第25話 素晴らしい日常の始まり


 午前中の陽光が優しい内に、お嬢さまのお部屋のテラスから階段を下りて、庭に出る。

 ジェイムズさんと、紹介された庭師のアンドレアスお爺さんと、3人で丁寧に土を返し、雑草と去年咲き終わって立ち枯れた草花を抜き、毎年咲いているらしい宿根草は、纏めて移植する。


 種から育てるのは初心者の私には向かないとのことで、時期的なこともあって、予め あらかじ 用意されていた苗を植えていく。


 これが、とても楽しい。土に脂や水分を取られ、手が少し荒れてしまったけれど、そんな事は気にならないくらい、とても楽しかった。


「苗を植えるにはちょいと遅いですが、なぁに、この土地は水はけもいいし、肥料もたっぷりあげましたで、すぐに咲きますよ」

「でも、あんなに根から遠くに肥料を埋めて、養分は足りるのかしら?」

「植え替えたすぐは、根も茎も葉も疲れとります。だから、ああして養分のない土で根を覆って肥料から一旦遮断して、植え替えた土地の土に馴染んで、側根から新たな根毛を伸ばして、元気になった頃にちょうど効いてくるんですよ」

「そうなのね。細かい作業のひとつひとつにも、意味はあるのね」

「ハイです。お嬢さんは飲み込みがいい。すぐに儂の生徒は卒業ですな。儂も引退が近いですが、それまでは何でも儂の知る限りのことをお教えいたしますぞ」

「まあ、そんな、アンドレアス爺はまだまだお若いですわ。このお屋敷のお庭を一手に監督なさっているのでしょう? あの前庭は、訪れる人皆が感動なさるわ。まだまだずっと、わたくしに色んな花のこと、土のこと、教えてくださいね」

「勿体ないお言葉です」

「いいえ、アンドレアス。お嬢様の仰る通りですよ。これだけの仕事をこなして尚、ピンシャンしているのですから、健康にも留意しているのでしょう? 他の庭師達の手本として、まだまだ威厳を見せていただかなければ」


 ジェイムズさんの言葉に、泣き笑いの表情かおで、アンドレアスお爺さんは何度も頷いた。


 そんな様子を見て微笑む私の表情かおを、孫を愛おしむ祖父のような表情で見てくるジェイムズさん。

 急にツンケンしたところがなくなって『よい子のアンジュリーネ』になり過ぎたら不自然なのだけれど、ジェイムズさんは私が偽者だって知っているから、つい、気が緩んで素で行動を起こしてしまう。もっと気を引き締めなきゃ。




 お庭から戻って手を清め、土埃のついた木綿のドレスは昨日買ってもらったローウエストのワンピースに着替えて、昼食をお母さまと摂る。


「今日は、お兄さまは? もう、領地に戻られたのかしら?」

「ええ、あちらで余生を過ごされていらっしゃるお祖父さまにご用があるそうよ? 明日の夜には戻れるといいのだけれど」


 領地は離れている。馬車でゆっくりぽくぽくと行くなら数日はかかる。

 婚約者クリスの領地なら一週間近くかかるかも知れない。なにせ、国境を守る騎士リッター公爵家・フュルストだから。


 お兄さまは、単騎で行かれたとのことだから、休憩を入れても一日で行けるらしい。


「単騎で行かれただなんて、御身はご無事なのかしら? 追い剥ぎや野伏せりなどに遭わなければいいのですが。それに、外敵の危険はなくても、事故や突発的な事で落馬なさるかも知れないし。ひとりくらい従者を伴うべきなのでは?」

「私もそう言ったのだけれど、何度も往き来した道でよく知っているから大丈夫だ、従者が遅れるのを待ちながら進むのは時間が勿体ないと仰るのよ? 自信家だこと。 それに、仕えてくれている従者に失礼よねぇ?」


 コロコロと鈴を転がすように笑うお母さま。お綺麗なだけでなく、とてもお可愛らしい。



 食事の後は、図書室に行って、念願の読書。


「ニーベルンゲンの歌が、肉筆写本で読めるなんて、この図書室は本当に素晴らしいですわ」

「それは?」

「北欧神話や歴史、伝承に関する本ですわ。古神話エッダ物語サガもあわせて読むと、もっと深く楽しめますから。古ノルド語の辞書まであって、わたくし、この部屋に住みたいくらいですわ」


 お母さまが、私が選んで棚から取り出した北欧神話や北ゲルマン語派の古典散文叙事詩などを覗き込んで、興味深げにしている。


「留学は許してもらえなくても、この図書室にいれば、まだまだ多くのことが学べますわ」


「本当に、好きなのね。後でジェイムズをよこすから、その時にお茶をいただきながら、読んだ内容について聴かせてちょうだい?」

「はい」


 あのお嬢さまの身代わりなんてとんでもないと思っていたけれど、この図書室だけでも、ここに来たかいがあったわ。



 お母さまは、ああ仰ったけれど、あまりに夢中になって本を読む私に気をつかわれてか呆れてか、お茶の時間に足を運んでいただいたのに、静かにお茶や焼き菓子を置いてそっとしておいてくれたので、気がついたら外は暗く、晩餐の時間だった。



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