第2話 プロローグ・星の夜②

 その一瞬は、あまりに長すぎた。

 地を蹴る音とともに、中空へと放り出された彼は、眼下で煌く星の輝きに、ゆっくりと刃を向ける。

 突き出された右腕には、人の腕ほどもある無骨な「杭」が備えられており、その切っ先が、風を切る音とともに容赦なくその脳天を貫く。

 しかし、なおもそれは動かなかった。

 ただじっと、彼が自らを害する瞬間を、試すかのように眺めていた。


 「潰れろ」


 そうして、それは響き渡る。

 夜明けを告げる教会の鐘が、その背中に無数の鈴の音を従えて、突如と夜の静寂を破る。

 それが放つ凄まじい衝撃波は、杭の突き立った星の肉を暴力的なまでに引きちぎり、荒れ切った大地に、風とともに白い粘液を撒き散らした。

 地上へと飛び退いた彼は、それの頭に、大ぶりのクレーターができているのを目にした。

 美しい二本の巻き角は、いまや崩れた土台の上でがたがたと揺れ、さっきまで微動だにしなかった全身は、死にかけの虫のように小刻みに震えていた。

 時間にして、ほんの十秒足らずの出来事。

 それでも、それがいかに危険な冒険であったのかは、荒々しい呼吸の音が鮮明に語っていた。


 「怒ったよ」


 頭の中に、短く声が流れる。

 直後、脳を引っ掻き回すような凄まじい絶叫――金切り声が、周囲のすべての存在に向けて放たれた。

 大地がひっくり返り、土煙が上がる。視界は一瞬で失われ、時折自壊してゆく岩石の破片が、わずかに視野の端を横切るばかりとなった。

 彼は、反射的に右腕の杭を盾にする。

 すると、それは主人の命令を待つまでもなく、速やかにを試みる。

 地形さえ崩壊させる竜の絶叫に、教会の鐘の音が割って入ると、両者は死の悲鳴を上げる大気どもの間で、壮絶な格闘を始める。

 そのヒステリックな破壊のぶつかり合いは、やがて拮抗し、彼の周辺に、半円状のを生じせしめた。


 《水面サーフェス》と、彼らは言う。


 実際、純白から黄金へと、めくるめく輝く大気が無数の波紋を打って揺らめく様は、さながら水中から見上げる水面の光のようであった。

 とはいえ、それはあまりにも近い。

 目と鼻の先で、今にも潰れてしまいそうなその水面は、両者の力の差を残酷に表していた。

 彼は、水面を抜けてくる衝撃の痛みに耐える。両足のスパイクが弾け、無表情の仮面にもヒビが入るが、それでもこらえてじっと待つ。

 そうして、ついに絶叫の攻勢が止むと、彼は速やかに、右腕の杭を右へと振るった。

 対手の失せたそれは、土煙とともに大気をなぎ払い、彼の視線の先に、そのの姿を露にする。


 「人は、決して《竜》には届かない」


 そう言わせしめる光景が、そこにはあった。

 星のような純白の煌めきは、いつしか血のような赤黒い鈍光へと変わり、そいつの全身に、血管のように浮き上がっていた。

 毛皮のような触手は、明らかな敵意を持って逆立ち、地平線に、無数の怪物の影の如く立ち上っている。

 そして、何より、先ほど引きちぎられたはずの頭部が、まるで何事もなかったかのように、憤怒に満ちた一つ目とともに、彼の小躯を見下ろしていたのであった。


 「《ルプス》……解放、スラスター展開」


 その呟きとともに、彼は再び右腕のレバーを引く。

 鈍い金属音がして、杭の内側で何かが蠢いた。

 両目から、光が消える。代わりに、ガコンという音とともに、焼けるような熱を帯び始める右腕の杭に、その幾倍もの輝きを放つ人ならざる一つの《眼》が現れる。

 意識が、曖昧になってゆく。全身から痛みが消え、不自然な圧力感に力む真っ黒な両足から、恐ろしいほどの暴力的な躍動が立ち上ってくる。

 最後に、恐怖と興奮が入り混じった感情のはざまから一切の恐怖が消え失せると、彼は光の失せた仮面の下に、うっすらと悪意ある笑みが浮かぶのを感じた。


 ――からん。


 不意に、乾いた音が荒野に響く。

 見れば、彼の左大腿部に空いた小さな縦穴から、細長いガラスの小瓶が一つ、体外へと吐き出されていた。

 そして、その縦穴が自らの口を閉じるのと同時に、彼の背中から肩にかけての外殻が擦過音とともに蠢き、その内側から、バーナーのような噴射口を備えた二つの円筒が露出する。


