七之章

   1

 耕平の住む縄文の里にも、また今年も厳しい冬の季節がやって来た。

 歴史の時代区分によると、縄文時代は約一万四千年ほど続いたが、その前の旧石器時代はまだ、氷河期の真っただ中で海水面も現在より、百メートルくらい低かったと言われている。それが地球の温暖化に伴い、徐々に穏やかな気候になり、ここからごくゆっくりとした歩調で、縄文文化の花が開いてゆくわけなのだが、縄文時代の草創期に入ると平均気温が、現在よりも2℃ほど高かくなったらしい。が、次第に寒冷化が進み段々と、現在の気温に近づいて行ったと言われている。

 また、有名な青森県の巨大縄文遺跡三内丸山遺跡は、すでに江戸時代からその存在を知られており、多数の土偶や瓦・かめなどの破片が、出土したことが記録されている。

 また、新たに県営球場建設のために、一九九二年に事前調査が行われた。その結果、この遺跡が大規模な集落跡であることが判明した。本格的な調整は一九九四年から始まり、直径一メートルの栗の柱が六本見つかり、これは大型建造物の跡だとも考えられ、これを受けた青森県はすでに着工していた、野球場の建設を中止して保存を決定した。なお、この発掘調査に当った担当係の報告書によれば、その遺跡の中からは争いや戦いの痕跡(人を殺す武器)類は、一切見られなかったということであった。

 つまり、狩猟や採取(クリ、ドングリ、トチなどの木の実)という、自分たちの手で調達できるものによって、生活を営んでいて足りない者には、平等に分け与えていたから争いなど、怒ることもなかったのだろう。

 しかし、例え縄文人がいくら温厚な人間だったとしても、まったく争いやもめ事がなかったとは、どう考えてもあり得ないことではないか。

 なぜ縄文人が、戦争や殺し合いをしなかったかと言えば、それは縄文人の平均寿命と関係が、あったのではないかと考えられるのだ。縄文人の平均寿命については、本文中でも何度か書いてきたが、三十代後半から四十にかけての、極めて短い期間であったことと、子供が生まれてもすぐに死んでしまうことが多く、種を守ろうとする本能が働いて、小さなことで争いを起こそうとすることなど、縄文人たちにはそんな余裕もなかったのだろう。

 それはさておき、縄文の里にも雪の降り出す季節が、すぐそこまで近づいていた頃だった。そんなある日、ひとりの邑人が酒に酔って、もうひとりの邑人に絡むという事件が起きた。それだけなら、どうということもなかったのだが、絡まれたほうの邑人は至って大人しい男で、他人と争うことが嫌いな邑人は、絡んできた邑人を軽く突き放した。

 絡んできた男は酔いのせいもあって、ふらふらっと二三歩後退した。その拍子に男のかかとが石につまづき、仰向けにばたりと倒れ込んでしまった。ところが運の悪い時は悪いもので、絡んできた男の後頭部辺りには、大きな石がありガツンという鈍い音がした。

 絡まれた男は慌てて抱き起こしたが、倒れた男はすでに息はしていなかった。

「ガ、ガンダが死んでしまったぁ…。どうするべぇ…。おらが殺したんじゃねえぞ。ほんにどうするべぇ…。こまったな…。そうだ。コウヘイ邑長さ相談すてみっべが、何すろ困った時の邑長頼みって云うがらな…」

 そういうと、邑人はいま息を引き取ったばかりの、ガンダと男を背負うと耕平の家に向かった。

 耕平が出ようとしているところに、ガンダを背負った邑人がやってきた。

「何だ。クナキじゃないか、どうしたんだ…。そんなに慌てて…、それにお前が背負っているのは、呑んだくれのガンダじゃないのか…。また飲み過ぎて、そこいら辺で寝てたんじゃないのか…」

「そうじゃねえんで…。邑長、おらが歩いているとガンダがやってきて、いづものように絡んでくるんで、おらは人ど争うのは好まねえがら、こいづば軽く突き放して逃げようとしたら、こいづは酔っぱらってだがら、ふらふらっと後ろさ下がったら、そこさあった石に躓いて後ろさひっくり返っただが、ちょっうどガンダが倒れだ頭のどごさ、石があって『ガツン』という音がしたんで、おらはビックリすて急いで抱き起したんだども、そん時にはガンダはもう息ばしてながっただ。おらはどうするべぇと思ったんだども、とぬかぐコウヘイ邑長さ相談してみっぺど思って、ガンダのヤツを負ぶって連れできたども、どうすたらいいべが…、邑長…」

 クナキは、ことの一分始終をできるだけ詳しく、耕平に話してどうしたらいいのか、邑長としての耕平の判断を待った。

「うーむ…。これは、この里では一度もなかったことだな…。まして、今回のことはお前が直接手を下したわけでもなく、あくまでも不可抗力なのだが、邑始まって以来の出来事らしいし、この件に関してはオレひとりの判断では、どうするここともできない。邑の長老会に図って、みんなの意見を聞いてみないことには、いかんともし難いな…。

 とにかく、いつまでも死んだものを背負ってないで、向こうの山小屋にでも横にしてやりなさい。オレは長老会を開く準備をするから…」

 耕平はクナキを残して、長老たちの家を一軒一軒廻り、事情を説明してあるいた。

 長老会は即日開かれることになり、会場は耕平の家が充てられることになった。長老会といっても、わずか六人の老人で構成される、極めて小さな集まりで長老とは言えど、みんな耕平よりも歳が若いのだから、この時代の平均寿命がいかに短かったのが、自ずと知れるというものなのだろう。

 その長老会で一番取り沙汰されたのは、「病や獣に襲われて死んだのなら、いざ知らず自分で手を下さないにしても、人がひとり死んだということは、クナキには罪が認められないにしても、この邑としては由々しき問題…」と、いうのが長老会の見解であった。

 会議は夜遅くまで続けられ、ガンダは日頃から酒癖が悪く、迷惑を被っているのは邑人の、五人や六人ではきかなかった。

 そこで長老会が下した結論は、酒癖が悪いとは言ってもガンダも邑の住人、かといって直接手は出さないまでも、人がひとり死んだ以上はクナキを、このままにしておくわけにもいかないということで、長老会が出した結論は『クナキを邑から、追放するべきだ…』と、いうものであった。

 こんなことを書くのは警察機関がなかった、この時代にもなにがしかの形で、これらのことを取りさばく役職が、あったのではないだろうかと思ったからである。

 長老会で決議されたことは邑長である、耕平がクナキに告げなければならなかった。

 耕平は自分が初めて、この時代にやって来た時のことを、ふっと思い出していた。左も右もわからない、自分を温かく迎えてくれたのも、この邑の住人たちだったのだ。

 耕平は長老会が終わった後、その足で真っ直ぐクナキのところへ向かっていた。

「おい、クナキ。いるか…、オレだ。耕平だ…」

 耕平が声をかけると、あまり元気そうでないクナキが出てきた。

「これは邑長…、長老会のほうはどうなりましだ…」

「うむ…。オレもお前から聞いて、知り得る限りの詳しい説明をしたんだが、長老会では『今回のような由々しき出来事は、本来あってはならないことなのだ。その証しに、この邑にはこれまでに、このようなことは一度も起こらなかった。よって、神に許しを乞うためにもクナキを、この邑より追放処分にすることにした。但し、移動するにしても準備が必要であろう。ここにひと月間の猶予を与えるので、それが終わり次第速やかに立ち去るように…』と、いうのが長老会の出した見解なんだよ。

 オレが『何も追放まではしなくても…』って云ったんだが、長老会の出した決議には邑長であっても、取り消すことができないという、昔からの習わしがあるんだそうだ。

 そんなわけで、どうしてもお前のことを、引き留めてやることができなかった。本当に済まない。この通りだ…」

 耕平はクナキに対し、深々と頭を下げて謝罪した。

「とんでもねえ…、止めてくだせえよ。邑長、別に邑長が悪いわけでも、なんでもねえんだがら、ほだぬ謝ってもらっても、おらのほうが困るだ…。それぬ長老会の決めだごどは、どだなごどがあっても従わくちゃなんねえ。っ、つう掟があるんだ。それぬ三年もすれば、まだ戻ってこれっぺがら、ほだぬ心配はいらねえ…」

「ほう…、それはオレも初耳だな…。何だね。その三年もすると、戻れるというのは…」

「あんれ、邑長は知らながったのがね…。長老会で取り決めたことは、長老会の長老がひとりでも死ねば、それまでの取り決めは効力をなくし、次の長老会が決めるまでお構いなしなんだ。長老会の長老なんてのは三年もすれば、必ずひとりやふたりは死ぬもんだで、下手をすりゃ一年ぐれえで、帰って来れるがも知んねえな…」

「うむ。確かに、この時代の人間は平均寿命が短いし、長老と云ったとこころでみんな、オレよりも若い連中ばかりだしな。縄文時代というところが、こんなにもやりずらいところだったとは、オレもまったく気が付かなかったよな。それにオレも若かったし、周りにはウイラやカイラもいたし、行方知れずになったオレを探しに、山本も遠路はるばるやって来たっけ…」

