深海バス

澄田ゆきこ

本編

 深海を潜っていくバスをご存じだろうか。

 私は一度だけ、それに乗ったことがある。

 内装はごく普通の路線バスと同じ。吊革や手すり、あちこちに置かれた停車ボタン、青色の座席、窓に印字された車椅子のピクトグラム。

 異様なのは、窓の外だ。

 夜よりも鮮やかな、青と緑のあわいのような色の中。銀色をした魚の群れや、黒く大きな魚影が、時折窓を横切った。驚きのあまり動けない私を傍目に、ウミガメがすうっと泳いでいく。

 やがて無機質なアナウンスが流れる。

 ――このバスは、深海行き。深海行き。

 え、という声が喉から漏れ出る。すると、運転席の方から、「おや」と怪訝そうな声がした。

 縦揺れとも横揺れともつかぬ気持ち悪い揺れの中、私は恐る恐る歩を進める。ミラー越しに、ちらりと運転手の顔が見えた。不思議と懐かしい感じがした。

「意識のあるお客さんとは、珍しい」

 一瞬、なんのことかわからなかった。改めて座席に目をやる。座っている――というよりは身を預けている――人々はみな、身じろぎひとつしない。表情は虚ろで、目はどこも見ていない。

「どういうことですか。ここはどこなんですか」

「これは、死者を運ぶバスなのですよ」

 運転手はもうごく穏やかな口調で答えた。

「魂は天にのぼると言われてますけどね、本当は、海の底に沈んでいくんですよ。そして、海底の砂の上に堆積していく。このバスは、魂たちを送り届ける送迎船なんです」

 混乱する私を宥めるように、運転手は続ける。寝物語を聞かせる親のような、静かな声だった。

「では、私は死んでいるのですか?」

 そう口にした瞬間、電流のような怖気と共に思い出した。いつも通り、週に一回の病院に向かうために、歩道をよろよろ踏んでいた。テスト最終日で徹夜をしていて、ろくに周りが見えていなくて、気づくと大きなブレーキ音がした。

 そうか、私は死んでいるのだ。

 そう思うと、目の前の景色の異様さにも合点がいった気がした。

 しかし、運転手は「いや」と答える。

「あなたは他の乗客とは違う。だって、私と話せているでしょう」

「……はい?」

「私と話せるのは、あなたがまだ完全には死んでいないからです。あなたは生死を彷徨っているんですよ」

 絶句する私に、運転手は続ける。

「あなたのような人とは、時々会う。あなたは、停車ボタンを押せば降りられます。つまり、まだ間に合うということだ」

 停車ボタンは車内のいたるところにある。私が今つかまっている手すりにも、黄色の四角いボタンがついている。お降りになる方はこのボタンを押してください。よく見慣れた説明書き。

 ――私はこのボタンを押すべきなのだろうか。

 押さなければ、このまま私の存在は消え、海の底の砂になってしまう。それはすごく恐ろしく、同時に甘美でもあった。

 逡巡する私に、「いきなさい」と声がした。強い語調に驚いたが、私はそれで覚悟を決めた。その声が誰のものなのか、やっとわかったから。

 ――目が覚めると、目の前に母の顔があった。

 母は私の顔を見るなり、驚き、私の手をとり、「よかった」とむせび泣いた。「あんたまで死んじゃうんじゃないかと思った」と、母は子どもみたいにしゃくりあげていた。のちに医師から、ここ何日も意識不明だったと聞かされた。

 私の入院していた病院は、奇しくも通い慣れた場所だった。ここには父がいる。集中治療室から出されて、延命だけの治療を続けて、もう何年になるだろう。父が事故にあって植物状態になったのは、私がまだ小学校に上がる前の頃だった。

 歩けるようになると、私は父の病室まで向かった。ぴくりともしない白いシーツやたくさんの管が怖くて、あまり父を注視することはなかったと、今更思い知る。

 ――ああ、父は、こんな顔だったか。

 酸素マスクをしている父の顔は、あの日バスの中で見た、あの運転手の顔に違いなかった。

 それから何年かして、私は社会人になった。父の「いきなさい」という声は――「行きなさい」にも「生きなさい」にも聞こえるあの声は――耳に残って離れなかった。通勤バスに揺られながら、何もかもが億劫になった時、それでも降車ボタンを押してしまうのは、彼の声に後押しされているからかもしれなかった。「生きる」ということはそういう億劫なものの積み重ねで出来ているのかもしれない。

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深海バス 澄田ゆきこ @lakesnow

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