23. 言葉と手紙

 謙人と佑は僕を「かい」と呼んだ。友達は他にもたくさんいたけど、その呼び方をするのはふたりだけだった。


 病室で外を眺める十歳の海渡は、この世のすべてがどうでもいいと思った。


 もう謙人と佑はこの世にいない。二度と会うことがない。意識はあるのに、まるでこの世にいないような感覚だった。


 今日もまた、あの警察のお姉さんが来る頃だ。刺された僕にずっと声をかけて励まし続けてくれた人。俺のために涙を流した人。


 姉を亡くしてあのお姉さんも悲しいはずなのに、俺を励まし続けてくれる。


 その強さはどこから来るのだろう。



 「お邪魔します」



 海渡がベッドの上で天井を眺めていると、彼女はやってきた。事件があって入院してから四日経った。彼女は一日も欠かさずにお見舞いに来てくれる。


 いつも満面の笑みで病室に入ってくる彼女を見ると、少しだけ現実から逃れられた。とても綺麗なお姉さんで、男の子の海渡にとっては癒しになったという思春期特有の理由もあったかもしれない。



 「海渡くん、調子はどう?」


 「普通」


 「普通か。じゃあ、元気ってことだね」



 どうしてお姉さんはいつも笑ってるんだろう。大切な人を亡くしてまだ少ししか経っていないのに、もう忘れてしまったのかな。


 僕も退院する頃には、謙人と佑のことは忘れてしまうのかな。気は楽になるけど、それは嫌だ。


 毎日私服で会いに来る紅音は、警察の仕事をしているのかな。二十歳だと言っていたけど、僕もあと十年経てばお姉さんみたいな強い人になれるのかな。



 「警察の仕事しなくていいの?」


 「してるよ。警察は犯人を逮捕するだけじゃなくて、他にもいろいろやってるの」


 「じゃあ、これも仕事?」


 「これは仕事じゃない。海渡くんに会いたくて私が勝手に来てるだけ」


 「もう来なくていいよ。元気になったから」


 「そんな悲しいこと言わないでよ。私は海渡くんとお友達になったつもりだったんだけどな」



 紅音は丸椅子を引っ張ってきてその上に腰を下ろした。彼女は毎日三十分以上話をしてから「また明日ね」と手を振って去っていく。


 本当は、大切な人を亡くしたことを忘れられるのかと訊ねたかったけど、それはこの人を傷付けるかもしれないと思って黙っていた。


 目覚めてすぐ、謙人と佑が亡くなったことを知って、海渡は大声で泣いて暴れた。傷口が開く恐れがあったので、紅音は彼を抱きしめながら落ち着くまで優しい声で励ましてくれた。


 しばらく紅音の話に耳を傾けていると、病室の扉がノックされた。



 「誰か来たみたいね」



 紅音が扉をゆっくりと開けると、「お疲れ様です」と姿勢を正してさらに扉を開けて道を作った。


 現れたのは、三十歳ほどのスーツを着た男性だった。革靴は歩き回ったためかくたびれており、ネクタイも曲がっている。



 「二永海渡くん。はじめまして。立川署の峯山です」



 当時の峯山は立川署の刑事課に所属する所轄の刑事だった。そして、彼は海渡が被害者になった通り魔事件の担当だった。



 「少しだけお話をしたいんだけど、身体は大丈夫かな?」


 「平気」


 「お、強いんだな」


 「犯人は捕まったんでしょ?」


 「ああ、もう逮捕された」



 海渡たちが刺された直後、小学校の教師が刺又で犯人を取り押さえて、そのまま警察に引き渡された。殺人の容疑で送検されて、そのあとは検察の仕事だ。


 もう調べることは何もないはず。



 「手紙を預かってきた」


 「手紙?」



 峯山がテーブルに置いた子供用の小さい封筒には、『おにいちゃんへ』と書かれていて、まだ幼い子供の文字であることがわかった。


 海渡はその封筒を開けると、中から小さな便箋を取り出した。


 そこには、ある女の子からの感謝の言葉が書かれていた。まだ知っている日本語が少ない彼女は、精一杯に言葉を並べて、その気持ちは海渡にしっかりと伝わった。



 『たすけてくれてありがとう』



 それだけで十分だった。


 謙人と佑がしたことは、海渡の決断は、間違っていなかった。尊い命の犠牲で、ひとつの未来が救われたのだ。


 海渡はその手紙を封筒に戻すと、テーブルに置いてため息をついた。



 「君たちのおかげで、ひとりの女の子が助かった。友達のことは残念だったけど、俺は、俺たち警察は、君たちの行動を誇りに思う。だから、海渡くんは謙人くんと佑くんの分も、一生懸命に生きてほしい。きっとふたりも、それを望んでる」