 長老会の話から始まって、最後は耕平の回想に変わっていた。

「それから、ひと月間猶予がもらえたのは大きいぞ。クナキ、ひと月あればじっくり考えられるし、そうすれば最善の方法が見つかるかも知れん…。

 ところで話は変わるが、お前は山登りが得意なほうかな…。山と云っても、そんじょそこいらの山とは違うぞ。断崖絶壁と云ってもいいくらいの、とてつもなく険しい岩山だ…。普通の人なら十人中八人が、尻込みをしてしまうというほどの、極めて厳しい条件付きの山なんだが、どうだ。クナキ、お前にその山を登る元気はあるかね…」

 その時、耕平の話を聞いていた、クナキの瞳がキラリと光った。

「邑長は知んねえがもしらんが、おらはコゲンほどではないぬしても、山で産まれで山で育った男だで、こごらの山はおらぬとっては、屁でもねえただの山だべな…」

「そうか…、お前もコゲンのように、絶壁や山の上での動きが達者なのか。それなら、ちょうどいい場所があるぞ。オレの兄弟分で、イサクという男がいるんだが、そいつが前に住んでた岩山が、割りと近くにあるんだよ。

 お前さえよければ、邑を離れずにしばらくそこに、潜んでいたらどうだろうか。何かあったら、コゲンに連絡を取らせるから、そうしなさい。これから、本格的な冬が来るというのに、邑を出て行くのは大変だぞ…」

「ありがとうごぜえますだ。邑長、おらのためぬ。そごまで気ィば使ってもらって、ほんにありがとうごぜえますだ…」

「礼などはどうでもいい…。それより、ひと月も期間があるんだ。その間に、できるだけ食料を集めておけ。足りない分はコゲンにでも頼んで、後で運ばせてやるからな…」

 その後、細々としたことを話して、耕平はクナキの家から帰って行った。

 それから、瞬くうちに二週間ほどが過ぎ去り、山に移り住む準備が整ったのか、ある日クナキが耕平のところに訪ねてきた。

「邑長ぬはいろいろ心配ばかげで、大変申すわげながったんだども、おらもようやっと用意が出ぎだんで、明日山のほうさ行ぐごどぬすたんで、邑長ぬも別れの挨拶すなければと、思ったんでやってきただよ。何から何までお世話ぬなりまして、ほんにありがとうごぜえますた…」

 クナキは深々と耕平に頭を下げて礼を述べた。

「そうか…、ずいぶん早かったな。これからは雪の降る季節だ。風邪なんか引かないように、充分気をつけて暮らしてくれよ…」

「なぬ、その心配ならいらねだよ。邑長、岩穴の中は普通の家よりも、かえって温かいくれえなのぬ、邑長は知らながったのがね…」

「いや、オレは洞窟には一度も住んだことないからな。そうか…、そんなに温かいか…」

「そりゃ、おめえ。ただの家に比べっと、隙間風は入って来ねえす、夜もぐっすり眠れっす、ほんぬ天国みでえみなとごだぁ…」

「そうか、そんなに寝心地がいいのか…。それじゃ、オレも一片泊りに来てみるかな」

「ほうだども、そうすっと邑長も岩穴の良さがわがっから、一遍来てみてけろ…。そんじゃ、おらは行ってみるだで、邑長も達者で暮らすてけろや…」

「ああ、お前も元気でやれよ。オレも機会を見て行ってみるからな」

 こうして、クナキは帰って行った。二十一世紀と違って、エアコンや暖房機もなかった縄文人は、真冬の厳しい寒さなど、気にも止めなかったのだろうが、耕平自身もこの時代に来た当初は、暖房といえば火を焚くくらいしかなく、よく震え上がっていたものだったが、慣れというは恐ろしいものだと思った。いまでは動物の毛皮で作った、着衣と靴のようなものを身に着け、真冬であろうが生きるためには、落とし穴を仕掛けたり狩猟を続けないと、暮らしそのものが成り立たないという、二十一世紀では考えも及ばない、過酷なほどに厳しい時代だったのである。

 それから四・五日が過ぎて、割りとカラッとしていて天気も、そう崩れなさそうな一日があった。耕平は今日を逃したら、こんな日は滅多にないぞ。と、ばかりにコゲンを道案内に頼んで、干し肉や魚を焼いて干したものを、手土産にしてクナキの住む岩山を訪ねて行った。

「相変わらず険しい断崖だな。この山は…」

 これから登ろうとしている、山を見上げて耕平は思わずつぶやいた。

「こだのは、まだまだいいほうだべ。おらの知ってる山ぬは、反対ぬ外側さ反り返ってる、山もあるだでよ。こごらの山はまだ楽なほうだべ」

「へえ…、そんな山もあるのか…。そんな山だったら、オレなんかには絶対に無理だな。さて、そろそそろ登ろうか…」

「そすたら、おらが先さ登って行って、足場のしっかりすたとご探すがら、邑長は後がらゆっくり来てけろ」

 そう言い残して、コゲンはまるで猿が木を登るように、スルスルっと岩山を登って行った。コゲンのようなわけにはいかないが、耕平もひとりゆっくりと登り始めた。

「なるほど…、人間は人それぞれ持って生まれた、才分というものがあるらしいな。ドッコイショっと…」

 耕平が昇り始めて二・三分経った頃、先に登って行ったコゲンが戻ってきた。

「邑長、もう少し昇っと前ン時みでえな。割りとなだらかな岩場があんだども、ほだぬ長くはねえんで、まだ岩をよじ登ってもらうんだども、邑長は大丈夫だべが…」

「何を云う。コゲン、オレは邑の長老たちよりも歳は上だが、彼らには絶対に負けない自信があるんだ。コゲンには勝てないかも知れんが、体力はまだまだ衰えてはいないぞ。まあ、見てるんだな…」

「ほだな…。確かぬ邑長は、長老だちなんかよりもよっぽど若ぐ見えんな。ほんぬ邑長は長老だちみでえぬ腰も曲がってねえす、見た目も格好がぜえすな…」

「おい、おい。コゲン、そんなにおだてるなよ。背中の辺りがムズムズするじゃないか…」

「おらは別ぬ、おだててなんかいねぞ。そう思ったがら云っただげだ…」

 そんなことを話しながらも、耕平とコゲンは絶壁の岩山を登り始めた。耕平は二度目であったが、こんな急勾配で絶壁ともいえる、岩山を登るのはあまり得意ではなかった。だが、耕平が西の邑の邑長である以上、そんなことばかりは言っていられなかった。

 コゲンに先導されながら、かつてイサクが住んでいた、横穴が並んだ場所まで辿り着いた。

「ふう…、やっと着いたか。しかし、何回来てもひどい絶壁だな。ここは…。どれ、クナキは元気でやってるかな…」

 洞窟が立ち並ぶ平たい岩の上に立つと、耕平はクナキの住んでいる穴を探し回った。

「あ…、こっちだでよ。邑長、ほんら煙が見えるべ…」

 コゲンの言う通り、一番端の穴から煙が出ているのが見えた。

「おい、クナキ。元気でいるか、陣中見舞いに来てやったぞ。これは土産だ…」

 耕平が声をかけると、火をおこしていたクナキが、手を休めて耕平のほうを向いた。

「これは邑長、わざわざ来てくれたのがね…。それはどうも、ありがたいことですだ…」

「オレたちのことはいいから、早く火を熾してしまえよ。せっかく煙が出始めていたんじゃなかったか…。また最初からやるんじゃ、大変だぞ…」

 耕平に言われて気を取り直したように、クナキは再び火熾しを開始した。

「よし、火が熾きたら土産に持ってきた、干し肉と魚でオレたちも食事をしようか…」

 火を熾し始めたクナキは、ものの五分も経たないうちに、枯葉や松ぼっくりを燃やしてから、本格的に焚き木などを加えると、炎は勢いよく燃え上がって行った。

「どうだ…。クナキ、ここでの住み心地は、そんなに住みにくいは思えないが、何しろイサクが長年住み付いていた所だからな…」

「へへへへ…、そりゃァ、もう最高でさァ。なぬすろ、岩山の穴ボゴだがら平地の家ど違って、隙間風ひとつ入ってこねえす。ほんぬ、大助かりだべ…。これもみんな邑長が頭ば使って、おらが追放されても、あんまり遠く行かなくてもいいようぬ、イサクが住んでいた、この岩穴を教えてもらったべ。ほんぬ、ありがたいこどだべ…」

「そうか…、そいつはよかったな。とにかく、元気そうで何よりだった。お前はまだ若いんだし、少しの間辛抱してくれ。そのうちいいこともあるさ。きっとな…。

 それより、土産代わりに干した魚と、イノシシの肉を持って来たんだ。これで一緒に食事にでもしようか…」

「そいつはありがてぇ…。邑長、ほんにありがとうごぜえますだ。ほんではさっそく用意ばすっぺが…、ちょっくら待ってでけろ。すぐにできっから…、そこいら辺りさ腰でも下すて、いま少ス待ってでけろや。すぐぬ喰えるようぬなっから…」

