世間も義姉もオレに甘すぎる!

五味零

第1話 義姉にとって男は2種類しかない。オレかオレ以外か。

オレは息を切らしながら、家の中で唯一、1日中日の当たらない薄暗い和室へと逃げ込んだ。生憎、今は父も義母も出かけていて、家には24歳の義姉とその6つ年下のオレしかいない。


「はぁはぁ……ちくしょっ、なんでこんなことに……っ」


アゴにしたたっていた冷たい汗が首筋を伝い流れる。

部屋の隅に置かれた義母の化粧台の鏡に映るオレの手は、真っ赤に染まっていた。


「はーちゃーん、どこー?」


廊下に面している障子に、オレを探してさまよう髪の長い女の影が現れる。その女はオレのかすかな呼吸音にさえ敏感で、オレはすかさず息を止めた。


「ごめんてばぁー。わたしったら、はーちゃんに厳しすぎたよね。ケチャップ口に付いてたくらいでうるさく言い過ぎた。もう二度と拭けだなんて注意しないからぁ。出てきてぇよぉ」


その的外れな弁解に、オレは突っ込まずにはいられなかった。障子を開け放ち、足を大きく開いて廊下のど真ん中に立った。


「ちっげぇーよ、逆だよ逆! オレのこと甘やかしすぎなんだよ! もう二度とケチャップ口に付いてたくらいで拭こうとすんなっ」


「はーちゃん! 出てきてくれたのね!」


「そんなボケかまされたら出てくるわっ てかオレの話を聞けっ」


この女こそ、オレの義姉である。

実の母はオレが生まれて間もなく亡くなり、その8年後、父親はいまの義母と再婚した。そのときの連れ子が義姉、楓《かえで》だ。


で、その義姉は、今朝食べたピザトーストのケチャップがオレの口に付いているのを見て、「もう!ダメでしょぉー」とか言いながらノリノリで拭こうとしてきたのだ。


義姉に拭かれる前に雑に口を拭ったため、オレの手には真っ赤なケチャップが付着しているのである。


「ほら、まだ付いてるってばあ!」


ティッシュ片手にオレを追いかけて来た義姉は、オレの言葉などまるで無視して、拭き残っているケチャップ目がけて近付いてくる。


「やめろっ 近寄んなっ」


「そんなに照れなくてもいいのにぃ」


本気の拒絶も義姉には通用しない。


間合いを詰めてきた義姉の首筋からは甘い香りが漂い、オレの鼻腔をくすぐる。

頭1個分背の低いその華奢な体を見下ろせば、胸元の大きく開いたブラウスから惜しみなく谷間が覗いているではないか。


(く……っ 屈してたまるかっ)


