25. 正解なき一択

 人より体力に自信はあるが、全力で十分間も走り続けることはなかなかできることじゃない。これがアドレナリンというものかもしれない。


 海渡はネットカフェを出てから一度も止まらず、速度を落とさずこの場所まで走ってきた。さすがに呼吸は苦しいが、三度の深呼吸で空気を貪った。


 子供たちの声が聞こえる。


 海渡は木の陰に隠れて様子を伺った。まだ富田はこの場所で犯行に及んでいないらしい。


 きっとこの場所に来るはずだ。


 滑り台の周りに自転車を止めて、高学年の男の子たちがゲーム機を持ち寄って遊んでいる。今朝すぐ近くで殺人事件が起きたというのに、警戒もせずに友人との時間を楽しんでいた。


 それも、殺害されたのは同じ小学校に通う生徒だ。


 綾瀬北小学校は本日臨時休校になり、生徒には家から出ないようにと学校から指示があったはず。


 しかし、こんなときでも遊びたいのが子供。いつもよりここにいる子供の数は少ないだろうが、両親が仕事でいない家庭なら誰に何を言われることもなく外出できる。


 通り魔は犯行後に警察から逃げるために身を隠す。きっと彼らはそう思って、すでにこの近くに犯人はいないと思っているかもしれない。


 問題は、犯人がまともな考え方をする人間じゃないことだ。狭い世界にいる子供たちは、一歩外に出ると不条理がありふれていることをまだ知らない。


 この綾瀬北公園は小学校の近くにある公園で、綾瀬北小学校の生徒たちが放課後や休日に集まって遊ぶ場所だ。


 休校になった学校から下校する生徒はいない。同じように子供を狙うなら、この場所が最適だ。


 富田は「の悪いやつらも殺す」とインターネットに書き込んだ。それは、今朝殺害された三人以外の綾瀬北小学校に通う子供たちという意味だ。


 どうして小学生にこだわるのか理由は判明しないが、それを考えようとしても無意味だ。


 海渡の思考で理解できるくらいなら、富田は気が狂ったように人を殺すことはなかったはず。


 紅音たちは富田がここに来ることに気付いただろう。パソコンの画面にあった地図には、小学校と犯行現場、公園があった。富田は当然小学校が休校になることは考えていた。


 学校から無用な外出はしないようにと生徒に指示が出ることも想定済みだろう。それに従わない生徒は、やつらだ。


 子供たちは殺人犯が現れるリスクも気にせずにゲームで友人と盛り上がっている。


 この公園は敷地が広いので、滑り台の場所の周囲は開けている。もし今富田が現れたとしても、彼らは反対に逃げれば助かるだろう。


 海渡が様子を見ていると、子供たちは場所を移動するのか自転車を押して公園の中を進み始めた。


 まずい。


 タイミングの悪いことにその先から男がやってくる。服を替えているが、あれは写真で見た富田で間違いない。


 海渡はその場所を駆け出して、大声で子供たちに危険を知らせる。



 「逃げろ!」



 海渡の声に反応した子供たちは、こちらを見て固まった。今朝の事件のことは知っているだろうが、いざその状況になると人は動けなくなる。


 海渡と別の方向から走ってくる富田は奇声を上げて刃物を取り出した。



 「走れ!」



 海渡は動けなくなった子供たちの前に飛び出して、走ってくる富田に構えた。


 海渡は警察官として体術を身に付けた。刃物を持っている殺人犯でも、格闘経験者じゃない限りそう簡単にやられることはない。


 はずだった。


 まっすぐ刃物を向けて走ってきた富田と、十五年前の光景が重なってしまった。金縛りにあったように身体が硬直し、鋭利な刃物は海渡の腹に刺さる。


 懐かしい痛みとともに、彼は脚から力が抜けて地面に膝をつく。



 「全員死ねー!」



 刃物を抜いた富田の眼鏡に海渡の返り血が飛んで、太陽の光を反射してそれは光った。目の前で人が刺されたことに子供たちは大声で叫びながら逃げ出した。


 富田はその姿を狂気に満ちた笑顔で追いかけようとするが、海渡が富田の服の裾を掴んで引っ張った。引きづられながらも決してその手を離さないように力を込める。



 「放せ!」



 富田は再び刃物を振り下ろす。


