第48話 エテルオ孤児院の引っ越し
朝。エテルオ孤児院を、湖からの霧が薄く包み込む。
まだ太陽が昇って間もない時間帯だ。
この日、孤児院の前庭は朝から賑やかだった。
幌付きの大きくて立派な荷馬車が二台、並んで停まっている。そこへ、孤児院の子どもたちが分乗していく。
「ねむいよぉ」
「ほらしっかり。荷台から落ちないようにね」
朝早くて愚図る年少の子どもたちを、年上の子があやしながら荷馬車に乗せる。
エテルオ孤児院長リェダは、その様子を静かに見守っていた。彼の補佐をするティアロナは、今は年長の子に混じって作業をしている。日用品、身の回りの荷物を荷台に積み込んでいるのだ。
リェダは孤児院の建物を振り返る。
もう中には誰も残っていない。全員があの荷馬車に乗り込む手はずだ。
――エテルオ孤児院を移転する。
リェダとティアロナ、そして賢者エルが出した結論だった。
この立派な荷馬車は、エルが個人的な
すでに塞いだとはいえ、孤児院からそう離れていない場所に複数の接穴が出現したのは非常に問題だ。世話になった恩師や後輩たちが危険に晒されるのは心配でならない。だから安全な場所まで避難させたいと思っている。大きな街であれば、孤児院の人手不足も併せて解消できるかもしれない――。
エルはそう説得し、周囲の援助を引き出したそうだ。
普段の彼女を知る者たちは、いつもと違って積極的な賢者の言葉に驚き、そして大いに共感したという。
ちなみに、エルたちとは移転先で合流することになっている。今はここにいない。
「うわあああん!」
突然、荷馬車から泣き声がした。リェダは小走りにそちらへ向かう。
荷台の中で、年少の男の子が泣いていた。周りでは年長の子たちが困ったようにリェダを見る。
「おうちなくなるの、嫌だああ!」
「大丈夫だ。家がなくなるわけじゃない。少しお出かけするだけだ。皆、一緒にいる」
リェダは泣く男の子の頭を撫でながら、いつもどおりの口調で諭す。移転を決め、それを皆に伝えてから何度も繰り返したやり取りである。リェダは根気強く諭し続けた。
ようやく男の子が泣き止んだころ、ティアロナがやってくる。
「院長。準備が整いました」
「わかった」
リェダはうなずく。ティアロナもまた、いつもどおりの態度を崩していない。
移転を決めてからというもの、子どもたちに説明を尽くしながら、普段どおりの態度を崩さなかったリェダとティアロナ。そんな大人たちの態度を見て、少しずつ、子どもたちも移転の衝撃から落ち着きを取り戻していた。
御者と軽く話をした後、リェダは最後のひとりとして荷台の後方に乗り込んだ。
荷馬車がゆっくりと進み出す。
徐々に離れていく建物を見つめながら、リェダは心の中で恩師に頭を下げた。
――あれから二週間。
魔王の襲来、それに伴う
荷馬車に揺られ、子どもたちと他愛ない会話をしながら、リェダは『これまで』と『これから』のことを考える。
元魔王が人間世界に召喚されて五年。恩師エテルオが遺した『宝玉』と魔法の効果は失われようとしている。リェダをこの世界に留め置く力が完全に消えたとき、リェダは強制的に魔界へ送還される。
本来の力を取り戻した魔王リェダが、接穴を通れる可能性は極めて低い。
つまり、一度送還されればリェダはもう孤児院には戻ってこられない。
リェダが魔界に送られるならば、ティアロナも後を追うだろう。
ゆえに、リェダなき後のエテルオ孤児院、そこで暮らしている子どもたちを託す先を早急に確保しなければならない。
そんな折の接穴発生と魔王の襲来である。
これはリェダたちに決断を促すきっかけになった。
リェダとティアロナがいる限り、たいていの魔族は撃退できる。
だが、これから先はそうはいかない。
リェダたちは、一度エテルオ孤児院を離れる決断を下した。表向きは安全確保のため。真意は次なる孤児院の担い手を見つけるためである。行動に移すときだった。
向かうのは、ナタースタ王国西の要衝、リツァルである。あの勇者フラーネが現在の拠点とする大都市だ。
