第637話 おじさん漁村での取引を盤石のものとする
「じ、じいさまああああ!」
村長の妻であるエイブルが叫んだ。
さっきから賑やかなことである。
「ジジイが塩漬けになってどうするんじゃあああ!」
「ちょっとは心配してくれてもええじゃろがい!」
息がピッタリだ。
それに釣られて村の中から笑い声が巻き起こった。
何人かの奥様方がおじさんに近づく。
「お、お嬢様と呼んだらええんかね?」
恐る恐るといった中年の奥様におじさんはニコッと微笑む。
マスクで表情はわからないが、口元だけでもその愛らしさは健在だ。
「けっこうですわよ」
きゃああと奥様方から黄色い声があがった。
おじさんに抱かれているシャヒンもだ。
「うちの村の塩干しは美味しいって評判なんだ!」
奥様方の誰かが声をあげた。
自慢なのだろう。
「お嬢様に買ってもらえるんなら、腕によりをかけなくちゃね!」
そうだ、そうだと同意の声があがった。
おじさんも嬉しい。
美味しいと評判の塩鮭が大量に手に入るチャンスなのだから。
ふむ、とおじさんはひとつ頷く。
「では、作っているところを見たいですわ」
おじさんの一言に奥様方の表情が崩れた。
「いやぁ嬉しいねぇ。こっちだよ、お嬢様が見たいなんて言ってくれて」
そこは浜からほど近い小屋であった。
鮭のエラと内臓を抜いて、一本一本手作業で塩をすりこんでいる。
塩をすりこみ終わった鮭は木箱の中に保管される。
だいたい三日程度して馴染ませてから、いったん塩を落として身をきれいにするそうだ。
その後で別の建物で干していく。
すりこむ塩の量がかなり多い。
しばらく見ていて、おじさんは得心した。
そもそも冷蔵庫がないのだ。
公爵家のように氷の魔法を使った氷室があるわけでもない。
であるのならしっかり塩を使って保存食にするしかないのだ。
「お嬢様、今年の最初に作ったやつがあるから食べてみるかい?」
「もちろんです!」
これが現地での楽しみだ。
ただし、おじさんはやることができてしまった。
現場を見て、奥様方の話を聞いて、整えた方がいいと思ったのだ。
「先にやってしまいますか!」
幸いにして、この作業場の周りの土地は余っている状態だ。
おじさんがパチンと指を鳴らす。
陰魔法が発動して、塩と倉の両方がズズズと地面に沈んでいく。
「はうあああ! なんじゃなんじゃ! なにがどうなっとるんじゃ!」
慌てふためく村長だ。
だが、村長は陰の中に入ることはない。
浜の砂もである。
おじさんの魔法が精緻に過ぎる結果だ。
「お姉さま方、少し離れていてくださいな」
おじさんが奥様たちに声をかける。
こういうときはお姉さまが正解だ。
社畜時代にさんざん勉強したことである。
おじさんの言うとおりにその場を離れる奥様たち。
それを確認してから魔法を発動させるおじさんだ。
塩の倉が陰からでてくる。
さらに地面が盛り上がって倉と隣接する建物ができた。
今の作業場とも隣接させて、一気に作り替えてしまう。
お陰で作業場が広くなった。
さらに、おじさんは魚を干すための別棟まで作ってしまう。
村人たちからすれば奇跡である。
もちろん村人の中でもかんたんな魔法を使う者はいた。
が、そんなレベルではない。
同じ魔法だとは烏滸がましくて言えないレベルだ。
それを造作もなく実行するおじさんである。
真っ白なドレスに派手な帽子、マスク姿の完璧な貴族令嬢だ。
見た目だけは。
だが、それは姿を隠した神だと思われても仕方ない。
「さて、このくらいでいいでしょうか。どのみち多く作ることになるのですから、作業場の拡張と処理前の魚を保存する氷室、干すための場所も確保しておきました」
倉と隣接する氷室、氷室と隣接する作業場。
さらには魚を干すための場所の確保も行なったおじさんだ。
