第3話 帰還

 時折、夢を見る。

 冷え切った暗闇、音さえも死に絶えたその中で、ただ一つ、小さな光が見える。

 太陽のような、あるいは星のようなその黄金の輝きに、彼は惹かれ、知らず知らず手を伸ばす。

 そいつは、笑っていた。暖かく、恐ろしいほど、温かく。

 それは、一体何だったのだろうか?

 今となっては、もう分からない。

 彼の指が、そいつに届くより先に、不意に差し出されたもう一本の手が、そいつを握り潰し、夢を破ってしまったからだ。

 何度も繰り返した、終わり。両足を無明の闇が引きずってゆく恐怖に、彼は叫ぶことしかできないまま、すべては失われてゆく……。



 ――目が覚めると、そこには橙色の光があった。

 からりからりと、埃を散らしながら揺らめくそれは、見慣れた煤色の天井に反射して、辺りを淡い灯りで照らし出している。

 乱雑としたそこには、くすんだガラス瓶とガラクタがところどころに打ち捨てられ、ここに住む者の性格を悪い方向で表していた。


 「よう、やっとお目覚めだな」


 ふと、視界に一人の影が割って入る。


 「……《ジャン・ジャルジャック》?」

 「ご名答。どうやら、頭の方問題なさそうだな」


 夜のような漆黒の体に、古めかしいオーバーコートを羽織った、背の高い将校帽姿の男。

 彼は、その顔を覆う無表情の仮面の下にふふんと小さな笑みをこぼすと、彼の横たわるに、どっかりと腰を下ろす。


 「あれが吹っ飛んだのを見て駆けつけて見れば、言わんこっちゃない。放っておいたら、間違いなく《子供たちガキども》の餌だったな。まあ、礼ならお前さんの相棒に言うことだ」


 その男――ジャン・ジャルジャックは、左手でオーバーコートの埃を払いながら、わざとらしい所作で小さく肩をすくめた。

 真っ黒な外殻が橙色の灯りに照らされて鈍い光沢を放ち、ぎしぎしと音を立てるが、手術台のふちに擦れてざらりと嫌な音を立てた。


 ――《レギオン》。


 人類は、彼らをそう名付けた。

 それは、作り物の体と、作り物の顔に、人間の「中身」を閉じ込めた、呪われた人々。

 いつかの進化の果てにさえ、決して生まれるはずのなかった、許されざる生命。

 ゆえに、今の二人に、人間としての「顔」は残されていない。残っているのは、図形化された、象徴的な無表情の仮面だけであり、それが、彼らに与えられたすべてであった。

 そして、彼は、そんなジャン・ジャルジャックに訝しげな視線を送りつつ、ゆっくりと手術台に身を起こす。

 痛みはない。記憶はだいぶ曖昧なものの、あれだけ負ったはずの無数の傷跡は、どこにも残ってはいなかった。つややかな煤色の外殻はヒビ一つ無く、右腕にぎらめいていたの杭と《眼》は、いまやその輝きを失い、もとの綺麗な状態で上腕部に収まっていた。


 「《バベル》」


 彼は呼んだ。

 すぐに、頭の中にかすかな電子音が走り、ノイズがかった中性的な声が飛び込んでくる。


 「おはよう」


 その声を聞いて、彼はわずかに上を向く。


 「《牡羊アリエス》は?」

 「死んだよ。《オレオール》は、のすべてを焼却した」

 「俺は、どうなった?」

 「どうもこうも、大はしゃぎ。やられた時は、今度こそどうなるかと思ったよ。《ルプス》の再生が保ったのは、本当に幸運だった。ああ、感謝なんかいらないよ。いつものことさ」


 嘲笑うような声で、それは言う。

 彼は、ところどころ欠落した記憶に苦々しいものを感じつつも、自らに起こった出来事について、いくらかの整理を得た。


 「《あれ》は……もう使わない」

 「それは前にも聞いたよ」


 短いやり取りを終えて、彼は再びジャン・ジャルジャックに向き直る。


 「話は終わったか」


 彼よりも先に、その男が口を開いた。


 「気にするな。実は、礼ならもう貰っていてな。それより、《サー・ローガン》がお前さんを呼んでいるぞ」

 「が?」

 「大方、今回の件についてだろうな。ともあれ、俺の仕事はここまでだ。色々と準備があるんでな、時間がない。悪いが、ここらでおいとまさせてもらうよ」


 どこか含みのある言葉を残しつつ、ジャン・ジャルジャックはおもむろに部屋を出てゆく。

 鉄製の扉がガタガタと不愉快な音を立て、不意に舞い込んだ一陣の風が、ドアノブにかかるコートの袖を巻き上げた。


 「しっかりやれよ、《最初の好例ロット・ワン》」


 一瞬の静寂。

 風に巻き上げられたその男の右袖が、ふわりと力なく浮き上がり、そして落ちる。

 《ジャン・ジャルジャック》は「不具」である。そして、その一言は、今の彼にとって、この上もない皮肉でもあった。


 「仕方ないよ。彼は、好例ロットにはなれなかったんだ」


 まるで思考を読んだかのように、バベルは言う。

 そこに、悪意は無い。もちろん、その男にしても。

 しかし、彼の一瞬を支配したその感情は、彼ら、《レギオン》を取り巻く現実の一つであった。


 「行こう。父が呼んでいる」


 大地に、両足をつく。

 天井に揺れる橙色灯りが、小さな部屋の中に大きな黒い影を浮かび上がらせる。

 彼は、ゆっくりと歩き出した。

 一つの《星》の死――それは、この長い夜においては、ごく些細な終わりの一つに過ぎなかった。けれども、それが残した輝きの残滓は、小さな火の粉となり、今、確かにその終わりへと最初の一歩を照らし出したのだった。

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