 クナキは耕平から受け取った、干し肉と魚を木の枝に刺して焼き始めた。その魚と肉を焼く匂いが、辺りに一面に立ち込めていて、身軽な身のこなしで断崖を、登ってきたコゲンなどは、相当腹を空かしているらしく、腹の虫をグウグウと鳴らしていた。

「何だ…。おえ、ずいぶ腹ば減らしているみでえだども、そろそろ食える頃だがら、まずはお前えさ食わせっから、お前えが先ぬ食ってみろや…」

 クナキが手渡した干し肉を指した、木の枝を受け取るとコゲンは、「アヂ、アヂヂチ」と喚きながらも、耕平とクナキの見ている前で、瞬くうちに焼き干し肉を平らげてしまった。

「どれ、オレもひとつご馳走になろうか…」

 と、言って耕平は干し魚を挿した、枝を手にと取ると口へと運んで行った。

「うむ…。イノシシもうまいが、オレはどちらかと云ったら、このニジマスのほうがいいな。何か、こう食っていてもサッバリしていて,オレにはこっちのほうがあってるな…」

「ほうだがね。おらはやっぱス、脂がゴッテリ乗ったイノシシが、うめえな…」

 大の大人が三人して、空腹の状態で食べているのだから、耕平が持ってきた干し肉や干し魚などは、あっという間に底を突いてしまった。

「ああー、喰った、喰った…。腹がいっべえぬなったぁ。ふうー…、もうダメだぁ…。おらぁ、もう喰えねえだ…」

「それは、そうだろうな。コゲンと手分けして持ってきた、肉と魚を三人で食い尽くしただからな。腹も膨れるだろうよ」

 ポッコリと膨れた腹を、撫でまわしながら横たわっている、クナキを見ながら耕平は言った。

「おらも、もうダメだぁ…。クナキにつられて食ったのはいいだども、ちいとばっかり食い過ぎただ。邑長、下に降りるのは少し待ってもらえねべが…。このままでは、おらのほうが転がり落ちっちまうだで、頼んますわ…」

「うむ…、クナキも、この調子だしな…。仕方があるまい、少し休んでから、降りることにしよう。いざとなれば、洞穴もあることだし、そう無理して降りることもなかろう…」

 そうしているうちに、いつの間に曇ったのか、空から白いものが落ちてきた。この冬初めての初雪であった。

「雪だ…。まずいな。このまま降り積もったら、ますます帰れなくなってしまう、お前さんたちには悪いが、オレはひと足先に帰らせてもらうぞ。お前たちはゆっくり降りて来ればいいさ。じゃァ、オレは行くぞ…」

「大丈夫だが、邑長。雪が降って来たっつうのぬ、心配しんぺえだな…」

 ふたりは心配そうに言いながら、互いに顔を見合わせた。

「心配はいらん。登りの時よりも降りるほうが楽だし、それに雪だって断崖では、平地のようには積もらないだろう。それじゃァな…」

 耕平はクナキとコゲンが、心配そうに見送る中ひとりで、初雪の降り出した断崖を降りて行った。


     2

 耕平とコゲンが、クナキの住み着いた岩山から邑に戻り、早くも四ヶ月が過ぎ去り縄文の里にも、厳しかった北国の冬も終わりを告げ、野や山に花の咲き乱れる季節が巡ってきた。

 この時期になると耕平は、決まって邑人たちを誘って花見をやるのが、邑長になって以来の長年の恒例になっていた。

『そう云えば、あの時も今頃の季節だったな…』

 耕平は想い出していた。もう二十年も前になるだろうか。あの時もちょうど今日みたいに、からっと晴れ渡った日曜の昼近くだった。耕平はせっかくの日曜なのに、部屋に籠っているのはもったいないとの思い、近くにある公園にやってきたのだった。

 そこへ山本徹が来て、「これから家族と花見をやるんだが、よかったらお前も交ざらないか…」と誘われたが、「これから、ちょっと行くところがあるんだ」と、断ったのだった。

 実際には、耕平に行く当てなどなかったのだが、山本とは子供の頃からの付き合いで、お互いに何でも言い合える親友だったが、他人さまの家族の花見に加わって、飲んだり騒いだりするのが、性に合わなかったからに過ぎなかった。それから、耕平は子供の頃にみんなで遊んだ、ブランコが目に留まり懐かしさで、ちょっと乗ってみようと思った。二・三回漕いでいるうちに傍の草むらの中で、何やらキラリと光るものが目ついた。なんだろう。と、思った耕平は草をかきわけて見ると、太陽の光を受けて銀色に光る腕時計だった。

 誰か落とした人はいないかと、耕平は辺りを見回してみたが、それらしい人影はどこにも見当たらなかった。仕方がないので、警察には明日にで届けようと、拾った腕時計をズボンのポケットに仕舞った。

本屋でも覘いてみようと思い立ち、公園の裏口から出ようとした時、横のほうから自転車に乗った、小学生くらいの子供が走ってきた。双方ともあまりに突然だったので、避け切れずに少年の乗った自転車は、耕平の太股辺りにぶつかって、少年はもんどりうって倒れ込んだ。

少年は急いで起き上がると、倒れた自転車を立て直してから、耕平にペコリと頭を下げて走り去って行った。耕平は倒れこそしなかったものの、自転車のタイヤが当たった太股が、ズキンズキンと痙攣を起こしていた。そこで耕平はハッとした、自転車がぶつかったショックで、今拾ってポケットに入れた腕時計が、壊れてはいないかと心配になった。取り出してみると腕時計は無事だったが、何やら低い音を立て始めていた。耕平は周りの景色が、一瞬揺らぐのを感じたがすぐ収まったので、目眩でもしたのだろうと考えながら、行きつけの本屋に向かって歩いて行った。

ところが、店に行くと店そのものは変わりはなかったが、いつも店番をしている七十くらいの親爺が、五十代くらいの男に代わっていた。耕平は『顔も似ているし、親爺さん用事でもできて、親戚の人でも頼んだのかな…』とも考えてはみたが、どうしても耕平自分の中にある、違和感をな打ち消すことができなかった。耕平は親爺の座っている、机の上に置いてある日捲りカレンダーを、見るとはなしに見て驚愕してしまった。何とカレンダーに記されていたのは、一九九〇年四月八日の日付けだったのだ。

一九九〇年と言えば、今から二十七前で耕平が生まれた年であった。二十七年も過去の世界に来るなどとは、普通ではタイムマシンでもない限り、絶対に不可能なことでもあった。

『そうか…。この腕時計が、タ・イ・ム・マ・シ・ンだったのか…』

 しばらく耕平は回想に耽っていたが、回想もそこまで耕平はふっと我に返った。

『あれから、いろんなことがあったな…。元々オレは、平凡な生活を送っていたんだが、あのタイムマシンを拾ったばかりに、今じゃこうして縄文時代で生きてんだから、人間の運命なんて一寸先は闇っていうけど、まったくその通りだったよな…。

 お陰でオレは原日本人の、祖先のひとりになってしまったんだからな…。あの時、あの腕時計さえ拾わなければ…。いやいや、そうとも云えないか…。あの日の午前中に、オレが公園になんか行かなかったら、こんなことにはならなかったはずだ…』

 と、そこまで考えが及んだ時、耕平は大きくひとつため息を吐いた。

『しかし、あの後一九九〇年に行こうとした時、タイムマシンの操作ミスから一年早い、八九年に行ってしまった時に、吉備野博士が夜オレが寝ている時、突然訪ねてきたことがあったっけ。その時に博士は云われた。「初めてお目に掛かります。私は吉備野と申しまして、あなたが拾われたタイムマシンの開発者です」と、云われてもオレは別に驚きもしなかった。

 なぜ驚かなかったのか。それは簡単なことで現に自分がこうして、自分が生まれる以前の過去に来ているのだから、これ以上驚くことなど何もなかったからだ…』

 だが、耕平はそれにもまして、あの時吉備野が言った言葉を、今になってまざまざと思い出していた。

『そう云えば…、博士は確か、こんなことも云っていたな…。「あなたは偶然に、そのRTTS(タイムマシン)を拾われたと、思われているかも知れませんが、前もって私にはあなたがあの日、公園に行かれることが分かっておりました。それ以前に、私はあなたの置かれている、不思議とも思える運命に、並々ならぬものを感じ取りました。

 あ…。いや、これはあなたの云われるような、あなたをモルモットとか実験台に、使おうとかという考えは毛頭ありませんので、悪しからず…」と、云うことは、博士は初めからオレがこうなることを、知っていたことになるじゃないか…』

 そこまで考え及んだ時、どうしようもない苛立ちを感じていた。それでも耕平は、七百年後の世界からやってきた科学者、吉備野のことを恨む気にはなれなかった。むしろ、普通に生活を送っている現代人には、経験したくても到底できないことを、耕平は実体験として実践してきたのだから、感謝することはあっても恨むことなど、耕平には考えも及ばないことであった。