「あとはお姉さま方で使いやすいにようにしていただければ……」
おじさんの言葉を遮るようにして、黄色い声が爆発した。
奥様方が子どものように喜んでいる。
その中から代表するように、一人の中年女性が頭を下げた。
「ありがとうございます! ありがとうございます!」
後ろの奥様方も頭を下げて、おじさんに礼を言う。
そのことに満足したおじさんだ。
「では、先ほどのお話どおり、塩干しの魚をいただきましょうか!」
真っ昼間から酒盛りが始まった。
まだ完成とはほど遠いとは言え、塩干しの魚は美味しかった。
しっかりとした塩味。
その奥にある凝縮された旨み。
これなら完成品に期待できる。
おじさんも大満足なデキだ。
侍女がおじさんの耳元で告げる。
「そろそろ男衆が漁から戻ってくるそうです。本日の漁であがった分はすべてお嬢様に献上するとのこと。代価は先ほどの建物にて」
「……そうですか。お金をとってもらって構わないのですが」
おじさんとしては手持ちの資金を減らす目的もあったのだ。
だが、塩干しの魚はすべて塩で賄うことになった。
せめて生の魚はと思ったが、そちらも建物で相殺される。
いや、本来であれば相殺できるものではない。
なにせおじさん特製の建物なのだもの。
村の男衆が戻ってきて、また驚きである。
なにせ村に見覚えのない建物ができあがっていたのだから。
村長が事情を話して、本日の魚をもらうランニコールだ。
しっかりと鮭も含まれている。
豊漁なのは間違いないのだろう。
男衆も胸を張っていることから、おじさんにも理解できた。
「では、そろそろお暇しましょう」
おじさんが立ち上がった。
その瞬間である。
村人全員が、おじさんにむかって膝をつく。
「村の危機を救ってくれた女神様に感謝を!」
村長の言葉に全員が、ありがとうございましたと唱和する。
「いや……女神ではないですし」
それこそ烏滸がましい話だと思うおじさんだ。
だが、である。
いつもどこかで見ている過保護なあの御方は大層満足したようだ。
おじさんの身体に神威の波動が降りそそぐ。
それは有無を言わさない圧倒的な神聖さであった。
「ははー」
村人全員が額を地面につけた。
畏れ多い――そう思ったのである。
「もう! そういうつもりじゃありませんのに!」
ぷんぷんと頬を膨らませるおじさんであった。
逆召喚を使って邸に戻ったおじさんたち。
その姿を見た、妹がおじさんに駆け寄った。
「ねーさま、すてき!」
そんな妹を抱きあげるおじさんだ。
「ただいま。あとでソニアにも作ってあげましょうか?」
「ほんと! そにあもきたい!」
「おかえりなさい、リーちゃん。私の分もお願いね!」
母親であった。
もう食べ過ぎから回復したのだろう。
だが、おじさんが本領を発揮するのはこれからだ。
なにせ生の鮭を仕入れてきたのだから。
「ただいま戻りました。お母様、わたくしとっても良い物を仕入れてきましたの! 本日の夕食は期待していただきたいですわ!」
ああ――と母親は頷く。
またもや美食が饗されるのか、と。
それはそれで嬉しいことだ。
ただ問題は美味しすぎる点である。
「ちょっと厨房に行ってきますわ!」
と、言いながら衣装を換装してしまう。
おじさんコック服バージョンだ。
いつの間にかそんなものまで作っていたのである。
「おかーさま」
妹が母親に抱きついた。
その顔を見上げるようにして口を開く。
「ねーさま、たのしそうだね」
「……そうね」
妹の頭をなでる母親だ。
そう――おじさんが楽しくやっているのなら、それでいいのである。
ただ、胃薬だけは常備しておいてもらう必要がある、と強く思ったのであった。
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