感情疾駆(短編集その6)

渡貫とゐち

(新)感情疾駆

 僕は怒れない。


 怒らないのではなく、。それは他人に苛立つことがなく、不満を抱かないのだから良いことばかりな気がするけれど、怒れないということは溜まった精神的な疲労が発散できないことを意味する。

 心に溜まっていくストレスはいつか心を壊してしまうだろう……、狂った歯車は『喜怒哀楽』の全てに悪影響を与えてしまうのだ。




 私は悲しむことができなかった。


 二人暮らしをしていた、たった一人の家族であるお母さんを亡くしているのに、涙が出てこなければ、寂しいとも、生活に物足りないとも感じなかった……。

 まるで買い物にいった時、いつもは並んでいた商品が気づけば無くなっていた時のような……――最愛の家族がいなくなったのに、私はその程度のことにしか感じられなくなっていた。


 周りは私を心配してくれている……、大声で泣いてもいいんだよ、と言ってくれるけど……がまんしているわけじゃない。

 泣きたいのに、泣けないのだ……だって、悲しくともなんともないのだから。




 俺は喜ぶことができなかった。


 他人からのプレゼントや誉め言葉になにも感じない……だけではない。友人と、彼女と、遊びにいっても俺は笑うことができないのだ。


 機械的に指で頬を上げることはできるけど、そんなことをして取り繕っても仕方がないだろう。楽しそうに見せているだけで、楽しんでいないことがばれているのだから。


 喜ぶことができなくなり、俺の生活は色を失くした――、

 世界は灰色に……生きる希望も一緒に、段々と失われていっている……。




 ぼくには怒りも悲しみも喜びもなかった。


 ただ生きているだけだった……、なんとなく進むべき道が示されているから歩いているだけで、ぼくに意思なんてなかった。

 だからいつ死んでもいいと思っている……もしかしたらもう死んでいるのかもしれない。



『彼女』は教えてくれた――ぼくのせいじゃないと。


『ぼく』に『心』がないわけじゃないのだと――。


 だけど、どっちでもいいのだ。

 ぼくのせいでも、そうでないとしても。


 これがぼくなのだ。


 他人に一切興味がなく、なにが起きてもなんとも思わないのがぼくの個性であり――、彼女が心配してくれるような人間ではない。


 放っておいてくれていいのに……なのに彼女はぼくに構ってくる――。

 どうしてこんなぼくのことを心配してくれるのだろう?



「――だってっ、感情を手離した人はいずれ生きる気力もなくして、廃人になるから……!

 クラスメイトを放っておけるわけないじゃん!!」



 身の丈以上の虫取り網を持った『彼女』が、放課後、ジャージ姿でぼくのことを玄関で待っていた。色々と突っ込みたいところはあるけれど――……あれ?


 自分の中にもうなにも残っていないと思っていたけれど、『興味』は残っていたわけだ。



「大丈夫、わたしは『捕獲屋』だから――。

 明石あかしくんが逃がした『怒り』と『悲しみ』と『喜び』――、絶対に連れて帰ってくるからね!」


「え……」


 待って、と言うよりも早く、彼女は足早に出ていってしまった。

 校門を飛び越えて――、人間離れした運動神経である。


 ついさっきまで興味がなかったけど、クラスメイトのことは記憶していたようで……かなめさん、だったはず……。

 彼女は自分のことを『捕獲屋』だと言っていた。


 ネットで検索してみれば、出てきた……、怪しさ満点のオカルトじみたウェブサイトである。

 そこには在籍メンバー/二人と記載されていた……つまり枢さんと、もう一人いるのか……。


 仕事の内容は『』を捕まえること……?


 じゃあ、彼女が持っていたあの長い虫取り網で……?


 プロが使う道具は、その道のプロにしか分からない有用性があると思うけど、あの見た目と目的を考えれば、安易に予想がつく。


 ……そうなると、無謀なんじゃないか?

 それとも逃げた『感情』というのは、虫取り網サイズだからこそ――最も捕獲しやすい『虫』なのかもしれない……。


「……あ、ぼくの中にもまだ、『不安』はあったんだ……」


 でも、時間が経てば残った『興味』も『不安』も、ぼくが服を脱ぐように、『感情がぼくという皮を脱いで』外に出ていってしまうのだろう――。


 そうやってこれまで、感情はぼくの中から逃げていった。


 自由を得て。


 逃げ出した感情は、この町のどこかに潜んでいる――。





 現代のオカルト(?)であり、便宜上は未解明の病気である――、


 そう、人々の感情が逃げ出した。


 逃げ出した感情は好む場所が異なっている……、たとえば『怒り』であれば人混み、『悲しみ』であれば路地裏などの狭い通路、『喜び』であれば少数が集まる部屋の中など……。

 そしてその感情たちが周囲へ影響を与えるのではなく、周囲から『』影響を与えられている……。


『怒り』が『悲しみ』を得たり、『悲しみ』が『喜び』を得たりする。そうしてたくさんの人々から別の感情を得た『最初の感情』は、当初は一つだったそれが二つ、三つと増えていくことで、感情が収まっていた器であった本人とは『別の人格』を形成する。