「ええい…、やめた、やめた。こんなこといくら考えたって、どうなるものでもあるまい。どーれ、ひさびさにイサクでも誘って、狩りにでも行ってみるか…」

 思い立ったが吉日とばかり、耕平はさっそくイサクを誘い出すと、冬の間家の中に籠もっていて、鈍った身体を鍛え直す意味合いも含めて、耕平とイサクは春のポカポカ陽気の中を、冬の間はあまり遠出もできなかった分、今日はふたりとも普段来ないような、かなり遠いところまでやって来ていた。

「きょうは天気もいいス、ポッカポッカしてて気持ちいいス、ずいぶ遠くまで来ちまったなあぁ…。コウヘイ兄イ」

「うむ、この辺までは普段は滅多に来ないからな。その分できるだけ早く、猟を済ませて帰らないと、夜までに邑に帰れなくなるぞ。イサク…」

「大丈夫だってば、コウヘイ兄イ。おらと兄イがいれば、獲物を狩るぐれえほだぬ、掛かんねえから心配しんぺえすっこどねえべ」

 イサクは日頃から、耕平の弓の腕前は邑で名人と言われている、少数の人たちに比べても引けは取らない、腕の持ち主であることを知っていた。それにも増して凄いのは、怪力のイサクが投げる石つぶてであった。このふたりが組めば、大概の獲物はまず百パーセント、取り逃がすことはないと言われていた。

「こごいらぬは、どだな獲物がいっかわかんねえだども、おらと兄イがいれば大概てえげえの獲物は、絶対ぬ逃がすたりしねえがら、まんずそだな心配はすっこどねえべ…」

 イサクは、耕平のことを絶対的に信頼していたし、自分の投げる石つぶてにも、相当の自信を持っていたからこそ、ここまで言わしめたのだろう。

「しー…、静かにしろ。イサク、あそこの木が生えている岩影辺りで、何か動くようなものが見えたんだ。獲物が潜んでいるのかも知れん。いいか、そっと近づくんだ…。足音を立てるなよ…。何がいるかも知れんからな…」

「ホントが…、兄イ。なんだべな…」

 ふたりは耕平が見たという、木立が立ち並ぶところにある、大きな岩を目指してそれこそ、抜き足差し足で近づいて行った。岩を遠巻きにして、ふたりは岩の裏側に回り込むと、一体何がいるのかと覗きこんだ。

しかし、覗き込んだふたりが見たものは、獲物である鳥や動物ではなく、れっきとした人間だった。しかも、まだうら若い女の娘だったのだ。年の頃は十六・七歳と、言ったところだろうか。

「娘さん。こんなところに、たったひとりでいては、危険ではないのかね…」

 耕平は娘が驚かないように、遠くのほうから声をかけながら、ゆっくりとした歩調で近づいて行った。

「あ…、オレは東の邑の耕平という者で、決して怪しい者ではない…。それから、これはオレの弟分でイサクという男だ。見掛けはごっつくて、怖そうに見えるかも知れないが、根はいいヤツだから、よろしく頼むよ…」

 紹介されたイサクは、何にも言わずにペコリと頭を下げた。

「まあ…、東の邑のコウヘイさまと云えば、何でもよく知っていらっしゃる、神さまみたいな邑長だって、うちのお父が云ってたのを、アタシ何回も聞いているわ…。そのコウヘイ邑長さまが、何でこんな辺鄙なところに、いらっしゃったんですか。

 東の邑からだと、ここまで来るにしても、ずいぶん時間がかかったでしょうに…」

「ああ…、そのことかね。オレたちは…、みんなもきっとそうだと思うんだが、冬の間はあまり遠出をせずに、夏秋の間に狩り溜めていた、獲物の干し肉や魚の干物類、または栗ドングリトチの実といった、木の実を採取したもので細々と、春が来て自由に動き回れる日まで、これらの食糧のみで、冬の期間を過ごさなければいかん。

 だから、今日のように暖かくなると、オレたちのように長い期間、狩りで生活を立ててきた者には血が騒ぐというか、居ても立ってもいられないというのが、正直なところだろうな…。

 ところで、あんたの名前をまだ聞いてなかったが、もし差支えがなかったら、オレたちにも教えもらえまいか…」

「あら、そうだったかしら…。これは失礼をいたしました。あたしは、この先の部落に住んでいる、タリアといいます。どうぞ、よろしくお願いします。コウヘイ邑長さま」

 そういうと、タリアと名乗った娘は、ふたりに対しペコリと頭を下げた。

「ほう…、こんなところにも部落があったのか…。全然知らなかったな」

「いえ、部落と云ってもコウヘイさまの、東の邑のように大きなものではありません。あたしたちの先祖は、元々は狩猟民族だったそうで、それがいつしかひとり集まり、ふたり集まりしていつの間にか、その部落に住み着くようになったそうです。

 狩猟民族とは、定住の地を持たずに全国を渡り歩き、狩猟を生業とした民族のことです」

「いや、タリアさん。せっかくだが、狩猟民族に関する説明なら、もうそれ以上しなくていい。実はな。オレの邑にも、狩猟民族の末裔という男がいてな。ある時、ブラっと村を訪ねてきて、オレのところに寄ったんで、いろいろ話を聞いてみたんだ。何でも、西のほうからやって来たと云うから、『そんなに、全国アチコチ渡り歩いて、疲れたりはしないのか…』と聞いたら、『物心ついた頃から、こんな暮らしをしてますから、別段何でもありません』と云っていたが、人間にとって慣れというものは、すごいものなんだなと思ったね」

 耕平とタリアの話を聞いていたイサクが、少し苛立ったような表情で言った。

「コウヘイ兄イ。話ばすんのもいいだども、早ぐ獲物ば狩って帰らねえど、夜までぬは邑さ帰らんにぐなっちまうぞ。なぬすろ、こごは今まで来たごどもねえぐれえぬ、遠いとごろだで早ぐしねえど、夜ぬなっちまうがら早く邑さ帰っぺよ。兄イ…」

 イサクは、よほど夜の闇が苦手と見えて、しきりに耕平を急かせ立てていた。イサクの石つぶても、昼間なら威力も十二分に発揮できようが、昼と夜とではあまりに条件が違い過ぎた。いくらイサクが力自慢の剛腕でも、昼間ならともかくもこれが夜で、鼻を摘ままれても分らないような、闇だったら著しく条件が違ってくるのだ。だから、イサクが夜(いや、闇)を恐れるのは、獣が襲ってきたとしても、相手が夜の闇では手の施しようがないからだ。

「そうですよね…。ここから東の邑までですと、かなりの距離がありますからね…。……そうだ。もしよったら、今晩うちに泊まってもらえばいいんだわ。そうすれば、まだゆっくり狩りができますし、うちに泊まって明日の朝早くに、帰ればいいんだわ。

ねえ、そうしましょうよ。コウヘイさま、うちのお父も喜ぶと思うわ。きっと…、何しろ有名なコウヘイ邑長を泊めるんですもの。ウフフフ…」

と、タリアは勝手に決めつけるように言った。

「うーむ。オレたちは構わんが、きみのお父や家族とかが、迷惑するんじゃないのかね…」

「とんでもありません。有名な東の邑の、コウヘイ邑長を泊めたとあらば、うちのお父にも箔がつくというものですわ。ですので、そんなに気を使わずに、もっと気楽な気持ちで、休んで行ってください…」

 タリアに誘われて耕平は、ふいにイサクのほうを振り向くと、何かを言おうとした。

「おぉっと…、こごは何ぬも云わねえで、この娘っ子の云う通りに、今日ンところはひとつ、お世話になったほうが、いいんでねえべが…」

「何だ…。イサク、普段なら他所に泊まろうなんて、絶対に云いださないお前が、今日に限ってタリアさんのところに、泊まろうだなんてお前どうかしたのかよ。一体…」

「いや、おらは何でもねえだ…。見だ目ではハッキリとしたことが、わがんねえんだども、何ぬが困ったこどでも、抱えていんでねぇべがど、思っただげだ…」

 耕平はイサクに言われて、初めて気が付いた。いくら部落が近いからと言って、まだ裏若い十六・七の娘がたったひとりで、こんな誰もいない部落の外れまで、来るのだろうかという疑問であった。

 かつて山本が耕平を探しに来て、ウイラの姉のカイラと暮らし始めて、ライラが生まれた頃のことだった。カイラは邑の女たちと四・五人で連れ立って、山菜取りに出かけて行った折りに、カイラと邑の女が熊に襲われたと、一緒に行った女が血相を変えて、知らせに来たことを耕平は想い出していた。

『女だけでも四・五人で行ったのに、そのうちふたりも熊に襲われて、死んでしまったと云うのにタリアという、この娘は見ず知らずのオレたちを見ても、怖がる素振りも見せなかった。例え、未開の縄文人といえど、小さな子供ならいざ知らず、十六・七歳と言えばこの時代では、れっきとした大人のはずだ…。懸念に思った耕平は娘に訊いてみた。

