第77話 女性もツアー  


「ぜひ、グランドツアーのお話を聴かせてください」


 テレーゼ様が目をキラキラとさせておねだりしている。


 お嬢さまと同じくテレーゼ様も、家族の目が厳しく、あまり外に出ていないと言っていたから、興味はあるのだろう。


 私だって聴きたい。


 本の上の知識ではない、目で見た、知人の話による伝聞だ。知りたい。聞いて知って、色々空想だけでもしたい。


「そうだね、女の子には、パリやローマの話がいいかな?」

「ぜひ!」


「まず、ローマに着いたら、ジェラードだね。かの皇帝ネロもアルプスの万年雪を運ばせて甘くして食べたとか、初代皇帝ユリウス・(英語だとジュリアス) チェザール(英語だとシーザー)がアペニン山脈の雪に蜜を混ぜて食べたのが始まりとか言われているんだよ。その後、マルコ=ポーロがヒーナChina(中国)から持ち帰った乳を凍らせたものから、今のジェラードになったんだよ。二千年の歴史があるんだね」


 コロッセウム、ローマ水道、カタコンベ⋯⋯


 花の都パリよりも、ローマの方が学ぶことが多そう。



「女の子は、パリの方が興味があるかと思ったけど、ローマが気になるかい?」

「はい」

「今はね、女性も、家庭教師や侍女、護衛騎士を連れて、ツアーに出る人も居るんだよ。嫁ぐまでの1年、そういうのに使うのもいいかもね? ハインスベルクの歴史や文化、経済を学ぶのは、嫁いでから公爵夫人に家政のことを習いながらでも間に合うんじゃないかな?」


 そう出来たら、どんなにいいか。私は、ツアーに出る経済力も、国境を越える手形を入手できる伝手も身分もない。


「わたくしもご一緒したいわ。語学に堪能なアンジュ様がご一緒なら、心配ないですもの」

「俺が一緒に行くよ。護衛騎士なんか雇わなくても、騎士団公国第一師団長が夫なんだぞ? 心配することないって。いっそこのまま新婚旅行ってのもいいし」

「あら、わたくしお邪魔虫かしら」

「奥方に付き合って師団は放置か?」


 楽しい夢を見る。夢で終わるけれど。


 テレーゼ様と一緒に、諸国の都をまわって、露店を冷やかしながらクリスと知らない街を歩いて、現地の文化や芸術に触れて⋯⋯


「ハイジも一緒なら、もっと楽しそう⋯⋯」


 ただの呟きだったけれど、ちゃんとクリスは拾ってくれた。


「ハイジがいると、俺ら男は荷物持ち扱いだぞ? 護衛騎士や従僕だけじゃ飽き足らず、兄貴もなんだからな」

「まあ、ふふふ」


 ハイジにも会いたい。あの頃も美少女だったけれど、きっともっと美しくなってるわね。


「まあ、見た目はそこそこ綺麗だけど、中味はどうかなー」

「気位は高い方だよね」

「わたしもハイジとは呼ばせてもらえないからなあ。アーデルハイト 気高く高貴な姿(容姿) なんて古典的で高潔な名をつけた親として、責任もって正しく呼べなんて言うんだ。父さんは寂しいよ」


 ふふ。ハイジは、貴族の娘として生まれたことも、親からの最初の贈り物『名前』も、誇りに思っているのね。


 私は、今は名乗ることも出来ないけれど。


 お嬢さまの身代わりをしているから。父を亡くし、母とは縁を切り、貴族籍を脱けたから。


 元々、新興貴族の官僚子爵家だ。私が成人していて父と同じ管財課の文官になっていなければ、継ぐことは出来なかった爵位だ。

 今更惜しくは無いけれど、それすら維持出来ない私には、本来、こうしてクリスの隣に座るなんて許されなかった。

 ハイジを幼馴染みと呼び、テレーゼ様のお茶会に喚ばれることもあり得ない。


 だから、もういい。もう、見せつけないで。ちっぽけな平民の私と、あなた達との違いを。


 時折、こんな役目、もう何もかも放り出して、どこか誰も知り合いのいない遠くへ行きたくなる。




「お嬢さま」


 はっ みんなの話も聴いてなかったし、変な表情かおをしていたかも。


 ジェイムスさんが、気を落ち着ける効果のあるハーブティーを淹れて、私の前に出してくれた。


「じゃあ、いいね?」

「え?」

「あれ? もう心はローマで聴いてなかった? 気が早いなぁ、よほど行ってみたいんだね。

 いい? テレーゼ様と希望するならアーデルハイトを加えて、クリスを護衛騎士に、僕が家庭教師役で、後見人は僕の母と叔母達。

 先ずはアムステルダムやブリュッセルからパリへ出て、マルセイユ、ジュネーヴ、リヒテンシュタインからベネツィアに抜けて、フィレンツェ、ローマへ。ナポリやコルシカ、シラクーサも見たいかな? アテネからロードスまで足を伸ばすなら、かなりの期間が必要だね。何度かに分けて、数年掛かりで行くのもいいかなって話なんだけど。

 帰りはクロアチアを通ってハンガリー、オーストリア公爵領も見てから帰国、南側の州を抜けてライン川沿いに青の森にブラウヴァルト 帰るのもいいんじゃない?

 カスティーリャ語やバスク語を勉強中なら、アンドラを通ってバルセロナ、カスティーリャ、なんかもいいね。ジブラルタル海峡では、アフリカ大陸も見えるかも? グラナダへ行けば、イスラム文化の宮殿や寺院も見られるしね」


 ああ、なんて素敵な提案。行きたい⋯⋯


 いきなり、クリスに抱え込まれ、頭を胸に押しつけられる。

 何が起こったの?


「そんな表情かお、他の人に見せちゃダメだよ」


 ええ!? どんな表情かおしてたって言うの?


 訳がわからず、ただクリスにされるがままになっていると、まわりの人がまた笑う。


「アンジュ、よほど行きたいんだなぁ。父上に何度も留学を頼んでたもんな。それが、目付役兼ガイド付きで諸国漫遊出来るとなったら、うっとりするよねぇ。ちょっと色気漏れてたよ。クリスが隠さなきゃ、僕が頭から上着を掛けてたかもね」


 お兄さままで言うのなら、変な表情かおをしていたのだわ。


「お見苦しいものをお見せしました」

「俺が見る分にはいいの。他の人に見せちゃダメ。なのに、二人で街歩きした時よりいい表情かおしてたなぁ」


 更に、笑いが起こる。


「グランドツアーはともかく。結婚したら、各領主に顔見世するためにハインスベルク区内をまわるんだから、そのついでにあちこち行くのもいいよな。

 ⋯⋯やっぱりこのまま連れて帰りたい」


 クリスに抱き締められ、お兄さまの、クリスの頭をはたく音を聴きながら、ぼんやりと考えていた。



 このままだと、本当に逃げ出したくなるから、お嬢さま、早く帰って来て⋯⋯

 もう、息苦しくて、幸せで悲しくて、嫌になるから⋯⋯



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