 たちまち、辺り一面に煙が充満した。

 強い匂いがメインクーンの鼻を刺激した。思わず、顔をしかめた。

 ――これは……針葉樹の葉をいぶした煙。

 〝知恵ある獣〟を狙う『狩人』がよく使う手だ。

 ヤニの多い針葉樹の葉を燻した煙は人間でも包まれると辛い。まして、鋭敏すぎる感覚の持ち主である〝知恵ある獣〟となれば。

 まともに浴びれば涙はあふれ、くしゃみが止まらなくなり、激しく咳き込むことになる。

 そうして戦闘能力をそいでおいて捕獲にかかる。

 それが、『狩人』の常套手段じょうとうしゅだん

 だが――。

 ――たしかに、『野性の』〝知恵ある獣〟相手なら効果的だったでしょうけどね。

 あいにく、メインクーンは『野性の』〝知恵ある獣〟ではなかった。『誰?』のもとで人間のつちかった技術を身に付けたハイブリッド。〝知恵ある獣〟の欠点を補うべく、煙の刺激に慣れるための訓練も受けている。

 まったく効かない、と言うことはさすがにないが、涙やくしゃみが止まらなくなって悩まされる。と言うほどにはならない。

 それに気付いたかどうか、人影は両手に刃物をもって飛び込んできた。

 もっている獲物はナイフでも、短剣でもなかった。

 クナイだ。

 刃は短く、有効距離は短い。

 しかし、その分、小回りが効く。

 投げて使うことも出来る。

 素人が使えばろくに役に立たない半端武器だが、使うものが使えば恐るべき万能武器と化す。

 メインクーンは相手が突っ込んできたのと同じ距離だけを正確に、後ろに引いた。

 同じ距離をキープする。そのまま腰に差した短剣を引き抜いた。町中、しかも、王妃直々の招待を受けた場合とあって身に付けている武器はこの短剣一本だけ。愛用の長刀は持ち合わせていない。

 だからと言ってもちろん、不安などない。いつ、いかなるとき、いかなる状況であっても生き延びる。

 それでこそ忍者。

 生きることの達人。

 そのために、どんな条件でも戦い抜けるよう、徹底した訓練を受けている。武器の種類は問わないし、武器なしでも戦える。

 相手はまっすぐに突っ込んでくる。メインクーンはわざと速度を落とし、相手を追いつかせた。

 相手の間合いに入った。

 人影の両腕が嵐のように動き、流れるような動作でクナイによる攻撃が繰り出される。

 右、

 左、

 上、

 下……。

 あるいは斬りつけ、あるいは突き、多彩な攻撃が繰り出される。

 メインクーンはその攻撃すべてをただ一本の短剣で弾いていた。しかし――。

 ――強い。

 正直、舌を巻いていた。

 攻撃の速さ、正確さは相当なものだ。メインクーンだからこそ余裕をもってしのげるが、並の人間の兵士だったら生命が幾つあってもたりない。

 それほどの攻撃だった。

 冒険者の階級で言えば中級二位並の力は充分にある。つまり、全冒険者のなかで五パーセントにも満たないほどの希少きしょうな腕の持ち主、と言うわけだ。

 ――でも。

 相手の技量に舌を巻きつつ、メインクーンは冷静に判断した。

 ――スピード、パワー、テクニック。いずれも申し分ない。だけど、ここ一番の気迫に欠ける。相手を殺すための必殺の覚悟が足りない。最初から殺す気のないただの脅しなのか。それとも……。

 実際に『殺し』をしたことのない素人なのか。

 ドーナが送り込んできたとは思わない。ドーナからはそんな真似をするような『匂い』は感じなかった。なにより、あの油断ならない『女狐』が仕組んだことならばこんな半端な刺客を送ってはこないだろう。確実に仕留めることができるよう、紛れもない『プロ』を送り込んでくるはずだ。

 実際に何体という〝知恵ある獣〟を捕えてきた実績をもつ『本物の狩人』のチームを。

 とすると、この相手はいったい?

 ――試してみましょうか。

 メインクーンは攻勢に転じた。

 大地を踏みしめて前に進むとはやく、鋭く、短剣の一撃を繰り出す。

 人影はその攻撃の疾さに驚いたようだった。それでも、寸前で弾いて見せたのは見事と言えた。しかし、それも、最初だけ。立てつづけに繰り出されるメインクーンの攻撃にたちまち防戦一方に追い込まれる。

 扱う獲物の数は人影が二本、メインクーンが一本。

 しかし、繰り出される攻撃一つひとつに込められた疾さ、正確さ、力強さがまったくちがう。二本どころか三本の武器を同時に扱うことができたとしても、メインクーンの攻撃を凌ぎきることは出来なかっただろう。素体としての能力も、忍びとしての技量も、メインクーンが完全に上回る。よほどの油断をしない限り、最初から負けるような相手ではなかった。

 人影から発せられる匂いがかわった。

 明らかな緊張と焦りの匂い。

 息が乱れはじめている。

 攻め込まれ、精神的にも追い込まれているのだ。

 ――もう息切れ? 実戦での緊張感に耐えられない? やっぱり、実戦慣れしていないみたいね。

 殺す気のない、脅しとしての襲撃、と言うわけではなく、実際に殺したことがないためにそれだけの覚悟をもてずにいる。

 そういうことだったらしい。

 メインクーンはわざと攻撃をゆるめた。

 自分の方こそ息切れを起こしたふうを装い、手を休めた。

 人影から明らかに安堵あんどの匂いが発せられた。

 それでも、その一瞬を逃すことなく、大きく飛び退き、間合いを開けたのは、見事な身のこなしであり、判断だったと言っていい。

 人影の右手がひらめき、小さな木の実のようなものが投げ付けられた。

 地面に当たると炸裂さくれつし、辺り一面に煙が広がった。

 煙幕えんまくだった。

 中身は最初の一撃と同じ針葉樹の葉を燻した煙。

 人影はその煙に紛れて距離を取り、夜の闇に隠れて消えていく。しかし――。

 「腕そのものは悪くないけど……実戦経験がなさ過ぎね。すでに通用しないとわかっているはずの煙に頼って逃げようなんて」

 メインクーンは相手の動きを予測し、とうに煙幕の範囲内から抜け出していた。メインクーンとあの人影とでは実際に踏んできた場数がちがう。とうてい、メインクーンの相手となる使い手ではなかった。

 「それじゃあ、案内してもらいましょうか」

 メインクーンはそう言うと忍び装束の人影を追って走り出した。

 それは、得物を狙う本物の猫よりもしなやかで危険、そして、美しい動きだった。


 忍び装束の人影は王宮の裏門からそのなかに入っていった。

 メインクーンは裏門の前で立ち止まった。

 罠である可能性を考慮し、気配を探る。

 視力、

 聴覚、

 嗅覚、

 人間にはいくら望んでも手に入れることの出来ない鋭敏な感覚のすべてを動員し、肌に当たる風の勢いや匂いからさえも当たりの情報を得ていく。

 音、

 匂い、

 気配、

 あらゆる点で伏兵ふくへいひそんでいる様子はない。

 それでも、用心しながら門をくぐる。どれほど腕が立とうと、能力が高かろうと、一瞬の油断が命取りとなる。

 一年に及ぶ冒険者家業でメインクーンはそのことをいやと言うほど思い知っていた。

 門をくぐり、王宮の廊下を進む。

 王都ユーコミスに来てまだ一月あまり。その間、王宮を訪れたことなど数えるほどしかない。王宮のすべてを把握しているわけもない。獣の勘以外に道標となるものは何もない。

 それでも、メインクーンは先に進む。

 あるいは、引き返すべきだったかも知れない。深追いなどするべきでない場面だったかも知れない。再び、襲ってきたからと言って脅威となるほどの相手ではない。そもそも、再びの襲撃があるとも限らない。

 それでも、メインクーンは進むことを選んだ。

 この一年間、自分の生命を守り抜いてくれた獣の勘。その勘を信じたのだ。

 鋭敏な感覚をまるで、蜘蛛が巣を張るように辺り一面に巡らせながらメインクーンは進む。

 ふと、感覚の糸が異質な気配を捕えた。

 ――なに、この気配?

 人間ではある。

 人間ではあるがしかし、普通の人間とは明らかに異なる気配。

 ――あの部屋!

 メインクーンは扉に手をかけた。

 鍵はかかっていなかった。

 扉を開け、なかに入った。

 そこはろくに明りも付いていない、薄暗く、陰気な空気の漂う部屋だった。

 その部屋の中央、メインクーンの正面にその人はいた。メインクーンやリアナと同年代に見える若い女性。

 「どなたですか?」

 突然の闖入者ちんにゅうしゃにもかかわらず、その女性は驚いた様子もなくそう尋ねてきた。

 「わたしは……」

 あまりに穏やかな態度にメインクーンも思わず答えようとした。そのとき――。

 ツン、とした強い刺激がメインクーンの鋭敏な嗅覚を刺激した。

 花と香油こうゆの香りだった。

 つづけて泡を食ったような声。

 「どうしました、ローサさま……キャッ!」

 メイド姿の女性が飛び込んできて扉の当たりで派手に転び、床に向かって思い切りダイブした。

 「……いたた」

 そんなことを言いながら顔をあげる。

 大きな目にさらに大きなメガネをかけたお下げ髪のメイドだった。

 ――ローサさま? この人がスクアローサ? 先王アルバータの娘である『化石の王女』?

 猫と王女とドジッ子メイド。

 その三者がはじめてここに出会ったのだった。

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