 「結局、こうなる」


 彼は、低い微笑とともに、のっそりと空を見上げる。

 しかし、竜は、そんな隙を見逃してはくれなかった。

 彼の視線が動くより先に、それの蹄が猛然と大地を踏みしだく。その重圧は、荒野に小規模なクレーターを穿ち、彼の体は、その真っ暗な影の下へと消える。

 さらに、それでもまだ飽き足りないというのか、それは何度も、何度も、何度も何度も踏んで踏んで踏みつける。

 そうしてようやく、その憤怒が収まりを見せる頃には、すでに大地にはが残されていた。


 「つかんだ」


 踏み潰した。確かにその感覚はあった。

 しかしながら、それからの感覚の違いに気づくには、そいつの知性はやや鈍重に過ぎた。


 「ア……アアッ……アアアアアアアアアアッ!!」


 金属を打ち鳴らすような耳障りな絶叫、それが聞こえると同時に、それは自らの背中に激しい苦痛が走るのを知る。

 一際輝く、蜉蝣のような一対の薄翼。あろうことか、竜の背中には、その片割れを引きちぎりながら狂喜の叫びを上げる、おぞましい《獣》の姿があった。


 「ふ……はあ……はっ……ははははははっ――!」


 噴き出す体液にまみれながら、そして潰れた外殻から漏れ出る自らの血にまみれながら、息も絶え絶えに、彼は叫ぶ。

 聞けば、彼の右腕から発せられる音は、いつからか澄んだ鐘の音ではなく、死の舞踏を演出する乱痴気地味た和音の連打――いや、狼の咆哮へと変わっていた。


 「つぎ……グアアアアッ!」


 杭を突き刺し、抜いて、また突き刺す。

 ざくざくと切っ先が風を切るたび、狂ったピアノの音が、赤黒い星の肉を引きちぎって撒き散らす。

 その容赦ない滅多刺しは、瞬く間にもう一枚の翼をもぎ取り、無邪気に笑う彼の左手を飾る。

 そして、その無残にも穿たれた傷口の奥では、竜の内側で最も尊ぶべき純白の「心臓」が、宝石の如き半結晶状の美しい被膜に包まれて、その輝ける赤血の脈とともに妖しい鼓動を放っていた。

 彼は、喜々としてそれに杭を突き立てる。打ち捨てられた翼が大地へと落ち、悲鳴を上げる純白の輝きが、甲高い音とともに弾け、漆黒の天上に、真っ赤な血しぶきが舞った。


 「はは、はははははははは……」


 竜が、動きを止める。

 同時に彼も何かを喪失したかのような様子で、ぐったりと肩を落とす。

 さっきまで喚きちらしていたピアノの音は、もう聞こえなかった。

 死んだ。いや、死んでしまったのか。混沌とする頭の中で、彼は様々な感情が行き交うのを感じていた。

 だが、それでも――


 「人は、決して《竜》には届かない」


 直後、突如として竜の全身に白い光が溢れる。

 それは天上の《雲》から生じ、まるで水瓶から注ぐが如く、竜の背中へとゆっくりと注ぎ込まれてゆく。

 状況は、一瞬にしてひっくり返った。

 その一つ目に、再び溢れんばかりの活力を取り戻したそれは、並々ならぬ唸り声とともに、彼に反撃の刃を突き立てる。

 全身を、無数の触手が貫く。轢かれたガマのような呻き声が上がり、彼のすべてから、一瞬にして力が失われる。

 死闘は、あっけなく終焉を迎えた。それは、軽々と彼の体を宙に放り投げると、ほどなく、美しい巻き角の一本を、小さな黒い冠で飾る。

 狂ったとて、人は竜には届かない。それは、宇宙の摂理であった。

 そう――《それ》さえいなければ。


 「スラスター強制起動」


 意志なき脳髄に、声が響く。

 直後、彼の背中から炎が上がる。そのエネルギーは、巻き角にぶら下がる主をコマのように回しながら引き剥がすと、まるで爆風の如き速度で、その体を彼方へと吹き飛ばす。

 一瞬の出来事に、竜の注意が奪われた。

 そして、それの蹄が一歩踏み出されたのを見て、《それ》は、《人》の勝利を宣言するのだった。


 「《オレオール》――発射」


 その煌きは、夜のすべて塗りつぶした。

 雲よりも遥か天上から発せられたその一条の光は、雲海に黄金の「輪」を顕し、真っ直ぐに竜の心臓を撃ち貫く。

 その熱と衝撃は、手負いの竜の肉体を一瞬のうちに焼き尽くし、それが自らの死を意識するより先に、それのすべてを消し去っていた。


 「完了。お疲れ様、相棒」

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