 海渡は背中に刺さった追撃に表情を歪める。


 駄目だ。もう力が入らない。


 意識を失いかけた海渡は痛みを感じなかった。気持ちよく脱力し、その先に待っているのは死だと覚悟した。



 「かい!」



 意識が完全に闇の中に落ちる直前、子供の声がした。あのときと同じ懐かしい声。


 なんとか富田の服を掴みながら顔を上げると、そこに謙人と佑がいた。当時と変わらない十歳の頃の姿で。


 これは、幻か。それとも、彼らが迎えにきたのか。



 「海! 立て!」



 かつての友人は富田の前で両手を広げて子供たちが逃げた方向に立ち塞がる。


 あのときの行動は間違いじゃなかった。謙人も佑も、後悔なんてしていない。何度同じ状況になっても、彼らは誰かを救うために立ち向かう。


 海渡はなぜか急に軽くなった脚で地面を蹴って、富田に飛びかかるようにその顔面に正拳突きをくらわせた。


 富田は鼻から血を流して倒れ、呻き声を上げる。


 こんなやつのために、未来ある命が失われた。謙人と佑も、こんなやつのせいで未来を絶たれた。


 痛みを忘れた海渡は倒れたまま鼻を押さえてもがく富田に馬乗りになった。


 こいつは生きる価値のない人間だ。



 「殺してやる」



 海渡は両腕で顔を守る富田に向かって何度も拳を振り下ろす。このまま続ければ死んでしまうことを承知の上でその動きを止めなかった。



 「海渡!」



 馬乗りになっていた海渡は勢いよくぶつかった何かに身体を飛ばされた。彼は地面を転がってもなお、再び富田に向かって行こうとする。



 「海渡、もういい!」



 海渡の腕を掴んでその動きを止めたのは紅音だった。


 彼女の今にも泣きそうな顔を見た途端、海渡の腹と背中の傷が酷く痛んだ。突然視界が薄暗くなり、崩れ落ちそうになる彼の身体を紅音が支える。


 富田は裕武と咲良によって地面に押さえ込まれてもまだ奇声を発して暴れ続けた。


 脱力して地面に座る海渡の身体を抱きしめて、紅音は十五年前と同じように大粒の涙を流しながら彼に声をかけた。



 「海渡、死なないで! すぐに救急車が来るから!」


 「ごめん。夕月さんの事件は解決できないかも・・・」


 「私は海渡に生きていてほしいだけなの! あなたがいないと、私は生きていけない!」



 眠るように頭を下ろした海渡の腹と背中の傷口を、ふたりの少年が押さえる姿があった。その光景が見えるのは、咲良だけだ。


 彼らもまた、海渡に生きてほしいと願っているのだ。



 「海、死ぬな」



 その言葉は咲良の耳に届いた。




 海渡が目覚めると、そこは何もない真っ白な空間だった。足元に地面があるのかもわからない、見上げても遥か高くまで白が広がっている。


 人は死んだらこんな場所に来るのか。


 海渡は自らの腹を押さえてみたが、痛みはなかった。


 公園で刺されたことは覚えているのに、傷はなくなっている。もう、今ここにあるのは俺の身体じゃないんだ。



 「海、久しぶり」



 声に反応して振り返ると、謙人と佑が無邪気に笑った。



 「ああ、久しぶり。やっと会えた」


 「海は大きくなったね」



 目の前にいるふたりは当時の姿のまま、成長した海渡とは目線の高さがまるで違う。


 佑は常に誰に対しても優しかった。その穏やかな笑顔にどれほど救われたことか。



 「ごめん。俺だけ生き残って」


 「なんで謝るんだよ。海は何も悪いことなんかしてないだろ」



 スポーツが得意で明るい性格だった謙人はクラスのムードメーカー。優しい少年だったふたりは、理不尽にその命を奪われて短い生涯を終えた。



 「でも、やっとそっちに行ける、のかな?」


 「まだだ。やり残したことがある」


 「うん、まだこっちに来るには早い」


 「そっか。俺はまだふたりのところには行けないのか。残念だな」



 だけど、謙人と佑がそう言うなら、俺は運命を受け入れよう。


 まだやり残したことが、あっちの世界にあるから。

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