湖と林に囲まれた静かで美しい場所も悪くないが、都市は都市だからこその利便性がある。治安の良さ。物資の手に入りやすさ。医療体制が整っているのも、小さな子どもを抱える孤児院としてはありがたい。
リツァルではすでに、移転先の建物が用意されている。エルから相談を受けたフラーネが、特任自由騎士の権限と人脈を存分に使ったという。事前にリェダは見取り図を見せてもらっていたが、あまりに立派な建物に閉口したほどだ。
ちなみに、フラーネは移転にあたって『先生さんが院長で、私が副院長やります』とにこやかに語っていたそうだ。エルから相談を受けて以来、色々と想像を膨らませていたらしい。
すべての準備が整うまで二週間。尽力してくれた彼女らには感謝の言葉もないとリェダは思っている。
今後はリツァルに孤児院を移し、新しい生活が始まる。
フラーネとエルはエテルオ孤児院を引き継ぐと約束してくれたが、さすがにふたりともそれぞれの立場があって忙しい。年がら年中、孤児院に詰めていることはできないだろう。
リェダの代わりとなる新しい院長が見つかるまで、彼は子どもたちの世話を続けていくつもりだった。
「せんせー。後ろばっかり見てどうしたの?」
「いや、何でもない。景色を覚えておこうと思っただけだ」
物思いにふける時間が長かったらしい。子どもたちの疑問にリェダは小さく微笑んで返した。
もうエテルオ孤児院の姿は見えない。
孤児院の建物はそのまま残す。思い出の場所を更地にする気概は、今のリェダにはなかった。魔界にいたころと比べてずいぶん変わったなと、彼は自分で思う。
建物自体は、賢者エルが『買い取り』の形で管理することになっている。何でも、落ち着いたら個人用の研究室として使いたいらしい。リェダは了承していた。
恩師から受け継いだ建物を手放すことに、抵抗がなかったわけではない。
無人になった孤児院を、エテルオは寂しく思うかもしれない。
だが――そこを『墓』と考えるなら、悪くない。エテルオだけでなく、魔王リェダ自身の墓。
リェダには【無限充填】にストックされた転移魔法がある。エテルオ孤児院の近く、ちょうどリェダがエテルオによって召喚された場所を転移先として設定している。いざとなれば、そこまで一瞬で移動できるのだ。
エテルオが逝ったその場所で、大事な思い出を供花に、人間世界での生を終えることができたなら。
悪くない。
「せんせー?」
また年少の子が首を傾げて声をかけてくる。
リェダは微笑んだまま、その子の頭を撫でた。
荷馬車は頑丈で、馬の足も力強い。今まで見てきたものよりずっと速く、ずっとスムーズにリェダたちを目的地へと連れていく。
正午の少し前。
街道を何事もなく進んでいた荷馬車の前に、大都市リツァルの偉容が見えてきた。
「うわーっ!!」
「すごーい!!」
年少の子も、年長の子も、身を乗り出して歓声を上げる。御者台にまで出てきそうな勢いの彼らを、リェダは無言で馬車の中に引き戻した。もう一台の荷馬車では、きっとティアロナが子どもたちを叱っているところだろう。
リツァルは西の要衝だけあって、『要塞』と言えるような外観をしていた。
とにかく大きい。
街全体を高く分厚い外壁が覆っている。至る所に監視塔があり、侵入者を見逃さず、また近づけさせない。
街の周囲には、複数の街道に沿って詰め所がいくつも設置されていた。おそらく、有事の際は街周辺が巨大な拠点となるのだろう。
どこか魔界の城と似ているなとリェダは考え、すぐに思い直して自らの頭を小突いた。
不意に、後続の荷馬車から泣き声が聞こえてきた。
見ると、孤児院を出るときに泣いていた男の子がまた声を上げている。ティアロナが背中を撫でながらあやしていた。
「あー、きっと怖くなっちゃったんだねぇ。あんだけ大きくて強そうな街を見てさ」
隣に来た年長の子が言った。
リェダは目を細めた。
孤児院の子が泣いている姿を見て、ある疑念が湧いてくる。
――我がしたことは、単なる自己満足だったのではないか?