「君はこんなところで、たったひとりで何をしていたのかね。まだ昼だからいいが、昼とは云っても、どこにどんな危険な獣が、潜んでいるか知れんのだ。それに武器も持たずに、こんなところにひとりでいたら、危険極まりもないところだぞ。よし、これからオレが君の邑まで、送って行ってあげるから、一緒に帰ろうか…。ついでにオレたちも、少しの間休ませてもらうから。さあ、行こうか…」

行き掛かりとはいえ、こんな若い娘をたったひとりで、置いておくわけにもいかず、耕平とイサクは娘を連れて歩き出した。

タリアの住んでいるという邑は、三人がゆっくりと歩き出して、さほど遠くないところにあった。

「何だ…。ほだぬ遠ぐねえどごさあったのが…。ほうすっと、やっぱスおらの勘(かん)違(ちげ)えだったのがな…」

 イサクは独り言のようにつぶやきながら、ふたりの後をついて行った。邑に着いた。なるほど邑はタリアがいうように、こじんまりとして戸数も十軒にも満たない、極めて質素で邑というよりも、タリアが言うように部落のほうが、シックリときそうな集落だった。

「ほら、ここがあたしの家よ。少し待っててください。いまお父がいるかどうか、見てきますから…」

 タリアは耕平たちにそう言い残すと、そそくさと家の中に入って行った。それから、少しの間時間が空いて、タリアの後からひとりの老人が出てきた。老人とはいっても、おそらく歳は耕平よりも若いのだろうと思われた。この時代の人間は平均寿命が短い分、身体のほうも老化が進むのが早いのだろうと考えられる。

 タリアの父親は耕平の前まで来ると、地面にペタリと座り込むと両手をついた。

「これは、これは。東の邑のコウヘイ邑長さま、こんな辺鄙な小さな部落まで、よくぞおいでくだされた。わしはタリアの父親で、ラシドと申します。どうぞ、お見知りおきのほどを…。あなたさまのような、高名な邑長さまに来て頂いただけでも、この部落ではひとつでもふたつでも、格が上がるというものでございます。さあ、さ。中に入ってゆっくりとお休みくだされ…」

 案内を請いながら建物に入ろうとしたが、床が普通の家より三倍ほど高いことに気づいた。如何してこんなに深いのかと、耕平が尋ねると冬は暖かいし、夏は涼しいからだとラシドは答えた。耕平自身も縄文時代に来てから、かなりの時間を経過はしていたが、このような縦穴を深く掘り下げて、入り口のところに三段ほどの、段差をしつらえてある建物は、いままで一度も見たこともなかった。なるほどこれなら、ラシドのいう通り冬は暖かいだろうし、夏場だってこれだけ深く掘り込んでいれば、それなりの涼しさは味わえるだろうと、耕平は心の中で密かに思いながら、始めてみる建物の中を見渡していた。

『なるほど…。彼らはさすがに、狩猟民族の末裔だけことはあるな。定住の地を持たずに、日本中を転々として狩った獲物の皮で、邑々を巡りながら物々交換して、生活の糧にしている彼らは、いつしかひとり住みふたり住みして、現在の部落のようになったと聞いている。

 やはり、人間というものは所定の地に、根を下ろすようにしっかりと、腰を据えて生きて行かないと、人間としての発展性が損なわれるのではないか…。だから、ここの狩猟民族の末裔たちは日本中を渡り歩き、その土地その土地の建物の、いいところだけを取り入れた、独特の建て物になっているのではないか…』

 耕平が、そこまで考えを巡らせていた時、ラシドが瓶のようなものを持ち、タリアは大き目の貝殻を運んできた。

「何もおもてなしも出来ませんが、酒だけはたっぷりとこざいますだで、心行くまで呑んでゆっくりと休んでいってくだされ」

 ラシドがいうと、タリアは手に持った貝殻を耕平とイサク、最後に父親にも手渡してから、酒瓶を手に持つと三人の手にした、貝殻の器に予備の貝殻を使い、それぞれの器に次々と注いで行った。

「さあさ、どうぞ呑んでみてくだされ…。わしも酒には目がないほうでしてな。毎年山ぶどうを摘んできては、欠かさず仕込んでいるんですじゃ…」

「ほう…、それはそれは。それでは遠慮なく頂きますかな。イサクも頂きなさい…」

 耕平に言われて、イサクも待ってましたとばかりに、貝の盃を口に運び一気に飲み干した。

「こいづはうめえなァ…。おらァ、こだぬうめえ酒は呑んだごどがねえ。どだごどすっと、こたぬンめえ酒ばこさえるごどができんだべ。なァ、コウヘイ兄イよ…」

「うーむ、確かにうまい酒だ…。しかしだな。イサク、いくらうまいからと云って、無暗に造り方を訊いてはいかんぞ。どんな人にだって、他人には教えたくないことも、教えられないこともあるんだ。自分でうまいと思ったら、ただ黙って頂けばいいんだ。

 だがな。自分で本当にうまいと思ったら、それはそれなりに素直に褒めてやればいいんだよ。そうすることで相手も喜ぶし、自分だって人を誉めたら、気持ちがいいだろう…」

 ふたりの話を聞いていた、ラシドが口元を綻(ほころ)ばせながら言った。

「うぉ、ほほほ…。イサクさまは、ことのほかお気に召して頂けたようですな。よろしかったら、どんどん召し上がってくだされ。こんな酒なら、まだまだたくさんありますでな。心行くまでじっくりと呑んでくだされ。これタリア、おふたりにどんどん注いでやりなさい」

 父親に言われたタリアは、ふたりが手にした貝の盃に、次々に酒を注いでいった。

「時にご主人。ひとつ気になることがあるんでが、タリアさんはいくら昼とはいっても、若い娘がいくら邑外れとは云えども、たったひとりりで出掛けると云うのは、あまりにも危険ではないかと思い、ぶしつけかとも思いましたが、こうして一緒についてきた次第なのです」

「いや、それはそれはご足労なことで、恐れ入ります。実はこの子には、放浪癖とでも云いますか。そこにいたかと思いましても、少しでも目を離そうものなら、もうそこにはいなくなるという、ある種の病とでもいうんでしょうな…。ほとほと困っておりますのじゃ…。さあさ、どんどん召し上がってくだされ。酒ならいくらでもありますからな…」

「ほう…、それは変わった病気ですな…」

 それから耕平とイサクは、酒を飲みながらラシドの話を聞いていると、縄文の世の春先の穏やかな夜は、ゆっくりとした足取りで過ぎて行った。


   3

 耕平は、その晩なかなか寝付くことが出来なかった。

まだあんなに若いタリアに、放浪癖があろうとは…。それも彼女の場合には、どうやら意識的にでははなく、無意識のうちに出歩いているらしいことが、話を聞いているうちに耕平にも、漠然とした形ではあるが見えてきた気がした。耕平の横では、イサクが酒をたらふく飲まされて、高いびきをかいて寝入っていた。

イサクに自家製の酒を褒められて、すっかり気を良くしたタリアの父ラシドが、どんどん酒を勧めるものだから、単純なイサクは「うめえなァ…。こいづは本当ぬ、うめえなァ…」とばかりに、がぶ飲みをしたものだから、イサクはたちまち酔いつぶれて、眠り込んでしまったのだった。

山ぶどうで造った、自家製酒と言えども作り方さえ、間違えずに上手く造ることが、出来ればアルコール度数も、四十パーセント近くになるのである。イサクが酔いつぶれて、寝てしまったとしても別段イサクが、特別酒に弱いからということではない。

ただ耕平の場合は、二十一世紀にいた頃より日本酒党だったために、酒はチビリチビリと飲むのが日頃からの、癖になっていたからこの日もいつものように、自分のペースで飲んでいたために、イサクのようにすっかり酔いつぶれて、寝込んでしまうようなことはなかった。

それでも、明け方近くうつらうつらとしたものの、そのうち鳥たちが鳴きだして耕平は、とうとう眠る機会を逸してしまっていた。耕平は誰にも迷惑をかけないように、ひとりでそっと起き出すと外に出て行った。

しかし、この時期の早朝は風がヒンヤリとしていて、桜の花が咲く頃とは言っても、夜明け前の空気はまだまだ肌寒く感じられた。東の空を見ると、ようやく薄っすらと明るくなりかけて行くところだった。

耕平がラシドの家の周りをぶらついていると、

「コウヘイ邑長、寝付かれませんでしたかな…」

 と、ラシドが声をかけてきた。

「いやぁ…、これは起こしてしまいましたかな…。いろいろと考えているうちに、つい寝そびれてしまいましてな。起こしてしまったのでしたら、大変申しわけないことをしました…」

「いやァ、なんのなんの…。わしも、この頃は年のせいか、めっきり寝起きが早くなりましてな。まったく年は取りたくありませんな」

「それは何よりでした…。時にラシドさん。折り入って話したいことがあるのですが、訊いて頂けますかな…」

「ほう…、コウヘイ邑長が、わしに話とは一体どんな話ですかな…」

「実は、娘さんのタリアさんのことなんですが、もしよかったらタリアさんを、この私に預からせてはもらえないでしょうか…。昨日聞いた話ですとタリアさんには、放浪癖のようなものがあって、しかも聞くところによりますと、タリアさんの場合は自分では意識がなく、すべて無意識的に行動に出てしまう、というのが私の感じた見識なのです。