毎度のこもながら、本能と理性の狭間でもがき苦しむ。


エステティシャンをしている義姉の肌は、職業に恥じなく、つやつやの美肌だ。近距離で見ても毛穴もシミもない。おまけに肩から垂れる髪の毛もサラサラ。


「じっとしててね」


義姉の囁き声には昔から不思議な力があり、体を1ミリも動かせなくなってしまう。


義姉の手が頬に触れる。

オレは苦し紛れに目を閉じた。


「ほら、もうきれいになったよ。これで学校行ってよしっ」


「あ、ありがとう」


オレはぶっきらぼうに言って義姉の手を振り払い、顔を逸らした。


まあまあ年の差があるために幼い頃はそれなりに世話になった。そのおかげでここまで成長したのだと思うと、義姉の明らかなありがた迷惑を完全には拒否できずにいた。


もどかしくて、なんだか気持ち悪い。


こんなぬるま湯ひたひたな生活を受け入れてしまったら、オレはぜったいダメになる。自立すれば、この漠然とした将来への不安もどうにかなるもんだと思っていた。


「楓さーん、おはようございますっ」


ニコニコしている義姉と向かい合ったままでいるところへ、昔からの友人である三神薫みかみかおるがいつものことながら唐突に姿を現す。


「おまっ また勝手に上がってきやがってっ」


この家は由緒正しき寺であり、広々とした日本家屋だ。木造で、初夏が近い今のような暖かい季節には風通しがよければ、こんなふうに人の通りも自由だった。


「だっておまえんち、防犯ザルなんだもん」


語尾に大量の草を生やし、薫はバカにした顔で言う。


そんな薫を一言で表すなら、女たらしのカスである。もっと罵ってもいいくらいには、女性方に数々の無礼を働いてきた。


「おはよう、薫くん。今日もはーちゃんのお迎えご苦労さま」


義姉はケチャップの付いたティッシュを丸めながら、棒読みで言う。ついでにオレに見せていた笑顔は消え、死んだ目をしている。


「いえいえ、お易い御用です。楓さんにも会えるんで」


女たらしのカスは、息をするように女子の喜びそうなセリフを吐いた。


しかし、うちの義姉にはまったく効果がない。


その理由はひとつだ。義姉の目に映る男は2種類しかいない。オレかオレ以外か。つまりは、そういうことなのだ。

カスがカスに成り下がったのは、これが原因なんじゃないかと、オレは踏んでいる。


薫は昔から義姉のことを気にしていた。

本人に直接聞いたことはないが、それはおそらく恋心の類。


義姉と薫を初めて会わせた日、薫の顔つきが変わったのを覚えている。なんていうか、雷が落ちたような衝撃的な様子だった。


そして、女たらしに変わったのも、ちょうどこの頃からだ。


「そういや、疾風はやて。おまえが欲しがってマンガ、全巻買ってきたぜ」


随分とデカい紙袋を持っているなぁとは思っていたが、まさか昨日の今日で入手してくるとは。しかも全巻。


「え、マジで!? 最新巻とか、人気すぎて品薄状態ってネットニュースで見たけどっ」


「俺の手にかかれば、このくらい朝飯前よ。ほら、これやるよ」


カスはカスでも、女絡みでなければけっこういいところもあったりする。


「めっちゃ嬉しいんだけど! ありがとう!」


オレは薫の手からマンガの入った紙袋を受け取った。ずしっとした重みがまたいい。電子書籍が流行るなか、オレはやっぱり紙派だ。


紙袋を覗き込んでほくほくしながら、オレは重要なことに気が付いた。


(あ、甘やかされている……!!!!!)


「前から思ってたけど、おまえもオレに甘すぎ!」


マンガはしっかり受けとっておいて、オレは薫に物申す。


「は? 別に、フツーだけど」


「フツーのヤツは昨日の今日でマンガ全巻くれたりしねぇからぁっ!!」


「そんな気にすんなって! 好きでやってんだから。あと、担任から言伝。疾風の赤点揉み消したから補習は無しだって」


「担任もあめぇえぇえええええ!!! いや、知ってたけど! 担任がオレに甘いのは今に始まったことじゃねえけど!」


周りにいるヤツらが甘すぎて胸焼けがした。


「ほら、はーちゃん、遅刻するよ!」


「そうだ、行こうぜ疾風っ」


薫に肩を組まれ、義姉に手を振られ、オレは家を出た。


「はあぁぁ、厳しくされてえーよぉー」


学校までの通学路を歩きながら、オレはぼやく。紙袋いっぱいのマンガは、出かける際に義姉が「本棚に並べとくね」と預かってくれた。


朝から甘やかされすぎてピザトーストを戻しそうになっていたオレは、ただ頷き、マンガを託した。


「変なヤツだな。楓さんに甘やかされるとか最高じゃん」


隣を歩いていた薫はおしゃれパーマの髪を整えながら、自分のことを棚に上げて言う。

オレとしては義姉に限らず、全ての人間に対しての願いだったのだが。


「分かってないな、薫は。生まれてからずーっと甘やかされて育ってみろ。厳しくされたくもなるぞ」


「はぁ、羨ましさしかないけど。そんなに厳しくされたいんなら、楓さんが怒るようなことをしてみれば?」


「怒るようなこと?」


「楓さん優しいから、ちょっとしたことでは怒りの沸点に達しないんだろ。で、楓さん基準では疾風はまだまだいい子だから、厳しくする必要がないってことなんじゃね?」


「なーるほどー」


薫の持論には妙な説得力があった。胸のつっかえがすっと通るような気がした。


「やってみる価値はありそうだ」


オレは顎に手を当て、義姉が怒りそうなイタズラをいくつか思い浮かべる。


その他のヤツらの甘やかしも気になるところだが、まず手始めに義姉で厳しくされるコツを掴むのもいいかもしれない。


今日学校から帰ったら、さっそく義姉に仕掛けてみよう。

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