第46話 魔王と賢者の今後の方針


 遮るものがなくなった岩場に、ささやかな風が吹き抜ける。岩の凹凸で反響し、か細い笛の音のような調べを奏でた。


 リェダが説明を進めるうち、エルの表情から輝きが失われていった。今、彼女はうつむいて表情もわからなくなっている。

 教え子の少女はぽつりと言った。


「じゃあ、パパが孤児院を継いで欲しいって言ったのは」

「ああ。我がいなくなる前に、子どもたちの未来を護りたかった。エテルオ先生の遺言でもあるからな。何としても成し遂げたかったのだ」


 エルは「そう……」と沈んだ声でつぶやいた。

 リェダは一呼吸置くと、教え子の名を呼んだ。わずかに顔を上げた彼女に向けて、元魔王は深々と頭を下げる。


「今まで騙していて、すまなかった。お前にも、フラーネにも、孤児院の皆にも」

「……」

「先も言ったが、お前たちにも立場があろう。お前たちが望むなら、この首差し出しても構わん。その覚悟はできている」

「むりやばい……」

「本当にすまない」

「パパ、どうして今まで黙っていたの」


 すべてを知った今でも『パパ』と呼んでくれることに目を細めながら、リェダは淀みなく答えた。


「孤児院の子どもたちと、巣立ったお前たちを護るためだ。『魔族に育てられた子』が、人間世界でどのような扱いを受けるかは想像に難くない。ただでさえ、お前たちは血縁者との関係が希薄なのだ。拠り所をなくす真似はしたくなかった」

「やっぱり、そうなんだ」


 何が『やっぱり』なのか、リェダにはわからない。

 教え子との間に降りた空気の重さに、リェダは今度こそ、罵倒を浴びる覚悟を決めた。

 事実、顔を上げたエルは、今日一番、感情が伺えなかった。激情を内に秘めた無表情。単なる怒り顔よりも、むしろずっと深い。


 賢者の人形に魔力が込められる。

 リェダは目を閉じた。全身の緊張を解き、完全な無防備になる。


 ――これは、形を変えた『親離れ』だ。

 静かで、穏やかな気持ちでそのときを待つリェダ。

 エルの人形がまとう魔力が、近づく。


「……?」


 奇妙な感触に、リェダは眉をひそめ目を開けた。

 エルの人形が鼻先に浮遊し、元魔王の鼻をその柔らかな両腕でつまんでいたのだ。

 それから、申し訳程度の力でリェダの頬を人形がはたく。何度もはたく。ぺちん、という音もしなかった。


 エルは昔から、苦手な感情表現を人形に託す。他ならぬリェダがそれを勧めた。

 今、エルの意志と感情を受けた人形は、興奮した様子でリェダの周りを飛び回っていた。


「……エル?」

「む・り・や・ば・い!!」


 とても力強い『むりやばい』を頂いた。

 リェダは躊躇いがちに、聞く。


「怒って……いるんだよな?」

「怒ってるよ。だって、黙ってたんだもの。もうすぐいなくなるって」

「そっちに……怒っているのか?」

「もちろんです」


 断言された。さらに賢者エルは言い放った。


「私にとって、パパが魔王だったのは些末な問題」

「些末……なのか?」

「です。だって、パパは今も昔も変わらないパパだったんだもの。孤児院の皆や、フラ姉や、私のことを大事にしてくれるパパ。魔王だって聞いても評価は変わりません。もちろん、ししょーも」


