身代わりの私は退場します

ピコっぴ

第1話 「お嬢様がお帰りになりました」

「お嬢様がお帰りになりました」


 いつかは来るとずっと怯えていた。

 いつかは終わる生活だと覚悟していた。

 いつまでも続くはずはないと解っていた。


 でも、いざ、その時が来たら、私は、思ったより覚悟は出来ていなかった事がわかった。


「了解致しました。これまで支えてくださり、ありがとうございました」


 私は、深々と頭を下げる。


 家令のジェイムズが、唇を噛み締めて頭を下げる。


「勿体ないお言葉でございます」


 濃い深草色の絹の身ごろに淡い若緑色のチュールで肩やデコルテを飾ったプリンセスラインドレスの17歳の小娘と、光度の低い場では黒に近く見える深いマルーン色の燕尾服に身を包んだ60絡みの熟年男性。

 親子どころか孫と祖父ほどの年の違う男女が頭を下げ合っている。中々シュールかもしれない。


「何をしているの?」


 私の背後から、高くて細い声がかけられる。


 私達は頭を上げて、声のする方へ向き直る。


 上品なダークローズ色でスレンダーラインのイブニングドレスに白く毛が長いファーケープを羽織った40歳前の女性。輝く金髪と、この国でも珍しいペリドットの瞳が優しい印象の美女だ。

 この屋敷の女主人、ミレーニア。ランドスケイプ侯爵夫人である。


「お母様。何でもありませんわ」


 私は、天使の笑顔を意識して作り、ミレーニア様に答える。


「そう? あなた、まだそんな格好なの? 夜会へ行くのだから、早く綺麗にしてもらわないと。間に合わなくなってしまうわ」


 ミレーニア様が動くたび、ドレスに縫い付けられた赤いガラスビーズとルビー粒が灯りを反射して、キラキラと輝く。その美しさに負けない美貌で、微笑みかけてくれる。


「はい、お母様。すぐに支度に向かいますわ」


 軽く浅めのカーテシーで挨拶をして、目を伏せてしずしずと、その場を立ち去る。

 毛足の深い絨毯を踏みしめても殆ど音はしない。

 もっとも、タイル張りや寄せ木の床でも音をしないように歩く訓練を受けているので、ドタバタ靴音を立てるような粗相はしない。



 自室に戻ると、お嬢様の専属侍女がメイドを伴ってわらわらと寄って来て、着ていたプリンセスラインのドレスを脱がせ、シックな萌葱色のマーメイドドレスを着付けられる。

 私の着るドレスはみな、深みのある緑色が基本色となっている。

 会場のドレスコードで別の色を着なくてはならない時でも、装飾品や差し色などに必ず使う。


 髪をハーフアップにし、エメラルドやグリーントルマリンなどを使った飾りなどを髪、耳、首、手首などに飾り付けていく。

 私の好みに合わせて、デザインも繊細で、小さな目立ちにくいものばかりだ。


 支度が済むと、使わなかった装飾品や化粧道具を片付け、メイド達は下がっていく。

 専属侍女がひとりだけ残り、ハーブティーを淹れてくれた。


「ずいぶんと、地味な格好ね?」


 姿見に映る自分を見ていると、右隣に立つ自分 • • から眉を顰められる。


「目立たない方が、まわりから怪しまれなくていいでしょう? それも今日までですわ」

「今すぐでもいいけれど、色々予習しておかなきゃならないから、明日の朝まで譲ってあげるわ」


 そう言って、もう一人の私はくるりと後ろを向き、ソファにぽすんと沈み込んだ。

 テーブルに用意された華奢な茶器と可愛らしいプチタルトに手を伸ばす。


「パティシエ・トムソンのタルトも久し振りよ! 禁欲的な毎日は辛かったわ」


 アンジュお嬢様は、うっとりとした目でプチタルトを愛で、パクリと一口で食べてしまう。


「何見てるの? さっさと行きなさいよ。最後の楽しい舞踏会を楽しんでくるのね」


 まるで犬にするかのように手を振って、部屋を追い出される。


 廊下の壁際に控えていた家令のジェイムズが、客人の訪問を伝える。


「そう。ありがとう。これで最後だもの、気を緩めずに、しっかりお嬢様してこないとね」


 嘲笑っぽい笑みになるのは許して欲しい。



 二階の廊下から絨毯を踏みしめ、臙脂色のカーペットが敷かれた階段を降り、エントランスに立つと、正面玄関の扉から入ったすぐの所に、ワイン色の夜会服に身を包んだ青年が立っていた。


「こんばんは、アンジュ。今日も萌葱色のドレスが映えて、とても綺麗だね」


 アンジュお嬢様の • • • • • • • • 婚約者様、クリストファー・エルラップネス公爵フュルスト子息。


 西の辺境伯マークグラーフの甥で、彼の家の当主も領邦侯テッレトリウム(半自立公国主)として、辺境伯と共に国境を守る騎士公爵で、いずれは彼も帝国に騎士として貢献するようになるのだろう。


 淡い萌葱色の絹の長手袋に包まれた私の手を取り、指先にそっと口づける。


「今夜も、私は美の女神のエスコート役として注目の的になるだろう。光栄だよ」


 彼のお父上は騎士であり、辺境諸公国の当主公爵様であるが、宮中に於いては、王族に叙爵される公爵家ヘルツォークより下に扱われる。それでも伯爵グラーフよりかは上として公爵家フュルストを名乗ることが許される。

 一般的には、我がランドスケイプ侯爵家マークィスと同等と見做されているので、婚約者としては身分的に釣り合っているのだろう。帝国に於ける貢献度は、国境を守る要の騎士団公国として、あちらの方が上だけれど。

 彼らにそっぽを向かれると、国境線が変わる事になるので、国防の意味からも、皇帝も、辺境伯や領邦侯を粗末には扱わない。

 彼らを「田舎者」としてさげすむ愚か者もいないでは無いが、誰も表立っては口にしない。当然だろう。

 ひとたび周辺諸国と戦争になれば、彼らの武力なくしては立ち行かず、自らが貶んだ「田舎者」──戦闘の専門家に守られる立場なのだ。


 西の諸国と祖先は同民族なのだろう、淡い金髪と深い萌葱色の瞳。白磁の肌。

 騎士団公国の次期当主として鍛えた肉体。いずれは当主様同様、日に焼けて白っぽい髪と小麦の肌になってゆくのだろう。

 それでも、萌葱色の瞳は変わらない。


 私がドレスや装飾品に萌葱色を纏う理由。

 それは、婚約者様の瞳の色を纏うことで、移り気は起こしません、貴男の物ですと表明するためだ。


 彼の夜会服は、男性は季節を表すしきたりだから、秋を感じさせる色合いとして今夜はワイン色である。

 それでも、騎士団の訓練でもピアスならジャマにならないからと、常に私の瞳の色のグリーントルマリンをピアスにして、私の婚約者として表明してくださっている。

 派手なダークレッドではなく深みのある暗い赤なのは彼らしいセンスの良さだろう。


「あまり誉めすぎないでください。緊張してしまいますわ」

「本心だけど?」

「もう⋯⋯」


 ミレーニア様が私の肩をそっと押しやる。


「さあさ、睦まじいのは良いことだけれど、夜会に遅れてしまうわよ? そろそろ行きましょう」


 ランドスケイプ侯爵に手をとられたミレーニア様が馬車に乗り込む。

 私も、クリストファー様に支えられて馬車に乗り込んだ。



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