 形成された人格は、感情が重なることで認知されやすくなり――、

 一つであれば視える人にしか視えないような、『幽霊』のような存在だったものの、二つ、三つと感情を得れば、生物としての存在感と強さを持つ――。


 感情を収める器となっていた本人による『恐怖』の対象が、逃げた感情の見た目に採用されているので、野生の生物が知恵を持っていると考えれば脅威である。


 犬や猫、猿であれば捕まえやすいが……、やはりみな、恐怖となると、大型や肉食動物を対象に見ている。主に多いのが獅子ライオンや鮫などだ。


 こんな虫取り網なんかではとても対応できないが、人から影響を受け、二つ、三つと得る前の状態であれば、体が大きいだけでそこまで脅威はない。


 両手で掴めば捕獲できる難易度である。



「――あ、いたっ!」


 地面から背ビレが出ているので、あれは鮫だろう……。

 まだ一つの感情しか持っていないようなので、周囲には見えていないようだ。


『怒り』を示す赤いオーラが立ち上っているので、人混みへ向かう気だろう……、いかせてしまえば、怒りに他の感情が与えられてしまう。そうなれば幽霊のままではいられない。


 捕獲屋の少女・枢は、その自慢の運動神経で先回りする。

 ただ、脅威ではないが、相手が鮫なのが厄介だった。


 背ビレだけ出ているため、本体は地面の下だ。

 水中であれば手を突っ込んで掴むことができるけど、陸だと難しい……。

 地中に手を突っ込むことはできないのだから――。



科狩かがりっ、まずいよ、このままじゃ駅前に出ちゃう!!」


 虫取り網を片手に、もう片手でスマホを握り締める。


 通話相手は捕獲屋としてのバディである、不登校の少女だった。



『……うーん、一旦、学習させちゃえば?

 そしたら相手も力を得て、地中から飛び出してくるかもしれないし……』


「わざわざ相手を強化させてどうすんの!?」


『じゃあ背ビレを掴んで引き抜けば? できるならすればいいし、できないならあたしの案を採用するしかないよね?

 無茶なことを言っているのは分かってるよ……だけど、他にもっと良い案があるの?』


「それは……」


 ない。


 少なくとも、現状は思いつけない。


『だったら動け。

 なにかしてみれば新しい案でも思い浮かぶかもしれないっしょ?』


 通話は繋いだまま、枢が虫取り網を大きく振る……、――しゅこんしゅこんッッ、と柄が伸び、網の部分が背ビレを狙う。


 だが狙いは背ビレではない。

 網が背ビレに、万一、絡まったとしても、引っこ抜くことはできないだろう……。

 網自体は普通の網だ、逃げている感情――『怒り』に振り回されるオチである。


 だから、まだ知恵を持たない『生物と同等』の頭しかない鮫(……実際の鮫よりも単純な思考回路をしているだろう……)の進路を妨害するための網だ。

 地中を泳ぐ鮫の近くの地面を網のフレームで叩き、音で意識を逸らさせる。

 音の方向へ向かってくるか、避けるか……、

 なんにせよ駅前にいかせなければいいわけだ――しかし。


「え!? ちょっとっ、やっぱり駅前に向かってる!?!?」


『だって人混みを好むんだから。

 危機を感じて逃げるよりも、好みの場所へ向かう方が思考回路としては単純じゃない?』


 スピーカーにしていたため、耳から離していても通話は聞こえていた。


 枢の方は、答えている余裕がなかった。

 ……このままでは本当に、『怒り』が喜びや悲しみを得て成長してしまう……。

 知恵を持った生物は厄介なのだ……、

 とてもじゃないが虫取り網くらいでは絶対に対応できないくらいには。


『……方法、あるけど……』


「――言わないで」


『でもさ……もう二度とやりたくないっ! とか、言ってる場合じゃなくない?』


「そう、なんだけど……!!」


 そうなのだ――駅前へ逃げてしまった『感情』の対処の仕方は、まだ残されている。

 普通に戦って対処するのがダメなら、相手に別の感情を与えなければいい――『怒り』の感情に、『喜び』や『悲しみ』の感情を与えるから、生物として進化してしまう――。

 霊的なオカルトから実体を得てしまう。


 ――だけど。


 なら話は簡単だ。

『怒り』を持つなら同じく『怒り』を与えれば……?


 与え続けていれば、いずれパンクする。

 自身が元々持っている感情を、追加で許容する隙間はほとんどない。

 抱え切れなくなった怒りで、相手はパンクするのだ。


 ちょうどよく、人が多い駅前だ。


 大勢の感情を操作すれば、逃げた怒りの感情をパンクさせ、元の場所へ戻すことも可能――。


 幸い、手っ取り早く大勢の人間の感情を一色に染められる――対象は『怒り』だ。


 ただ……、取り扱うのが『怒り』なので、どうしても大勢から敵認定されてしまうけど……。



「うぅ……、せっかく風化してきたと思えば、またSNSで話題の人になるの……?」


『前のあれ、最高のパフォーマンスだったよ。

 おかげで感情を手離した人が救われたんだし、いいじゃん』


「他人事だと思ってぇ……っっ!!」



『ほら、早くしないと駅前に辿り着いた「怒り」が、別の感情を得て成長しちゃうよ?

 そうなる前に、枢ので駅前の人たちを怒らせてきて』


「挑発パフォーマンスとか名付けないで!!」



 今だけは。


 自身の中から『恥』と『躊躇い』という感情がいなくなればいいのに、と願う枢だった。



 ―― おわり ――

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