第6話 弦月の先触れ(1)

 何故、男が自分を害しようとしているのか、解らなかった。


 血走った目には、ありありと殺意が浮かんでいる。

 禿頭の相手は、明らかに自分よりも年上で。

 服装から察するに、身分も地位もある人間だろうのに。

 なぜ、殺そうとする?

 理解が追い付かないまま、逃げて、逃げて、逃げて。

 半開きの扉を見つけて飛び込めば、ベッドが一つおかれただけの、簡素な小部屋だ。

 サイドテーブルの上にこの国の守護神の女神像を見つけて、思わず助けを請いながらベッド脇に逃げ込んだ。

 けれど、悪手だった。

 気が付けば、部屋の片隅に追い詰められている。男が立っている前方以外はすべて壁で、もう逃げ場はない。

 男は僅かに足を引きずり、手にした剣をぶらぶら揺らしながら、じりじりとこちらに近づいてくる。

 はあはあと肩で息をしているが、その頬は血が通っていないみたいに青白い。

 ゆらゆらと近寄ってくる様は、幽鬼のよう。


「わっ、解っ……の? 私を殺……ら、あなたも……よ!」


 必死で投げた言葉は、喉に絡みついて、半分以上音にならなかった。

 だが、ちゃんと伝わったらしい。

 男は口元を捻り上げ、にやりと笑った。

 ――そんなことは百も承知。

 そう、いいたげに。

 唐突に、男が剣を投げ捨てた。

 からん、と床に乾いた音が響く。

 さすがに殺すつもりはなかったのか、と安堵しかけたその刹那――

 男が、ゆらりと両手をこちらに伸ばした。

 金糸の刺繍が施された袖口から突きでているのは、その優美さとはかけ離れた、痩せさらばえた枯れ枝のような十指。

 悲鳴を上げる間もなく、ごつごつと堅く、骨そのもののようにざらついた指が、己の首に巻きついた。そのままぐいっとベッドの上に押し倒される。

「やっ、やめっ」

 仰向けになった腹の上に、男が馬乗りにまたがった。その勢いのまま、体重をかけてぐっと首を絞め上げる。

「うっ、くうっ」

 苦しい。息が吸えない。

 必死で男の手をほどこうと藻掻いたが、男の手はがっちり巻きつき、物凄い力で絞めつける。骸骨が渾身の力をふり絞っているごとく、がりがりの指が首に食い込む。

 苦しい、苦しい、苦しい。

 男の腕を押し戻そうと足掻きつつ、闇雲に腕をふりまわしたそのとき、なにかに手が触れた。

 ひやりと冷たい。これは、女神のブロンズ像――

 遮二無二ブロンズ像の頭を掴み、男に向かって振り下ろした。


 ガン!


 物凄い音。どこかに命中したらしい。

 首を絞めていた枯れ枝の指の力が、不意に緩む。

 ぐらり。

 男の体が傾き、静かにベッドの下に転げ落ちた。

 その瞬間――

 

 ガン!

 

 頭に猛烈な一撃が放たれ、杏奈は己の頭蓋骨が砕けるのを感じた。



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