明るい明日

相川秋葉

第1話

「いい天気ですね〜」

風みたいに意味の無い言葉が、何処へゆくともなく消える。看護師さんが車椅子を押している。からから、からから。車輪は回る。

椅子の上に在る青年は、たじろぎひとつしない。ただ、浅く息を繰り返すだけ。

鶯の鳴く声が、酷く滑稽に響く。春の山は、明るい。何処であろうと。

池の畔で車椅子は止まる。彼女は春の息吹がすっかり池を包んでしまったのを見て、いたく感銘を受けたようだった。

「ほら、かえるが飛び込みましたよ」

弾んだ声色。それとは対照的に、青年は何ら反応を示さないが、彼女は構わないらしい。

それが日課になれば、同じようなものを何度も見れば、人は麻痺してゆくものだ。戦争に行った兵士が戦場における死について何も思わなくなるように、この看護師は、木偶人形のようになった人間に対して麻痺しているのだろう。そうでもしなければ、やっていけないのだから。

そんな酷く冷え込んだ春の陽気の時間は無限に続くかと思われたが、その均衡は突如として破られる。

向こうから若い女が歩いてくる。高校生らしくセーラー服を着た少女を見て、看護師は声を上げる。

「あ、──────」

「おはようございます」

丁寧に頭を下げると、少女は青年と向き合う。

「天音先生、おはようございます」

これまでなんのアクションも起こさなかった青年が、明らかに反応を見せる。

「あ、あー」

必死に声を出そうとする。喋ろうとする。けれども出てくるのは言葉にならない呻きばかり。ここが元の場所なら、嘲笑されて終わりかもしれない。けれど、ここで彼のそんな痴態を笑うものは誰も居ない。悲しい事に。

