毘藍婆

毘藍婆-1

 初秋の晴れ空に、坊主の説法が響き渡っていた。

 人生を舐め腐ったような、甘っちょろいことをのたまってはいるが、声だけは良い。芯があって、遠くまで通る美声。この男の読経は、さぞかし聴き心地が良いものだろうと、明楽紅子は耳を傾けながら思った。

 上州吾妻郡じょうしゅうあづまぐん猿ヶ京村さるがきょうむらにある、慈光宗じこうしゅう僭徳寺せんとくじ。昼餉を食べ終えた紅子は、本堂の濡れ縁に腰を下ろし、漆喰の壁に午後の気怠い身体を預けていた。

 目の前には、一抱えもあろうかという柿の木。風に吹かれ実りだした柿を揺らしている。何も無ければ昼寝日和であろうが、今日に限ってはそうもいかない。


「日々、他者を慈しみ、自分を大切にしなさい。さすれば、他者の心に光明が射し、その者が別の他者を慈しむようになる。そうして世は治まり、また重ねた徳によって、我々はいずれ御仏のおわす楽土に行けましょう」


 紅子は思わず舌打ちをしていた。


(聞いているだけでむかっ腹が立ってくる)


 他人に優しくし、自分を大切にする。そうすると、いずれは他人も別の誰かに優しく接するようになり、それが世の平穏に繋がる。その上、極楽浄土に行けるというお墨付き。よくもまぁ、見え透いたハッタリを言えるものだ。

 僭徳寺に滞在して三日。連日説法を聞いているうちに、大方の内容は覚えてしまった。しかし、理解は出来ない。それどころか、甘っちょろ過ぎて反吐が出る。

 他人に優しくしただけで世の中が平穏になるのなら、逸撰隊がここにいる必要は無い。というより、世を乱す幕敵や凶賊に対抗する為に設立された隊の存在こそが、慈光宗の教義を否定しているのだ。

 それでも、この寺には連日多くの門徒が押し寄せている。何が魅力なのかわからないが、猿ヶ京村だけではなく近郷の村々からも百姓たちが集まっているようだ。畠仕事はいいのか? そこまでして、この説法を聞きに来る価値はあるのか? と、とっ捕まえて訊いてみたい気もする。

 慈光宗。時の将軍・徳川家治とくがわ いえはるや今は亡き御台所に保護され、上州を中心に関八州で広まっているという宗派だ。また幕府には協力的で、寺院を幕吏の宿舎に提供している。今こうして僭徳寺に逗留しているのもその為だが、紅子が知っているのもそれぐらいだ。

 慈光宗どころか、宗教というものに興味が無かった。死ねば無になる。楽土も来世も無い。そう思って生きてきた。だから死にたくないとも思うし、強くなろうと修行を重ねてきた。


(今度の標的マトはどれほどのものだろうか?)


 先日の盗賊は他愛も無かった。所詮は人目を避けて、コソコソと銭を盗むだけの泥棒。そもそも大した期待はしていなかったのだが、予想通りに自分を満たしてくれる相手ではなかった。

 十日前に紅子は同じ上州の利根郡で、夜狐の九平という盗賊を討伐していた。それは今回の獲物である真中谷玄従まなかや げんじゅうという浪人の肩慣らしと思っていたのだが、夜狐の一味はそれすらもならなかった。

 しかし、真中谷は期待が出来る。元は会津藩士で奇正流きせいりゅうの使い手だったという報告がある。他にも樊噌流はんかいりゅう居合術・一旨流いっしりゅう槍術・鹿島流かしまりゅう棒術を修めているという噂だ。

 真中谷は会津藩でも上士の家門に生まれ、藩主の会津侯にも目通りしたことがあるという。そんな男が、どうして落草しお尋ね者になり果てたのか。ただ獲物を狩るだけの紅子には知る由もない。


(せめて、敵さんぐらいは愉しませてくれないと)


 心中で嘯いた紅子は、ごろりと横になった。今回の任務は、紅子にとって不満しかなかった。

 本来なら紅子は、逸撰隊の一番組を率いている。一番組は隊の精鋭で構成され、その任務は主に政治犯・思想犯・凶悪犯の摘発であり、活動範囲は日本全国だ。

 紅子はその一番組の組頭として、隊士を自ら選び抜き鍛え上げてきた。しかし、今回はその一番組ではなく、半年前に新設された三番組を臨時の組頭として率いている。

 三番組の隊務は、関八州の治安維持である。ゆえに紅子は上州の各地を巡っているのだが、それもこれも前任の組頭が、山賊やまだちの討伐中に火縄銃で頭を撃ち抜かれてしまったからだ。半年前に新設されてから、二カ月後のことだった。

 三番組頭の戦死を江戸で耳にした紅子は、「ほら見たことか」と、逸撰隊の局長である甲賀三郎兵衛こうが さぶろうべえに皮肉を言ったものだった。

 紅子は、そもそも三番組を好きではない。それは完全実力主義であり、能力さえあれば身分も性別を問わない逸撰隊にあって、三番組は小普請の御家人の中から選抜され、組頭も旗本から選ばれたという、逸撰隊の理念を否定したような存在だからだ。本来の逸撰隊ならば、入隊は幹部隊士の勧誘か推薦の上に試験に合格した者でないと入隊は叶わないはずである。