 それでいつまでも、このままにして置いたら、いずれ取り返しのつかないことに、なってしまうのではないかという、私なりの懸念があればこそなのです。どうでしょう、ラシドさん。あなたの娘タリアさんを、私に預けてもらえませんか。あの若さで放浪癖では、これから先どんな目に合うか分かりませんし、私にもどうすればいいのかさえ、いまはまったく分かりません。とにかく、このままにして置いたら行く行くは、どんな目に出逢うか分かったものではありません…。私が一番心配しているのは、何と云ってもそこのところなんです…」

 耕平の話を聞いていたラシドは、少し間を置いてから言った。

「あの有名なコウヘイ邑長が、そうおっしゃるのでしたら、願ってもないことですじゃ…。何とぞ、ひとつよろしくお願いしますじゃ…」

「よろしいでしょう…。それではタリアさんが起きたら、そのことを伝えてあげなさい。私はまだ少し時間が早いので、何か食い物でも漁ってきましょう…」

 そういうと、耕平は一旦家の中に戻り、弓と矢を手にして傍らを見ると、まだイサクは高いびで寝入っていた。外に出ると空は徐々に明るさを増して、東の空には真っ赤な太陽が昇ろうとしていた。

「よし、今日も天気はよさそうだな…」

「気を付けてくだされよ。コウヘイ邑長…」

そう声をかけて、ラシドが耕平を見送った。

 耕平はそのまま、昨日通ってきた草原のタリアと、出逢った辺りまで来ていた。しかし、これといった獲物らしい獲物は、どこを探しても見当たらなかった。

『これは困ったぞ…。ラシドの親父さんに、大きなことを云ってきた手前、まさかこのまま手ぶらでは帰れないし、何とかして何かを狩りださなければ…』

 そうは思うものの、獲物がまったく見当たらない以上、耕平としてもどうすることもできなかった。

『参ったぞ。これは…、こんなことは滅多にあることじゃない…。どうしたと云うことだ…』

 気がつくと耕平は、昨日タリアと逢った場所を、はるかに過ぎた地点まで来ていた。

「いや、いや。これはずいぶん遠くまで来てしまったぞ。それにしても、野ウサギ一匹出くわさないなんて、可笑しなこともあるものだな…」

 耕平は独り言のようにつぶやいた。

「コウヘイお父。やっぱりここでしたか…。この辺じゃないかと、目星をつけては来たんですが、この辺はおいら不慣れなもので、どこを探せばいいのか分からなくて、だいぶ苦労しましたよ。でも、見つかって本当によかったですよ」

 耕平が振り向くと、そこに立っていたのはムナクだった。

「どうしたんだ…。ムナク、こんな早くから何かあったのか…」

「何かあったのか。じゃ、ありませんよ。お父、昨夜お父たちが帰らなかったんで、邑では大騒ぎだったんですよ。邑人の中には、イサクが一緒だから大丈夫だろう。というのが大半だったんですが、長老のひとりが『すぐにでも、探しに行って来い』という、鶴の一声で白羽の矢が立ったのが、おいらだったというわけなんです。ところで、その肝心のイサクの姿が見えないようですが、どうかしたんですか…」

「うむ…、そのことなんだがな。話せば長くなるんだが、昨日この近くで狩りをしておったんだ。すると、向こうの岩陰辺りで何やら、動くものが目についたんだよ.オレとイサクは獲物かと思って、遠周りに近づいて行ったんだ。

 そうしたら、そこにいたのは年の頃なら、十六・七のまだうら若い娘だった。『こんなところにひとりでいたら、獣に襲われたりしたら危険じゃないのかね』と、云ってやったら、部落はすぐ近くだから大丈夫というんだが、心配だっだから一緒に着いて行ったんだよ。

 その娘はタリアと云って、ムナクと同じ狩猟民族の末裔らしい。それが流れ流れてこの地に辿り着いて、ひとり住みふたり住むようになって、いつしか十軒足らずの小さな部落ができたらしい。

 それで昨夜はひと晩泊めてもらい、山ぶどうで造ったという酒をご馳走になって、イサクはうまいうまいと云って飲みすぎたらしく、オレが出てきた時はまだ高いびきで、眠っていたようだったがもう起きただろう…」

「なんてヤツなんだ。本当にもう…、それでコウヘイお父は、こんなところで何をしてたんですか…」

「オレか…、オレは昨夜泊めてもらったお礼に、何か食い物でも狩ろうと思って、出てきて見たんだがなぜか今日に限って、野ウサギ一匹とも出食わさないんで、オレも小々うんざりしてたところだったんだ」

「何だ。そんなことだったんですか。それなら、おいらがここに来る途中で狩った、獲物がありますから持っていけばいいですよ」

「おお、そうかそうか。それならムナクも一緒くるといい。そのタリアという娘の父親で、ラシドという男がなかなかの人格者で、ぜひムナクにも逢わせたいから一緒に来なさい」

「狩猟民族ですか…。懐かしいですね…。おいらもかつては、その流れを汲んだ一族だったんですから、お父に止められてこの地に居つくまでは…。

しかし、人間の運命っていうのは、不思議なものなんですね。あの頃は何とも思いませんでしたが、ひとつの場所に留まって暮らすことが、こんなにも精神的に安定感をもたらすなんて、おいら夢にも思っていなかったんです。

 ですから、あの日コウヘイお父のところを、訪ねて行かなかったら今頃は、どこかの荒野の果てでたった独りで、獣に襲われて死んでいたかも知れないんです。

 おいらのお父やお母ァも、獣に襲われて死んでしまいました。おいらは襲われた時、石につまずいて転んで、頭を打って気絶して難を逃れました。気がついてみると、お父とお母ァは見るも無残な姿で、おいらのすぐ傍で横たわっていました。

 それからのおいらは、死にもの狂いで弓の練習を始めました。その甲斐があってか、ついにおいらは二本の矢を同時に打って、一部の狂いもなく標的に当てる技を完成させました。

 これはコウヘイお父も、一度見てるので分かると思いますが…」

「そうだな…。ムナクのあれは実に見事なものだった。この世界広しと云えども、あれだけの技を持っている者は、そうざらにはいるものではないぞ。ムナク」

小さな林を抜けると、バラバラと点在する部落が見えてきた。

「ほら、あそこだ。早く行こう…」

耕平は少し小走り加減で歩き出していた。

「ただいま、いま戻りました…」

耕平が声をかけて、

「気をつけろ。ムナク、この家は入り口が打差になってる、うっかり踏み込むと転倒するぞ」「大丈夫ですよ。コウヘイお父、おいら前にも西のほうの邑で、一度これと同じような家を見たことかありますから…」

 すると中のほうから、

「あんれ…。ムナクでねえだが、おめえこだなどごで何ぬやってんだ…」

 という、イサクの声が聞こえてきた。

「ムナクはな。昨夜オレたちが帰らなかったんで、長老たちに云われて探しに来たんだそうだ。それより、同じ狩猟民族の末裔として、ラシドに逢わせてやりたいんだ。中にいるんだろう…」

「ほだなァ…。少ス前まではいだんだども、ついさっきどごさが出で行ったぞ。コウヘイ兄イ…」

「まあ、そう遠くまではいくまい。オレたちも中で休ませてもらおう。特にムナクは、遠路遥々オレたちを探し来たんだからな…」

 と、ムナクを伴って家の中に、入ろうとした時だった。

「おお…、戻られましたか、コウヘイ邑長」

 何かを大事そうに抱えた、この家の主ラシドが帰ってきた。

「どこに行ってらしたんですか。ラシドさん、それから紹介しますと、こっちが私の義理の息子で、ムナクと申します。どうぞよろしく…」

「ムナクと云います。よろしくお願いします」

 ムナクは両親の死後、たったひとりりで数知れないほど、世渡りをしてきただけに、人に接する技術も人一倍、長けていたと言えるだろう。

「このムナクも、あなた方と同じ狩猟民族の末裔でしてな。ある時、ふらっと私のところを訪ねてきまして、『西から東に旅ばかりしていたら、精神的に休まる時がないだろう。君さえよければ、気が済むまで腰を落ち着けて、じっくりと生活をしてみればいい。それが気に入らなかったら、またいつでも旅に出ればいいんだから…』と、云ってやっら、私の娘と結婚をしましてな。いまではすっかり邑の一員に、なってしまったというわけですよ」

「そうでしたか…。それはそれは、確かにいまでも放浪の旅を続けている、狩猟民族の末裔の話を聞きますが、それもそう永くは続かんでしょうな。そういう時世に、なってきているんでしょうからな。人間というものはやはり、一ヵ所に居を構えて暮らす。これがなかったら、大昔のわれわれの先祖と、大した違いはなくなってしまいますからな…」

 そういうとラシドは、どこか遠くを見るような仕草で、持っていたものを抱え直すようにして、家の中へと入っていった。

 ラシドが家に入って行くと、イサクが代わりに出てきて、耕平にそっと耳打ちをすように言った。

「コウヘイ兄イど、ムナクぬ云っておくけんども、おらはなしてが知んねえだども、あのラシドつう親父のごどが、どうスても信ズられねえような、気がスてなんねえだ…」

「なぜだ。どうして、そんな風に思うんだ。イサクは…」

「ほだなごどは、おらぬ聞がれでも、わがるわげねえべ…」

「うーむ、イサクは時々鋭い勘が働くからな…。よし、わかった。できるだけ早く、ここを離れることにしよう。但し、ラシドとの約束があるから、娘のタリアだけは邑に連れて帰るぞ。いいな…」

「ほだなァ…、あの娘っ子なら気立てもいいス、素直だがら連れで行ってもいいべ…」

「しかし、あの娘には放浪癖というか、少しでも目を離そうものなら、無意識的にどこかに姿を消してしまうそうだから、くれぐれも目を離してはいかん…」

「それはまた、コウヘイお父もえらい預かりものを、してきて来てくれたものですね…。それでおいらたちに、その娘のお守りをしろというわけですね」

「いや、そうは云っておらん…。ただできるだけ目を離さずに、見守ってやってほしいと思っただけだよ」

「それは無理ですよ。お父、おいらたちだって、毎日遊んでいるわけじゃないんです。家族を喰わせるために、食料を狩り集めるためにほとんど毎日、外に出ているんです。とてもじゃないですが、そこまで手は回りませんよ…」

「なるほど、云われてみればその通りだが、引き受けた以上は何とかせねばなるまい…」

 耕平とムナクの話を聞いていたイサクは、何を思ったのか突然ふたりの話しに割り込んできた。

「なあ、兄イよ。ほスたら、こうスたらどうだべ。おらンとごのアケビさ、あのタリアっつう娘っ子ば、預けでみではどうだべが、おらが云うのも何だども、おらンとごのアケビは根っからの山育ちで、身のこなスも平地の人間なんかより、はるかぬすばスっこいス、それぬアケビは鳥や獣の言葉までわがっから、例え娘っ子がいなぐなったどしても、すぐぬ見つけ出せっから、何んも心配しんぺえなんていらねえ…」

「そうか…。アケビちゃんには、そんな特技があったのか…。そいつは実に、頼もしい限りだ。ぜひお願いしよう。それでは食事が済んだら、すぐに出かけることにして、これ以上ラシドに迷惑をかけたくない。ムナクが狩ってきた獲物を、調理して食べ終わったらすぐに出発だ…」

 ラシドの家の裏手に回ると、三人はムナクの獲ってきた、鳥や動物の羽根や皮を剥いで、イサクが熾した火に木の枝などに刺して、地面に立てて燃え盛る炎にかざした。

 こうして、朝食を終えた三人は表に周ると、ラシドに別れの挨拶をするためと、タリアを預かって出発するために、ラシドの家に揃って顔を出した。

「ラシドさん。昨日は大変ご馳走になり、ありがとうございました。私らもいま食事を済ませましたので、タリアさんをお預かりしまして、私らの邑に戻ってみたいと思います。それでは、タリアさん。準備がよろしければ、そろそろ出かけましょうか…」

「はい…」

 と、言ってタリアは立ち上がり、ラシドも家の中から出てきた。

「コウヘイ邑長さま。娘のことはよろしゅう、お願いいたします。東の邑までは、かなり遠いと聞き及んでおります。何とぞお気をつけてお帰りください」

「いや、こちらこそ何から何まで、お世話をおかけしまして、礼の云いようもありません。それでは、これにてお暇をいたします」

「ほんじゃ、さいなら…。ゆんべの酒はうめがったな。おらァ、あだぬうめえ酒は初めて呑んだで、ほんぬ、うめえ酒だった…」

「おお、そうじゃった…。イサクさんが、それほど気に入ったのなら、少しばかり分けて上げようと思いましてな。用意しておいたんじゃった…」

 ラシドは、そういうと一旦中に戻って、今朝方どこかから持ち帰った、袋のようなものを持って出てきた。

「これはイサクさまへの手土産ですじゃ…。あんなに喜んで呑んで頂いたのは、イサクさまが初めてでしてな。これはお褒め頂いたイサクさまへの、心ばかりのわしからのお礼ですじゃ。どうぞ、お持ち帰りになってくだされ…」

「うわァ…、こだぬ貰ってもいいのが…」

「イサク、ラシドさんからのせっかくのご好意だ。頂いておきなさい。それでは、われわれもお暇をいたします。タリアさん、参りましょうか。ラシドさんも、どうぞお元気で…」

「くれぐれも娘のことは、よろしくお願いしますだ…」

 タリアの父ラシドが見送る中、耕平たち四人は東の邑を目指して帰って行った。

 タリアも若い娘にしては、足腰も達者らしくて男三人には、引けを取らないくらいの早さで、果てしなく続く草原の中を歩いて行った。

「だども、タリアは娘っ子の割ぬは、なんだかんだ云っても足は丈夫だなや。おらは途中で疲れだなんて、云っちゃら負ぶって行ぐつもりで、いだんだどもこの分では邑まで行ったって、まだまだ大丈夫だなァ…」

 と、イサクがいうのを聞いてたムナクが、

「お前は、お父が云ってたこことも、何も聞いてないのかよ。タリアさんは、おいらと同じ狩猟民族の末裔なんだぞ。狩猟民族というのはな。西から東まで渡り歩いて、獲物を狩り出して生活を立てている民族なんだぞ。その子孫なら、男だろうが女だろうが、そんなことは関係ないんだ。それについていけないヤツは、取り残されて獣の餌になるのが、せいぜい関の山なんだ…。お前も他人のことを気にするんだったら、せっかくラシとから貰ってきた酒を、溢さないようにするんだな…」

「何ぬ云ってるだ。こだぬうめえ酒ば、おらは死んだって溢したりすっか…。スかス、それぬスてもこだぬうめえ、大事な酒をおらぬ分けでくれだ、タリアのお父っつぁんは、ほんぬ神さまみでえな人だなァ…」

「コウヘイお父…。イサクのヤツ、あんなことを云ってますよ。今朝はおいらたちに、あんな酷いことを云ってたくせに、その口の根も乾かないうちに、なんてヤツなんだろう…」

「いいから、放っておきなさい。ムナク、分かり易くっていいじゃないか。イサクはあれでいいんだよ。精神が純粋だからこそ、ああやって素直に喜べるんだろうよ。われわれにはもう、したくても出来ないだろうがね…」

 耕平は無邪気に燥(はしゃ)いでいる、イサクを見ながらふっと苦笑を漏らした。

 ラシドの家を出てからだいぶ歩いた。太陽はすでに中天に達していたから、もう昼飯の時間帯は、過ぎていたのかも知れなかった。

「よし、この辺で飯にでもしようか。昨日ムナクが獲ってきた残りはあるが、これではみんなに行き届かないから、ムナクとイサクで適当に何か、狩りだしてきてくれ。

そのうちに、オレとタリアさんで今朝の残り物を、喰えるようにしておくから、頼むぞ」

「よス、わがった。ぼだのはに、おらひとりで沢山だ。ムナク、おめえはいいがら休んでろ」

「おい、おい。大きなことを云って、お前ひとりで大丈夫なのかよ…」

「大丈夫がだど…、お前えおらの石つぶてのごどを、バガぬスてんのが…、ムナク」

「ちぇ…。だったら、おいらしら,ねえぞ。勝手にしろよ」

「ああ、そうすっぺ。ほんじゃ、ちょっくら行ってくっから、待ってでけろ」

 イサクはそういい残すと、さっそうと出かけて行った。それから、ものの三十分経つか経たないうちに、山鳥二羽と野ウサギ三匹を担いで、口笛を吹きながら意気揚々と戻ってきた。

 こうして、この日の昼食は昨日の残りと合わせて、豪華な食卓となり食事が済んで、ひと休みをしてからタリアを連れて、夕暮れ前には東の邑に帰り着いたのたのだった。


   4

 日本中を渡り歩いて来た狩猟民族たちが、いつからかひとり集まりふたり集まりして、出来た末裔たちの部落から、そのうちの娘タリアを預かり、東の邑に帰って来てから、早くもふた月が過ぎ去ろうとしていた。タリアも自分がいた部落と比べて、あまりにも広い邑が気に入ったらしく、あれ以来ラシドがあれほど溢していた、放浪癖も耕平の邑に来てからは、まるで嘘のようにピタリと出なくなっていた。

 季節は梅雨の時期に入ったらしく、どんよりとした空の下で雨の日が続いて、毎日ジトジトとした陽気が続いていた。この時期は、衛生状態によくない縄文時代のことで、カビなども発生しやすいために、疫病にもかかりやすく健康面においても、極めて好ましからざる状態でもあった。

 だから、冷蔵設備もなかったない時代だったから、その日に獲った生ものはその日のうちに、処分(その日のうちに食べてしまうか、他人に分け与えるか)してしまわなければならなかった。こういった面からも、病気になっても薬もないのだから、縄文人の平均寿命が現代人よりも、はるかに短かったことも頷けるのである。

