第5話:奇妙な抱擁
「ハァ……疲れた……」
わずか半日の間に人生を左右することが立て続けに起きたおかげで、俺は宛がわれた自分の部屋にたどり着くや否やベッドに倒れ込んだ。モフッと柔らかくて心地の好い感触を全身で味わいながら目を閉じる。
油断したらそのまま夢の中へ一直線だが、この後はお風呂に入ることになっているので堪えなければならない。
「師匠……あんたは今どこで何をしているんだよ……」
どうして借金を遺して俺の前からいなくなったのか。どうして俺の知らないところでティアリスに戦技と魔術を教えていたのか。そもそもユレイナス家とはどういう関係なんだ。聞きたいことが山ほどあるから早く帰って来てくれ。
「くそ馬鹿師匠が……」
針に刺されたような鋭い痛みが胸に奔り、ギュッと唇を?みしめる。ロクでもない人だが、それでもあの人は俺にとって唯一の家族。だから───
「ルクス君、入りますよ。お風呂が空いたから呼びに来ました───って、起きているなら返事をしてくださいよ」
「ティアリスか。部屋に入るときはノックをするように教わらなかったのか?」
抗議するように頬を膨らませながら部屋にやって来たティアリスに、俺は目を逸らしながら言った。
風呂上がりだからか肌はわずかに上気し、髪もまだしっとりと濡れている。胸元が見えそうな無防備な部屋着姿は歳不相応な艶があって目のやり場に困る。
「失礼ですね。私はちゃんとノックをしましたよ? でも反応がなかったから寝ちゃったのかなって思って。だから起こしてあげようとしたんですが、ルクス君はそういう風に言うんだぁ。私の善意の気持ちを茶化すんだぁ」
悲しいわ、と泣き真似をするのはいいが歪んでいる口元は隠した方がいいぞ。からかう気満々だってことが丸わかりだからな。
「でも今はからかっている場合じゃないですね。ルクス君、大丈夫ですか?」
「なんだよ、藪から棒に。俺は別に何ともないぞ?」
「それならどうしてあなたは泣いているんですか?」
俺が泣いている? そんなはずはない。怪我をしたわけでもないし、どこか痛いところがあるわけでもない。唯一心当たりがあるとすれば、先ほどまでティアリスとしていた試験勉強があまりにも厳しかったからかな? それでも師匠との地獄のような修行の方が何倍も辛かったが。
だが、どこか悲しげな表情をするティアリスが嘘を言っているとは思えず、頬を触ってみると確かにじんわりと湿っていた。
「自覚がないのは考えものですね。辛い時は辛いって口に出してください。そうじゃないと……心が壊れてしまいますよ」
そう言いながらティアリスは俺との間合いを一歩だけ詰めた。手を伸ばせば包み込めるような距離感。心臓の鼓動が速くなる。
「無理もないです。ヴァンベールさんはルクス君の師匠である前にたった一人の家族。それがある日突然いなくなったら寂しいですよね……」
「お、俺は別に寂しいだなんて思ってな───!」
「強がらないで、ルクス君。大丈夫、私がついていますから」
気が付けば俺は彼女に優しく抱きしめられていた。この温かくて柔らかい、慈愛に溢れる抱擁はどこか懐かしくて心地いい。
「今まで一人でよく頑張りました。でも一人で頑張るのは今日で終わりです。これからは私が一緒ですよ」
あやすように俺の背中を優しく撫でながら言ったティアリスの言葉に、心の奥底で氷漬けにされて眠っていた感情がゆっくりと溶けていくのがわかった。
俺は寂しかったのだ。突然借金を遺して消えた師匠。そこから始まった一週間にも及んだ逃避行は色んな場所に行くことが出来て楽しかったが、幸せそうに笑っている家族を見て言葉にならない虚無感を覚えた。その正体がようやくわかった。
「これからは一人で抱え込まないこと。辛いことがあったらすぐに私に言うこと。わかりましたね?」
「……どうしてキミは俺に優しくしてくれるんだ? 知り合ってまだ半日しか経っていないのに……」
「フフッ。妹弟子が兄弟子の面倒を見るのは当然のことでは? なんていうのは冗談で……その話はまた今度。もう少し絆を深めたら教えてあげます」
勿体ぶるところは師匠の受け売りだろうか。真似しないでさっさと教えてくれ。
「女の子の秘密を暴こうとするんじゃありません。がっつく男はモテませんよ?」
「はいはい、わかりましたよ。そういうことなら今は無理に聞かないさ。でもいつか、ちゃんと教えてくれよ?」
「もちろんです。その時が来たら必ず話すので安心してください。それよりルクス君。少しは落ち着きましたか?」
すっかり涙は止まっていたが、もう少しだけこのままでいたいと思うのはどうしてだろう?
「ルクス君って案外寂しがり屋さんですね。いいですよ、気が済むまでこうしていてあげます。今夜は特別です」
「ありがとう、ティアリス」
どれくらい抱きしめ合っていたかわからないが、この奇妙な抱擁は俺を呼びに行ったきり戻ってこないティアリスを心配したシルエラさんが来るまで続いたのだった。
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