 心なしか普段と口調が違う。

 元魔王が圧倒されていると、エルは表情を緩めた。感情表現する人形も、彼女の手の中に収まり大人しくなる。


「パパ。私はパパにとても感謝している。それは忘れないで。絶対に」

「エル……」


 不思議な感覚に襲われた。

 胸の奥が大きく揺れ動くような、足下が覚束なくなるような、意識がどこかへ飛んでいってしまいそうな。

 かつて、闇の檻で孤独に押し潰されたリェダ。そのときに求めていた孤独に抗うための答えを、今、見つけたような気がした。


「だからね」


 賢者であり教え子のエルが言葉を継ぐ。


「私、決めた。パパは、この私が何としてでもこの世界に留まらせる。それが私の、パパへの恩返しになるんだ」

「エル。しかし、それは」

「もう決めた。決めたったら決めた」


 真顔で駄々をこねる。エルには珍しいことだった。

 それだけ決意が固いことは、不本意ながら、リェダにはよくわかった。


「私、パパがこれからも皆と一緒にいられるように頑張る。誰にも邪魔をさせない。だから、任せて。王国にも、フラ姉にも、パパに手を出させない」

「エル、落ち着け。自分が何を言っているか、わかっているのか。それはお前までフラーネを騙すことになるんだぞ」

「フラ姉は魔族全体を憎んでいる。けど、パパのことは心から信じている。だからフラ姉の心を護るためにも、秘密にしなきゃ」


 リェダは言葉に詰まった。

 賢者はたたみかける。


「私、言ったよね。人間世界に適応した魔族は他にいるって。私は王国から認められた賢者。彼らの情報に接し、調査できる資格がある。私を使って。パパ」

「むう……」

「フラ姉にバレたら駄目。けど、フラ姉だってパパがいなくなったら悲しむ――ううん、再起不能になる。きっと勇者も辞めちゃうと思う」


 これは王国に籍を置く賢者として、勇者を確保するために必要な活動である――と、エルは説得してきた。


「私はパパに付く。フラ姉のことは大好きだけど、万が一……百万が一にフラ姉がパパの討伐に乗り出したりしたら……王国の双璧がぶつかり合うことになる」

「それは……非常に困る」

「私もそれは本当にむりやばい。だから、全力で回避するために動こうよ。パパ」


 そう告げるエルは、かつて孤児院にいたときの陰鬱さがまったく消えていた。

 正しく、『百年に一度の天才賢者』の矜持と実力を持った、大人の女性だった。

 リェダは自然な仕草で、教え子の頭を撫でた。無意識だった。


「大きくなったな。エル」

「むりやばい。けどもうちょっとお願い」


 元魔王は苦笑した。大人の賢者としてのたくましさと、孤児院の教え子としての甘えが同居している。

 本当に、子どもたちと接していると飽きない。

 孤児院長リェダとして生きてきた年数は、無駄じゃなかった。


「わかった。やれるだけやってみよう」


 リェダはうなずく。エルの表情は大きく変わらない。ただ、手の中の人形が文字通り小躍りしていた。


 それからリェダとエルは、一度孤児院へ戻ることにした。そろそろ移動しないと日が暮れてしまう。それに、これだけ派手に山を吹き飛ばしてしまったのだ。ブロンスト辺りに駐在している騎士に目撃されて、様子を見た彼らと鉢合わせになるのはまずい。

 周囲を警戒しつつ森の中を歩く。その間、ふたりは今後の方針について話し合った。


「じゃあパパ。とりあえずの目標はみっつだね。『他の人たち、特にフラ姉にパパの正体がバレないようにする』、『エテルオ孤児院を正式に引き継ぐ』。それと――『パパの身体をじっくり調べる』」

「……人間世界に留まるための方法を調べるんじゃなかったのか?」

「そうとも言う」


 エルの人形がぴこぴこと腕を動かす。ご機嫌だった。


「一番いいのはパパに王都の研究室まで来てもらうことだけど……さすがに移動が大変だし、王国への説明も大変そう。その間、エテルオ孤児院を放っておくわけにもいかないし」

「だから『リツァル』――か」

「うん。あそこは王国の西の要衝で、施設も充実している。治安もいい。私の顔も利くし、次の孤児院に使える物件も探しやすいと思う。賢者が長期滞在しても、まあ、許容範囲じゃないかな」


 確かに、悪い話ではない。

 リツァルなら孤児院から馬車を出せば一日とかからないだろう。その気になれば、ブロンストにいるリートゥラとも連絡が取れる。孤児院を出たばかりの彼女にとっても安心だろう。


 それに、撃退したとはいえ複数の魔族が孤児院の近くに出現したのだ。『宝玉』だってあとどのくらい周辺に眠っているのかわからない。子どもたちの安全を考えて、孤児院ごと移転するのは妥当だとリェダは考えた。


 無論、今のエテルオ孤児院は残すつもりである。あそこにはエテルオの墓がある。この世界に生きている限り、リェダは墓の世話は続けるつもりだった。


「パパには何としても、孤児院の先生を続けてもらうからね」

「頼りにしてる」

「ん。だからパパも簡単に諦めないで」

「ああ。わかってる」


 リェダはうなずいた。実際、これほど心強いことはなかった。


「懸念点があるとすれば」


 エルが言う。


「人がたくさんいるから偽装魔法の管理をしっかりしなきゃいけないこと。それと、フラ姉がリツァルを拠点にしていること」


 元魔王を見上げた。


「気をつけてねパパ。フラ姉のことだから、近所に住み始めたと知ったらきっと入りびたる。その間にパパやししょーのことがバレたら――むりやばい、だよ」


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