1
気がついたのは三日と二十時間と五十二分ほど前のことだった。
実のところ、そのときのことはよく覚えていない。まず朦朧とした意識があった。その前には何もないし、そこには因果も条理もなかった。言葉さえもなかった。濃霧が立ち込める深海で漂っているような意識だった。きっとノンレム睡眠、あるいは長い昏睡から目覚めるときとよく似ている。
続いて状況があった。ここは正方形状の部屋で、六面の壁、床、あるいは天井は、しみ一つない無機質な白色を呈していた。照明という概念はなかった。それでも暗いわけではなかった。光がないということは、闇がないということと同義なのだ。正面には巨大なコンピュータ(正確にはコンピュータのインターフェースとしての空間モニターや志向性キーボードなど)があった。コンピュータは起動されていて、順調に計算をしているようだった。それ以外には何もなかった。以上が状況のすべてだった。
遅れて思考があった。しかし何も思い出せなかった。何も思い出せなくても、何でも考えることはできた。知識もいくらでもあった。三度の世界大戦のことも、セントラルドグマとその超越のことも説明することができた。しかし記憶というのはひどく奇妙なものだ。それは知識でありながら実在に寄与し、過去でありながら現在の一部をなす。そして記憶がまったくないのにもかかわらず考えることができるということは、さらに奇妙なことだった。
このような事情にあって、さぞ困っただろうと思われるかもしれないが、ありがたいことにそういうわけでもなかった。というのも、何をすべきか(あるいは、何が課されているのか、何をしたいということになっているのか、細かい表現はここでは問題にならない。そもそもぴったりな言葉など存在しないのだから)は、壁の白さと同じくらいはっきりしていた。まるで遺伝子にコーティングされているかのように。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます