心の呪い 2
――目が、覚めた。
「…………」
それは、真か虚ろか。
なんだ……なにか、今……夢を、長い夢を見ていたような……そんな、気がした。
たとえ。
私がこれから、どれだけ手を伸ばしても、とどかないような……儚く、しかし確かにそこにあった……
忘れたくないのに離れたくないのに、もうずいぶんと遠くにきてしまって……もうここからでは、あまりにそこは――
「…………」
私は……私は仰向けで……浜の上に転がっている。
さきほどまで降りしきっていた冷たい雨は、いつの間にかやんでいた。どころか、雲の間からは陽光が漏れ出しつつあり、それは辺り一帯を、海を、大地を、切れ切れとそこはかとなく照らしていて――
「…………」
なんで、目が覚めたんだろう。
波に巻き込まれて……なのに、たまたま、こうやって砂浜に、打ち上げられた、ということ、だろうか……
「…ぐっ…………」
私の怪我の状態は……依然、未だ私の命の終わりが決まっていることを、しっかりと教えてくれる。
急所を貫かれている、今も激しい出血が続いている……ただ不思議と寒気も、苦しいとか辛いという感情も、どうしてかそこにはなくて。
ただ、今あるのは、寂寥にも似た――言いようのない、喪失感。
私は……最後のこの光景を、せっかく目が覚めてしまったのだから、焼き付けて――また、もう一度、ゆっくりと目を閉じようとして――
「…………?」
ざく、と。
私の耳に……どこからか、足音が響く。その足音の方向も、もはや分からない……一人……二人……? 人数も聞き取れない。ただ、もはやそれが誰でも、私にはどうでもいい……私には無関係な事だった。
たとえ、足音の主が帝国の兵士であろうと……それ以外の誰かであろうと……気の毒なのは、瀕死の……今まさに死ぬという女剣士を見つけて訳が分からないという、発見者の方なのだから……
「だ、だ、大丈夫ですか!?」
「…………」
――少女の、声だった。
それは……帝国兵じゃない、聞いたことのない声質のもの。
だとしたら、私に近づかない方がいい、もしも帝国兵が……この前追い返した連中がやってきたら危ないぞ……そう、口に出そうとしたが、私の唇はぱくぱくと、ただ酸素を求めるように開いたり閉じたり……もはや発声も叶わない。
「…………」
なにか出来ることは……とりあえず、この少女の心を、読んで……
「…………」
「…………?」
ふと気づく。
心が読めない……心の呪い……心眼……今まで何度も何度もやってきたこと、相手の心を探る……それが、なぜか出来ない……なんで……
「…………」
「…………あ……」
違う……そうじゃなかった。
読めないんじゃない、それ以前の問題だ……これは、私の中から……心の呪いが消えている。
(なん、で…………)
私の最後の記憶は。まるで私の隣に佇むようにいた、ライコ・アヤシキの声――
「………………」
「…………」
そう、か……そういうこと、か……
「あ、はは………………」
あはは、そうか……
呪いは……心の呪いは、私の中からいなくなってしまった。それは……呪いが、呪いとしての特性を発揮したから……恐らく、そういうこと、なのだ……
「…………」
呪いは……呪いにはそれを解く方法が、必ず存在する。
一つは、宿主の死……呪いにかかった人間が死ねば、例えそれがどれほど強力な因果を持つ悪意であろうと、呪いはこの世界から消滅してしまう。
そしてもう一つは……呪いを凌駕すること。
呪いの持つ特性を見極め、呪いが求めているものを知り、呪いを完膚なきまでに凌駕する。
(…………)
思い出せ……。
この呪いを得た時、私は全てを失っていた。
そんな時、心の呪いに憑りつかれ、むしばまれ……私は他者の心に否が応でも介入してしまう……そんな奇妙な力を得てしまった。
心も、潰れて……なにも、ない。そんな私に憑りつく悪意が求めるもの。それは……きっと、私にとってもっとも残酷な、決して手に入らないものに、そう、決まっている。
「…………」
それは、私がどうやっても、およそ手に入らないだろう時間。
幸せ、だ。
温かくて、優しくて……まるで故郷であったかのような、私が私らしく、心の底から笑顔でいたような時間。
それを、心の呪いは、私に求めた。
悪趣味にも、私が手に入れられる可能性の最も低いものを、呪いは私に要求し――そして、私をあざ笑っていたのだ。
「…………」
それが、奇しくも。
あの子との……スイナとの時間を経て。
それは本当に疑いようもなく、かけがえのない……故郷でのみんなとの時間と同じくらいそれは素晴らしくて本心から眩しいもので。
そして、同時に。呪いの原因を……あの男を私が倒したから、心の呪いは……満足して……来た時と同じように、去って行ったのだ。
理不尽に、身勝手に。私をもてあそんで消えてしまった。
だから。
(まったく、たちの、悪い……)
私は――にやりと口元を歪める。
そしてライコ……お前は……呪いそのもの、呪いの副産物、というよりも。
私が望んだ、剣境をも倒せるほどになりたいという、あまりに強くありたい私の姿……それが、
もうひとつの人格として現れた……そんな、存在だったんだ。
今ならそれが分かる。
……私が望んだ、強いわたし。
でも、ライコ・アヤシキも――もうきっと、どこにもいない。
全ては収束して、あるべきところに収まったのだから。
私は、もう満足だ。
「…………」
これで思い残すこともない、私は…………
「…………?」
ほんの少し……全身を絶え間なく覆っている鈍い痛みが和らいだ気がして……私はここで初めて、己のまぶたを開く。
最初、それはぼんやりとはっきりしなかったが――
「死なせませんよ!」
「…………」
うっすら半目で見ると、見慣れない眼鏡の少女がこちらの顔を覗き込んでいた。
『耳を閉じ輪転せよ(グリエルタ)』
「…………っ」
そう、ささやくように――彼女が口を動かした直後だった。わずかな時間だけ空気が揺らめいたかと思うと――
私の体が……さらに、重りのようなものを外された感覚を持って……軽いものになる。相変わらず全身の痛みの総量はさして変わっていないが……しづらかった呼吸もしやすくなって、私はふう、と息を思わずついて――
「きみ、は…………」
「よ、よかった! 喋れた! だ、大丈夫ですか…………」
「…………」
見ての通り、大丈夫ではないが……今のは……この幼い少女が遣ったのは、回復魔法のたぐい、だろうか……
「……」
回復魔法は……呪言の中でも特に習得が難しいものだ。それを、あの子たちとさして変わらない年齢で使えるなんて……まったく、世界は広いというか……大したものだ。
そう……素直に、こんな状況で馬鹿みたいに感心する私の顔を、少女はまた呪言を唱えがら必死な様子で見つめて――
「実はワタシ……人を探しに来たんです、私と同じくらいの年の子たちで……ワタシ、帝国に捕まってたんです。あの子たちを探さないと……だから」
「……」
「なにか、知りませんか? ってあなたに聞きたくて」
「…………」
「ご、ごめんなさい。大変な怪我をしてる人に言う事じゃ……ないですよね! でも……これって意味があるんです。あなたの意識レベルを保つために何か話しかけなきゃいけなくて……でも、今この場で話題がすぐに思いつかなくて……だ、だから……いけない、手が震えてる緊張してる! で、でも……」
「…………」
「大丈夫ですから! あなたは助かります!」
――そう、はっきりした口調で、断言するように……優しい医者が、末期の患者を励ますように、彼女は言う。
「…………き……」
「す、すみません喋らないで! あなたは助かりますけど……だからって安心しないで! 安心しちゃうとそれはそれで、危ない…………!」
「…………」
ああ……。
そう、か…………
思い出した。
君は……そうか、君が……あの子の……一番の親友か。
あの子がいつも思っていた、誰よりも感謝していた、似合わない眼鏡をかけた少女。
少女は私の幻覚なんかじゃない、確かにそこにいて、私に話しかけてくる。
「い、生きるのをあきらめないでください、あのですね実は……ワタシも海に落ちて……それから長いこと海の上を漂いました!」
「…………」
「それで、死にかけましたけど……そしたらですね、一隻の船が通りかかったんです!」
「…………」
「そこに、乗っている人が……なんとその人が、すごい回復の魔法を遣える……呪言遣いの方で……ワタシ、その人になんと、助けられちゃって――」
「…………」
眼鏡の少女は焦っているのか、しどろもどろになりながらも、眠るように目を閉じようとする私の肩を時折ゆすりながら、言葉を重ね続ける。それは、なんだかクスリと笑ってしまうくらい、本人が必死なのはわかるが……私の仕事柄、なんだかひどく微笑ましい仕草に思えて、私は――思わず緩む口元に拍車がかかる。
「な、笑って……!? 意識が混濁してるのかも! はやく、はやく…………って、ああ!」
「……?」
「来た! せんせー!! だいせんせー!!」
そう言って――しかし先生と呼ばれたのは当然私ではない。眼鏡の少女はあらぬ方向を向くと立ち上がって、全力で身振り手振り、下に寝転がる私の方を指さして、手を振って大声で騒ぎ立てる
「先生! はやくこっちです!!」
「なーにやっとるんだおまえは!」
「…………」
私は……どうにか、視線だけ新たな声がした方向に向けると――嘘のような長身の女がこちらにやってくるのが見えた。
本当に、背が高いな……私が165センチくらいだが……それより頭二つ分以上はあるように見える……
そんなふうに、また私は死にかけのまま、感心してしまう。
「先生は凄いんですよ、どんな怪我でも直しちゃうんですどんな病気だって先生の前ではお尻ペンペンです!」
「えーなんだあこいつ!! なんだてめーその糞みたいな怪我はオオン!」
今度は長身の女が私の顔を覗き込んで……
「はああ……マジかあああ……」
やれやれ、と心底面倒そうな様子で頭をボリボリと書いて、大きなため息をつく。眼鏡の少女とは態度が180度違うが……なぜか私は嫌な感じがしない。この女とはなんだかいい酒が飲めそうな、そんな予感。
「ってか眼鏡ェ!! おれさまを先生って呼ぶな! くすぐってえんだよその言い方! そもそもおれさまはお前の師なんかじゃないんだからなあ!?」
「またまたー…………! ってそれこそ先生! 先生こそワタシのことを眼鏡って呼ぶのやめてください! せめて名前か、もっと可愛らしい愛称で呼んでくださいっていつも言ってるじゃないですかー!」
「ああもう、ったくよお…………」
そんな眼鏡の少女を無視して。
私の横にしゃがみ込む長身の女は、私と目を合わせ――
「また、不良債権っぽいぞこいつー……この前も、あの馬鹿の糞みたいな怪我をなおしたとこなのによッ!」
それだけ言って、それを唱え始める。
その魔法は、比較的長い詠唱を必要とする……私は詳しくないが、それは恐らく、大魔法……回復系統の大魔法の文字の羅列に思えて。
「……ああいってますが、先生はホント、すごく優しいんですよ? お金がない人には無料で怪我なおしちゃうんです。だから今度こそ、安心してください」
ホッとした様子で眼鏡の少女が話しかけてきた。
「…………」
私は……さっきの眼鏡の少女の呪言のおかげだろうか。今は、ほんの少しだけなら喋れる……その事実に気づいて、未だ詠唱を続ける長身の女の邪魔にならない程度の小声で……ただなんとなく。
なんでそれを聞いたのか分からないけど、初めて会う彼女がどうしても他人の気がしなくて、それを、聞いてみることにした
「なあ……一つ、聞いていいかい?」
「はい……?」
ふわり、とした仕草で愛想よく、こちらに微笑みかける少女。
「……私には、もう何も……残っていないんだ。大切な人はみんな私の前からいなくなってしまった」
「…………」
「だから、正直……これからどうすればいいのか、分からない。生きる意味が、見当たらない、んだ…………」
「…………」
「そんな私なんだが……、はたして、私はこれから……どうすればいいんだろう……」
「……」
少女は――眼鏡の少女は、ずり落ちた眼鏡をゆっくりと直しながら……私の話を聞き逃すまいと、そのすべてを聞き届けて――
そして、ゆっくりと首を傾げる。
「んー?」
「…………」
「えーと……すみません。よく、あなたのおっしゃっていることが分かりませんが……」
「…………」
それは、そうか。急にこんなことを聞かれても、それはそう……困るしかない。まったく私は、生徒くらいの子供に、何を……訳の分からないことを聞いているんだろう。人を教え導く立場の人間が――
「…………」
そう思った私だった。そう自分を恥じた私だった。だけど少女は……困惑していたが、それでも、それは私が思っていたところとは違う、別のところに引っかかって、それゆえの反応だったことを、私は直後に知る。
「うーん? なにも……残ってない……ですか?」
「…………?」
少女は不思議な顔をして――
「何を言ってるんですか? あなたが出会った人が……あなたの大切な人が、もしも、あなたの前からいなくなってしまっても……」
「…………」
「その人たちが、確かにあなたといた事実は、決して消えないんじゃないですか? あなたが生きる限り……前に進み続ける限り、あなたと共にその人たちはあるんじゃ……ないんですか? ワタシは、そう思うんですけど……なんて、言えばいいのか、難しいんですけど……」
「…………」
「だから、あなたに何も残ってないなんてことはないです。あるはずないんです。だって、それはきっと――」
「…………」
少女は――
眼鏡の少女は、きっとそれは、あの子にも、今もあの場所で眠るあの子たちにもかつて向けていたのだろう、そんな朗らかで、陽だまりの中にいると錯覚させるような、そんな人懐っこい最高の笑顔で――
ただそれだけを、初めて出会う私に言う。
……それは。
もう、たった一言――、これまでの、私の復讐の旅を締めくくるには、まったくふさわしくない……、
しかし、これからの物語を始めるのには恐らく相応しいのだろう、そんな、すべてが紡がれてたどり着いたような、真っ直ぐで裏表のない、ともすればどこかで聞いたことのあるような言葉なのだった。
「あなたの心に、ぜんぶ残ってるんですよ!」
剣の果てで君を待つ 了
第三部『辺幽の魔女』に続く
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