「あー、うー」「うああ」

「そうですね」

少女はニッコリと笑ってみせる。彼を安心させるために。

「私は最近、絵を描くようになりました」

近況を報告する。最早これも、来る度に行われる定例行事のようになっている。生きるということ。

この定例行事が始まると、看護師は静かにそこを離れる。もう彼女ができることは無いから。

以前こそ話している間に泣き崩れることなどあったけれど、と彼女は独り想う。

最近はそんなことも無いから、まあ独りにしておくべきだろう、などと考えながら。

青年のことは彼女の中で完全に黙殺されていた。きっと青年が本当に木偶人形になったとしても、彼女はさして驚きもしないだろう。

現実とは、そんなものだ。


1時間程してから、やっと2人は病室に帰ってきた。看護師は付ききりという訳でもないので、部屋には誰も居ないはずだったが。

「───恵さん」

「結衣さん、おはようございます。いや、もうお昼でしょうか」

「ああうああ」

青年が声を上げる。

「悠一さん、おはよう」

少女を無視して、女は彼に声を掛ける。

「またやつれたような気がするけれど……」

そんな彼女の独りごちる声はどこへ届くともなく消えていった。

「ねえ、恵さん」

彼女は少女に向き合う。

「お話したいから、少し席を外して貰えないかしら」

「構いませんよ」

少女は微笑みながらそう答えると、静かに扉を閉めて出ていった。

「………ろ」

「ううう」

青年が声を上げる。それは微かに非難の色が混じっているように聞こえた。

「なに」

「……………」

「はっきり言ってよ」

「………」

青年の呼吸が、速くなる。唇が震える。

だん、と机を女が叩く。花瓶の花が揺れ、花びらが散る。

「私が殺そうと思えば、あなたはどうしようも無いのに」

「…………」

くすくすと彼女は笑みを洩らす。その様子は、退廃的としか例えようもないものだつた。

「ねえ。」

「あの子、好き?」

「……ぁ」

「へぇ、そうなんだ。」

また、嘲るように笑う。

「こんなになっても、教師のつもりなんだね」

「………」

もう、いいよ。

「なんか、猫に似てきたね」

「猫はまあ、少なくとも自分で歩けるけど」

「………」

「明日は多分、あの子来れないから。お外、散歩しようね」

「……ぅああ」

そっか。

変わり果てたかつての人間を見ながら、私は道化を演じる他無かった。



「恵さん」

「はい、なんですか?」

少女はきちんとこちらを向き、愛想良く答える。

「お話、しよっか」

「いいですよ」

こいつはいつもそうだ。微笑みながら、相手に悪感情を抱かせないようにとの打算だけで返事をする。反吐が出る。

建物内から出て、しばらく2人並んで歩く。

どちらも何も、話さなかった。

彼女は静かに微笑みながら、すこし跳ねるような調子で歩く。

私は、私は──────

多分、傍から見れば、何気ないように見えただろう。何も知らない人が見れば、だが。

「ねえ」

「はい?」

声を掛けると彼女は足を止める。そこは奇しくも、2時間前まで居た池のほとりだった。

「なんの為に、こんなことしてるの」

「なんの、為に?」

少女は一瞬面食らった様子で繰り返した後、「助けてもらった、恩返しでしょうか」

私の心の中に、パッと焔が跳ね上がったような気がした。

「悲劇のヒロイン気取り?」

「そんな、そんなことは……」

「私があの人の恋人で、私があの人を愛してて、だから支えるのも私。違う?」

「そんなこと、言われても……」

少女は微笑みの仮面が取れ、ただ困惑と悲しみが彼女を満たしていた。

昏い歓びが、心に広がる。

水に墨汁を落としたかのように、糸を引き、心に溶け、混ざり、広がる。

「あなたがしなければならないことは、こんな事じゃ無いはずだけれど」

「違う?貴女は現実逃避しているだけ」

「そもそも好きでも無かった癖に」

「…………」

「黙り込むのね。それもあの人の真似?反吐が出る」

もう少女は決壊寸前のように見えた。俯き、目には涙が溜まっていた。

「貴女のせいよ」

「貴女を庇わなければ、あの人は今でも学校で教鞭を取っていたでしょう」

「そっちの方が救われる人は多かったんじゃないかしら」

過呼吸になっているのが、手に取るように分かった。涙を抑えきれず、雫が地面に零れる。

「……なん、で」

「だって、あなたのせいだもの」

「……めん…さい……」

「あなたが謝って、あの人が治るとでも?」

「…ごめんなさい……」

「訊いてるのよ、謝ってあの人が治るの!?」

「なお、りません」

少女の腹に蹴りを入れる。なんの抵抗をすることも無く、少女はゆっくりと池に落ちた。

「…ごめんなさいごめんなさいごめんなさ」

うるさい。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい」

うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。

なぜお前なのか。何故?なぜ?何故?

池から助け起こした彼女は下着までびしょびしょに濡れていた。放心状態の彼女は、ずっと私に謝りながら、手を引かれるがまま付いてきた。

苛つくので頬を打つ。

「うるさい」

「……ごめんなさい」

また。

「ごめんなさい」

また。

「ごめんなさい……」

濡れているから気が付かなかったが、彼女はずっと泣いていた。こぼれる涙。

「お前のせいで」

「……私のせいです」

こんなのって。

私は過去の自分と、無くそうとしてきた自分と対峙しているような気がした。そしてそれと同時に、この吉川恵という少女が自分の過去の憧れそのもののような、そんな神々しさすら一瞬感じた。

どうして。

どうして、生きるということは、こんなにも難しいのだろう。

どうして。

どうして生きるということは、こんなにも不条理なのだろう。

死のうとしていた自分は五体満足、結構なことに健康で未だに生きている。

生きる意味を与えてくれた彼は今はまともに身体も動かせず、会話すらまともにできない半ば生ける屍と化してしまった。

なぜ?どうして──────


それなら、あなたは?


助けられたあなたは、何を望み、今どうしているの?


「私は、」

「私は、天音先生と一緒に、」

「そう」

みなまで聞くまい。

私は病院を出た。



「天音先生、おはようございます」

「あー」

天音先生は、いつも私には返事してくれる。看護師さんには何を言われても答えないのに。

呼吸が速くなってる時は、少し抱き起こして優しく背中をさすってあげると、落ち着いてくれる。

先生はいつも優しかったし、今も優しい。

だから私も、その優しさに答えないといけない。

先生はうまく喋れなくなってしまったから、意思を汲み取って、してほしいことをしてあげる。

今はもう、看護師さんよりも私のほうがこの人のお世話に関しては長けている。と思う。

ずっとお世話してあげたいけれど、まだ高校も卒業出来てないし……なにより、お母さんやお父さんも心配するから、ちゃんと学校に行き、家にも帰ることにしている。ちょっと不本意だけど。まあお世話のために時々学校は休むけれど、仕方ない。

今日帰ったらお母さんから結衣さんが亡くなったことを聞かされた。

かわいそうに。

恋人が喋れなくなって、動けなくなってしまったから人生に絶望したとしても、誰も責められることじゃないと思う。

私も……私も……………

なんで、こんなに、胸が苦しくなるんだろう?やっぱり、亡くなってしまったせいだろうか。

結衣さんは入水自殺だったらしい。水に自ら入って窒息するなんて、私には到底……………

翌日は土曜日だったから、朝から先生のところに行ってお世話してあげた。

結衣さんが亡くなったことを告げると、無言だったけどとても寂しそうで、悲しそうだった。

だから何も言わず、ぎゅっと抱きしめてあげた。

先生、いつもそばに居てあげるから。

だから、安心してくれていいんだよ。

私は今日も車椅子を押す。

反応はないけど、多分先生は嬉しいと感じてる。

だから、ずっと、このまま、一緒に居ようね、先生。

先生が息をしなくなっても、骨になっても、塵になっても、ずっと一緒に。

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明るい明日 相川秋葉 @daydream_s

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