「リートゥラお姉ちゃんがいたら、もっと落ち着いてたかもね、あの子。お姉ちゃんにすごく懐いてたからさ。――あれ、先生?」
「……ああ、いや。そうだな。けどリートゥラにはリートゥラの暮らしがあるだろう。さ、いよいよリツァルだ。降りる準備をしよう。体調を崩した子はいないか?」
疑念を腹の奥に押し込め、リェダは男の子から視線を外した。
それから荷馬車は、巨大な正門を通ってリツァルの街へと入る。
道が広い。そして人が、馬車が多い。ブロンストより遙かに賑わっていた。
驚くべきことに、これでも目抜き通りではないらしい。街一番の大通りならば、どれほどたくさんの人が行き交っているのだろうか。
リェダもかつては巨大な城に住んでいたが、活気とは無縁だった。子どもたちと顔を並べ、建物の大きさや人々の装いに目を丸くする。その様子に、近くで見ていた御者が思わず小さく笑ったほどだ。
人々が活発に動く日中。空から降り注ぐ陽光もまぶしいが、地上の人々はそれに負けず劣らず輝いているようにリェダには見えた。そして、魔王だったころにすべての魔族が風景に見えていたことを思い出し、心にぬるま湯をかけられた気分になった。
荷馬車はゆっくりと石畳の道を進む。馬の蹄と、補強された車輪が道を叩く音が新鮮に聞こえる。規則正しい音が心地よくなったのか、うつらうつらと船を漕ぐ子も現れた。確かに、今朝は出発が早かったとリェダは思う。
やがて、人の波が少しずつ引いていき、辺りは閑静な住宅地に変わっていった。荷馬車が通れるほど道幅を確保されている。一軒一軒の民家に、小さいながら庭が付いていた。
新天地、である。
もうすぐですよ、と御者が言った。言葉どおり、正面突き当たりに大きな建物が見えてきた。旧エテルオ孤児院の建物もそれなりの規模だったが、こちらはさらに敷地が広く、しかも三階建てだった。
絵本のお屋敷みたい……と子どもたちの誰かがつぶやいた。
「あ、エルおねーちゃんだ」
子どもたちが手を振る。屋敷の門前に黒髪の女性が待っていた。赤と青の賢者ローブではなく、今日も地味な服装である。
荷馬車二台、建物に並んで横付けする。
エルがリェダの元まで来る。
「お疲れさま、パパ」
「ああ。エルもお疲――」
言い終わらないうちに、子どもたちが歓声を上げながら荷馬車から飛び降りる。足の速い男の子連中は、自分の身長の倍はあろうかという扉の前で飛び跳ねる。
「せんせー! 開かなーい!」
リェダはため息をついた。まだ鍵を渡されていないのだ。
目を丸くするエルに、言う。
「すまん。少し手伝ってくれ。とりあえずあの子たちを落ち着かせる」
「子どもの元気、むりやばい」
いつもの口癖で応えるエルから、鍵を受け取る。
はしゃぐ子。屋敷の細かな装飾に目を輝かせる子。また怖くなって愚図り出す子。
屋敷に入った子どもたちの反応は様々だった。
玄関ホールで、エルが説明する。
「ここは昔、お金持ちが迎賓館として建てた。その人が王都に移ってから使われなくなってそのままだったらしい」
「よくそんな物件が手に入ったな」
「そのお金持ちの人、フラ姉のファンなんだって。ほとんど無料で譲ってくれた。お布施って聞いてる。……あ、パパ信じてないでしょ。有名なんだよ、フラ姉。あれでも」
「話には聞いていたが」
こうして実際の影響力を見せつけられると、本当に偉くなったものだとリェダは感心する。
ちなみに
「前の孤児院より部屋数増えてるから、大きな子は個室にしてあげるといいかも。パパ用の書斎は二階。キッチンは一階で、食料庫が地下にあるよ。主だった調度類は一通り揃っているから、あとは荷馬車に積んできたのを降ろすだけ」
「至れり尽くせりだな……」
「この区画ではランドマーク的な建物だから、郵便物なんかも届きやすいよ。言えば定期的に集配してくれるはず」
「これが都市か……」
「それから」
周囲に子どもたちがいないことを確認し、エルが声を潜めた。
「前の持ち主さんの意向なんだろうけど、一階の応接間と二階の書斎は特別壁が厚く作られていて、防音性が高くなってる。内緒話をしても、まず外に漏れることはないよ」
「――なるほど」
「ついでに魔法で万全にしとく?」
そっと人形を取り出しながら上目遣いにたずねる教え子に、リェダは首を横に振って応えた。
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