 さて、前置きはこれくらいにして、狩猟民族の末裔であるタリアも、東の邑に来てからも同じ民族の末裔である、ムナクのことを実の兄のように慕っていた。暇さえあれば、ところ構わずムナクに着いて回って、並みの夫婦ものよりも仲が良く見えた。

 当のムナクは、どう思っていたかは知らないが、面白くなかったのはムナクの妻のライラだった。

 もともとライラは、亡くなった耕平の妻の姉カイラと、親友山本徹との間にできた娘で、カイラの死後耕平とウイラが引き取って、自分たちの娘として育てていた。性格も父親の山本に似て、気性の激しい面を持ち合わせていた。

 そのライラが暇さえあれば、ムナクに付きまとっているタリアに、相当激しい嫉妬の念を抱いていた。表立った行動はしなかったものの、細々とした嫌がらせは数知れないほどだった。その噂を聞いた耕平は、ライラとタリアを呼びし外へと連れ出した。

 ふたりを連れ出した耕平は、邑外れの雑木林の近くまでやってきていた。

「ライラ…、お前の噂はオレの耳にも入ってきているぞ。どうして、そうタリアさんに嫌がらせばかりするんだ…。タリアさんはな。彼女を邑に連れて来た時に、みんなにも話したと思うが、狩猟民族の末裔の娘さんで、タリアさんのお父のラシドさんからも、くれぐれもよろしくと頼まれてきた、お前と同じくらい大切な娘さんなんだ。それなのに、お前はどうしてそんなに、タリアさんに嫌がらせばかりしてるんだ…」

「だってぇ…、タリアは用もないのに、いつもムナクにへばり付いているし、妻であるあたしは一体どうすればいいのよ…」

「いいか、ライラ…。オレの云うことを黙って聞きなさい。

 タリアさんの先祖はな。狩猟民族と云って、オレたちのように決まった家を持たず、各地を転々としながら、狩猟を生業なりわいとした一族のことだ。ムナクのことを慕っているのは、タリアさんには兄妹がいないだろう。

 だから、ムナクとは同じ民族ではあるが、邑の中にも知ってる者はオレとイサクだけだろう。だったら、一番年の近いムナクに頼るのが、ごく自然だとオレは思うのだが、ライラはどう考えているのかな…。自分がタリアさんの立場だったら」

「いいわよ。あたしはどこにも行かないから、それにあたしには、コウスケお兄イだっているし、ムナクもいるから…」

「そうじゃないだろう。オレが云ってるのは、もしライラが周りに誰も知らない、邑に行ったら出来るだけ優しそうな人と、親しくなって助けてもらいたいと、思うだろうと云っているんだ…。まったくわからない娘だな。お前ってヤツは…」

「だから、あたしはどこにも行かないから、いいんだってば。あたし、もう行ってみるわ…」

 耕平とタリアに背を向けると、ライラは邑のほうに向かって走り去って行った。

「やれやれ、アイツの強情さにも困ったものだ…。山本の性格をそのまま、受け継いだようなものだな…」

 耕平が独り言のように言った言葉を、聞いていたタリアが耕平に尋ね返してきた。

「あのう…、コウヘイ邑長さま。いま邑長さまが云われました。そのヤマモトというのは、いったいどなたなのですか…」

「うむ。山本か…、これには深い訳があってね。タリアさんに云ったところで、分かってもらえないと思うのだが、山本というのはオレの友だちで、ライラの本当の父親のことですよ」

「これは、立ち入ったことをお聞きしまして、失礼いたしました…」

「いや、何も構わんよ。しかし、これ以上云ったところで、タリアさんには理解できないだろうから、この辺で止めておこう…」

 と、言って、耕平はライラと山本に関する話を、そこからは一切しなくなっていた。

「ですが、コウヘイ邑長さま。もうひとつだけお聞きしても、よろしいでしょうか…」

「ん…、何だね。それは…」

「はい…、ムナクから聞いたのですが、コウヘイ邑長さまは明日の明日の、そのまた明日の世界から、やって来た人だと聞きました。だから、みんなが知らないことまで知っている、神さまみたいな人だって云ってたわ…」

 タリアの話を訊いて、耕平は何故か空しいものを感じていた。耕平の周りの縄文人たちは、未来という言葉さえ知らずに、自分たちに理解できないもの。イコール〝神のなせる業〟というのが縄文人の中に…。いや、江戸時代・明治・大正・昭和・平成に至るまでも、人類の中の奥深い部分に、植え付けられ(プログラミング)ていたのではないか。という思いが耕平の頭の中で、ごうごうと音を立てて渦巻いていた。

『神さまか…。フッフッフッフ…、案外そうかも知れないな。何しろ時の流れを遡(さかのぼ)って、こんな時代までやって来たんだからな…。普通の人間ならやらないだろうし、出来ないだろうがな…。ましてオレは人間として、犯してはならないところまで、ズタズタにして来てしまったんだからな…』

 耕平は、また過去の思い出したくもない、想いに苛まれひとりで悩み踠(もが)いていた。

 そんな時、ひょっこりイサクが訪ねてきた。

「何だ。イサク…、こんなに雨が降っているのに、どうかしたのか…」

「どだもスねえだども、こだぬ雨ばっかり降ってっと、家ン中ばっかりでなぐて、頭ン中までカビが生えそうだったがら、コウヘイ兄イば誘って裏山にある、洞穴ぬでも遊びさ行って見っかど思って、誘いさ来て見だんだ」

「裏山の洞穴…。いつだったかコウスケが、黒曜石を見つけてきたところかな…。だけどな。イサク、いま頃行ってみたところで、いてもせいぜいコウモリくらいのものだろう…」

「ほんじゃ、聞ぐけんどよ。兄イはこだぬ雨が降ってでも、何ぬも退屈でも暇でもねえ。つうんだな。本当ぬ…」

「いや、別にオレはそうは云っとらんぞ。こんなに雨の降る日ぐらいは、たまにはゆっくりと体を休めたいと、思っていただけじゃないか」

「ほすたら、おらはあんまり暇だがら、ひとりで遊んでくっかな。ドッコイショ…」

 あまり乗り気でなさそうな、耕平を尻目にイサクは腰を上げた。

「おい、ちょっと待てよ。イサク、誰も行かないなんて、ひと言も云ってないだろう。コウスケにも前から、『お父も一遍行ってみなよ。黒曜石とかいろんな石が、いっぱいあるんだから…』と云われていたんだが、忙しさに感けて来てる暇が、全然なかっただけなんだ。今回はいい機会だから、ぜひ行って見たいと思ってな…」

「よス、ほんじゃ行って見っか…。だども、雨はすごぐ降ってんな…」

「何だ。これぐらいの雨、まさか冬でもあるまいし、風邪を引くわけでもあるまい。さあ、行くぞ。イサク…」

 耕平は先頭を切って外に飛び出した。

「だども、これはすごい雨ぬなって来たぞ。コウヘイ兄イ…」

「雨ぐらいで、いちいち騒いでいたら、人間何もできやしないぞ。オレよりもだいぶ若いくせに、邑一番の力持ちが泣くぞ。イサク…」

「ほだごど云わっちも、おらは雨どおっかねえ女ぬは、昔っから弱がったのが兄イは、知んにがったのが…」

「いや、知らんな…。あ…、思い出した…。お前は亡くなったカミさんには、確か頭が上がらなかったな…」

「ほだなごどは、思い出さなくていいがら、早ぐ行ぐべ。行ぐべ…」

 それから間もなく、かつてコウスケが黒曜石を見つけたという、裏山の岩穴のところまで辿り着いていた。

「なるほどここか…。コウスケから聞いていたが、コウスケでさえ潜り込むのが、やっとの大きさだな。これではオレはもちろんのこと、イサクのようなゴツイ体のヤツは、とてもじゃないが通り抜けられんぞ…」

「なーぬ…、こだの造作もねえ。おらがこごの入り口の岩ば、引っ剥がしてやっからよ。兄イはちょこっと横っちょさ、避げででけろや。すぐぬ終わっから…」

 イサクは、小さな穴の入り口の縁に、ガッチリ両手を掛けると、思いきり引き剥がしに掛かった。すると、そこの岩自体が脆くなっていたのか、イサクの力のほうが勝っていたのか、岩はベキという音を立てて、イサクの足元に崩れ落ちた。

「もう、これくらいなら充分だろう。中に入ってみよう…」

「いったい何があんだべが…」

 イサクは恐る恐る耕平の後をついて行った。

 中に入ると、この洞窟のいたるところに、穴でも開いているのか中に入ると、うっすらと光が指しているように明るかった。コウスケが言った通り、洞窟の壁面全体には黒曜石が、まさにビッシリという言葉が、そのまま当てはまるような、結晶化した黒曜石が突き出していた。

「おお…、これはまさに見事なものだな。それにこんなにも、層になっているような黒曜石は、オレも初めて見たよ…」

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廻りくる季節のために 縄文に吹く風 佐藤万象 @furusatoha

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