 「そうなのかな」



 峯山が海渡の肩に手をのせて優しく語りかける。



 「ええ、きっとそうよ。私も、お姉ちゃんは私に頑張って生きてって言ってると思ってる。だから、立派な警察官になって、困ってる人を助けたいの」


 「謙人、佑・・・」



 シーツにこぼれ落ちた涙が小さな水玉の染みを作る。


 紅音はまた、海渡を抱きしめて一緒に泣いてくれた。


 僕は、生きていていいのかな。ふたりは、それを望んでくれるのかな。生きていたら、いつかその答えはわかるのかな。




 会議室にひとり残された海渡は過去を顧みてから目を開いた。視界がぼやけて、焦点が合うまで数秒かかった。


 落ち込んでいる場合じゃない。謙人と佑にこんな惨めな姿を見せられない。


 海渡が顔を上げると同時に、少し前に去った紅音が戻ってきた。



 「海渡、やれる?」


 「うん、俺はやれることをやる」



 海渡がいつもの表情を取り戻したことに紅音は微笑んだ。


 気持ちの整理をする時間が必要だっただけで、彼は必ず前に進む。紅音はそう確信していた。



 「柴田くんと咲良ちゃんが、あるマンションの防犯カメラの映像を持ってきた。その映像に犯人が部屋に戻る姿が映ってた。犯人は三○二号室の富田とみた裕也ゆうや、三十六歳、フリーター。捜査員にマンション前を張らせてるけど、今のところ部屋には戻ってない」


 「もう犯人見つけたんだ。さすがだね」



 防犯カメラに人相が映っていたし、目撃証言も多かった。犯人の特定は時間の問題だと思っていたが、事件発生は今朝だ。ここまでの時間は極めて短かった。



 「咲良ちゃんがまたお姉ちゃんを見たらしいのよ。それも、犯人の部屋の前にいたって」



 裕武はふたりきりのときに紅音にそのことを報告した。紅音が夕月の話を知っていることを、咲良にはまだ伝えていない。



 「前回のコンビニに続いてか。気になるね」


 「お姉ちゃんは、犯人を教えてくれてるのかな」


 「わからない。俺も幽霊のことは詳しくないけど、刑事になりたかったのなら、捜査を手伝っているのかもしれないね」


 「咲良ちゃんが羨ましい。私も会いたいな」


 「それは俺も同じだよ。お姉さんなら、謙人と佑と話せるのかな」



 どうせなら、トレースなんかより霊感がほしかった。死者の魂を映す目を持つと、咲良にしかわからない恐怖や苦労があるのだろうが、それでも会いたい人がいる。



 「ごめん、ちょっと電話」



 紅音はスマホに着信した通話を開始した。相手はわからないが、何かしらの手掛かりが見つかったようだ。



 「サイバー班がネットで書き込みを見つけた。犯人の可能性が高くて、まだ犯行を続ける旨のことが書かれてるそうよ。IPアドレスから、ネットカフェで書き込まれたものだと特定した」


 「なんて書いてあったの?」


 「他の悪いやつらも殺すって」


 「悪いやつら、か。富田はまだネットカフェにいるかもしれない。次の犯行は止めないと」


 「ええ。必ず止めましょう」



 海渡と紅音は会議室を飛び出して廊下をエレベーターに向かって走った。


 咲良と裕武はまた外に出たらしい。他の捜査員は犯人の逃走経路を特定したので、マンションの部屋に戻ってからの行動を追っている。



 「犯人は理性が弱ってるかもしれない。もし見つけても、命を最優先で対応してよ」


 「わかってる。周囲の人を巻き込まないように気を付けないと」



 富田裕也、お前は絶対に俺が逮捕する。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る