 これは甲賀の考えではなく、幕閣うえからの命令があったのだろうが、紅子にとっては目障りであることには変わりはない。

 しかも隊士たちの腕は、どれも物足りない。紅子を女だと嘲る者は打擲ちょうちゃくし、それでも改心しない者は追放したので命令には従順だが、腕前だけはどうしようもない。これも御家人から拾い上げた弊害だろう。


「なら、お前さんが鍛えてよ」


 と、甲賀に言われたことがある。今回の任務には鍛えるという意味があるのだろうが、はっきりと命令は下されてはいないので、紅子は無視をしていた。それに自分の動きを見るだけでも、彼らには学ぶべきものはあるはずだ。幼き頃の紅子もそうだったように。


「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」


 坊主が高らかに唱え、本堂が俄かに騒がしくなった。

 どうやら説法が終わったようだ。それでも紅子は体勢を変えずに、肩肘をついて寝転んだままだ。寺で寝ていると、さながら涅槃像である。

 紅子は今年で二十八。女らしさなど、とうに捨てている。こんな姿勢を見られたと言って、どうと言うこともない。

 本堂で話を聞いていた百姓たちが、ぞろぞろと外に出てきた。

 男装し、はしたなく仰臥している紅子に、訝し気な視線を向けてくる。


「ふん」


 紅子は威嚇するように顔を顰めると、百姓たちが視線を逸らして慌てて本堂を降りて行った。


(何が珍しいってんだい)


 紅子にとって、男装は普段着のようなものだ。むしろ女物を着ている時の方が落ち着かないし、肩が凝る。人生の大半を、男装で過ごしたからだろう。故に、周囲からの好奇の眼差しにも慣れ切ってしまった。


「組頭」


 隊士が庫裏の方から駆けてきた。百姓姿の男を一人伴っている。逸撰組の密偵だろう。

 紅子をゆっくりと身を起すと、胡坐座で二人を迎えた。


「どうしたんだい?」

「はっ、真中谷一党に動きがございました」


 そう言うと、隊士は脇に控える密偵に目を向けた。


「言ってみな」

「へっ、出稼ぎに出ていたのか、真中谷と手下どもが根城に戻ってまいりやした。総勢十名ほど、吹路村ふきじむらの不動尊で揃っておりやす」

「それで今は?」

伊平次いへいじの兄貴が見張っておりやす」


 紅子は一つ頷いた。

 伊平次は紅子が最も信頼を置く密偵である。伊平次が残っているのなら問題は無いだろう。


「出馬するよ」

「はっ」


 すぐに隊士たちが愛馬と共に境内に集結した。

 紅子も既に鞍上である。紅子の愛馬は、青毛あおげの牡馬。気性が荒い悍馬かんばだったが、殴り合うような調教を経て手懐けることに成功した。名を蒼嵐せいらんという。

 逸撰隊の特徴の一つに、騎馬の活用がある。これは田沼意次の発案で、賊への攻撃や捜査に高い機動性を持たせるのが目的だ。それ故に、禁止されている市中での馬の疾駆も許されている。また隊士は、入隊したらまず自分の馬を与えられ、馬術を仕込まれる。紅子も馬術だけは特訓を受けた。

 紅子は隊士に目を向けた。全員が思い思いの恰好をしている。逸撰隊には隊服というものが無い。それは目立たずに潜行し、隊務を達成する為だ。治安維持を目的とした町奉行所や火付盗賊改方とは、そこが決定的に違う。

 そして、手には槍。これだけは、目立っても仕方がないと思い、修羅場に限り紅子が携行を命じたことだった。槍は柄が長い分、野外での戦闘では刀より有利。剣術の腕がいまいちな隊士を、極力死なせない為の工夫なのだ。なにせ、十五名で設立した三番組の隊士が、半年の間で六名にまで減ってしまったのだ。減った人数には追放した三名も含まれるが、それでも組頭を含めて六名が死んだ計算になる。

 弱いから死ぬ。いくらそう思い定めている紅子でも、むざむざ死なせたいとは思うほど鬼ではない。

 一方の紅子は、脇差・丹波守吉道たんばのかみよしみちと二本の短棒なえしだけだ。この短棒なえしは、特殊な機巧からくりを施していて、いざとなったら六角鉄杖に変わる。これは飛砕ひさいという名前で、紅子が修めた真伝夢想流杖術しんでんむそうりゅうじょうじゅつに伝わるものだ。


「お前たち、準備はいいかい?」


 景気のいい返事が返ってくる。気に食わない三番組だが、ひと月も一緒にいると馴染むものもあるのだろう。


「隊旗を掲げな」


 すると、旗手役が逸撰隊の隊旗を挙げた。黒地に赤で染め抜かれた、〔逸〕の文字。えらび抜かれた逸材の隊。これが隊士たちの誇りの象徴だった。


「とっとと行って、とっとと叩く。先にあたしが行くから、倒れた奴をひっ捕らえろ」


 紅子は返事も聞かずに、蒼嵐の馬腹を蹴った。

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