あなたのお題を物語に

いちご

第1話 深い皺   お題:「初雪」ながるさんより


 嫌に冷えると思ったら白いものがチラチラと窓の外で舞っていた。

 広げていた新聞を畳んで眼鏡を外し、よっこらせと卓袱台に手を着き立ち上がる。その動作の最中、膝が軋む鈍い痛みに顔を顰めた。


 鈍色の空に向かいの家の青い焼き瓦がぽかりと浮いている。

 窓辺に寄る気配に気づいたか。

 のそりと起き上がる影が古臭い柄の入ったすりガラスの向こうに映った。


 透明な部分から覗き込めば向こう側もこちらを見上げている。

 まるで泣きそうな間の抜けた顔には深い皺が刻まれ、短いマズルの下の喉にも皮膚のたるみがある。その顔つきとは裏腹に短い体毛に包まれた体はがっしりとしていてちぐはぐ感が否めない。

 嬉しそうに立ち上がり首を傾げる様子は愛嬌がある。


 こちらに情があるかと聞かれると少々困るのだが。


「見た目はちょっと怖いけど性格はおとなしいし従順だから。ほらお義父さんが亡くなってからお義母さん独り暮らしでしょう?動物がいた方が気も紛れるし」


 そう言ってこの犬を連れてきた嫁はいつもより声を弾ませ早口で喋った。


「元々は闘犬だっていうから防犯対策にはもってこいだと思うんですよね。年寄りの独り暮らしだと詐欺とか押し売りとかあるけど、この見た目ならお義母さんを守ってくれるでしょうし。ね?良いことばかりでしょう?名前はね。コロって言うんですよ。そりゃもう小さい頃はコロコロしててかわいくて」


 名前を呼ばれたその犬―—コロは嫁を見上げて尻尾を振ったが、その注意を引くことも撫でてももらえなかった。

 それでもじっと辛抱強く視線をそらさずに待っている姿は成程従順なのだろう。


「コロは全然吠えないのでご近所に迷惑かけるってこともないから。一緒に暮らしてみて無理そうならまた考えればいいんだし」


 お願いしますねと言って嫁はドッグフードとリードやお気に入りなのだというボールを置いてそそくさと帰って行った。


 それが一週間前の話。


「ひどい飼い主だよ」


 あれからどうしているのかという心配する電話のひとつも寄こさないのだから。


 住人と同じく年季の入ったサッシは簡単には開かない。全体重を使って押し開けると埃っぽい雪の匂いと冷たい風が部屋の中へ入ってくる。


「しかし寒いねぇ」


 指先を擦り合わせて縁側からサンダルを履いて庭に出る。

 なにもない寂れた空間に雪片がひらひらと降りてくる様子は、かつての景色を知るものが見れば驚く者も多いだろう。


 趣味だった庭いじりも一緒になって楽しんでいた旦那がいなくなってからは張り合いが無くなりやらなくなった。


「なんて虚しい」


 目を閉じ暫しの間、色とりどりの季節の花で賑やかだったころの幻に浸る。

 結婚して息子が生まれた秋の頃には12月まで楽しめるウィンターコスモスや目にも愛らしいキンギョソウ、マーガレットに赤子の手のような真っ赤な紅葉。

 冬でも健気に咲くノースポールや頭を垂れる可憐なスノードロップ、色が少なくなる季節に貴重な彩を与えてくれるプリムラに赤い実をつける南天の木。椿は旦那が花がぼとりと落ちるのが可哀そうだというから植えるのを断念したこと。

 ドレスのようなふわりと重なる花びらの美しいラナンキュラス、チューリップは様々な色を咲かせ、澄んだブルーの小さな花を溢れるように見せてくれるネモフィラ、心地よい香りを運んでくれるラベンダー、芝桜が庭を広範囲に彩る匂い立つ春。

 息子が水遊びや花火を楽しむ夏には向日葵や朝顔、縁が縮れた変わった花を咲かせる百日紅、暑い日差しを遮るためのグリーンカーテン。


「なんて」


 寂しい。

 色のない庭。

 独りの日々。


 どこか心地いい感傷に沈んでいた耳にハッハッという荒い息遣いと地を蹴る重い音が飛び込んできて我に返る。

 いったい何がと顔を上げればそこになにやら暴れ狂う犬がいた。


 大きな体を跳ね上げながら走り回り、涎を垂らしつつ口を開けては閉じる。

 気でも狂ったのかと思ったが、鞭のように尻尾を振り回してキュンキュンと鼻を鳴らしているのでどうやら喜んでいるようだが。


 なにをそんなに興奮しているのかとよくよく観察してみれば。

 白い雪を追いかけてパクリパクリと食べている。


「へぇ。童謡は本当だったんだね」


 自分のことだと分かったのか。

 それとも視線に気づいたのか。


 その犬は皺を更に深くしくしゃりと笑ってキュンと鳴いた。


「そいういえば体も大きいし、私よりも皺が多いから勘違いしちゃうけれどお前はまだ一歳になったばかりなんだったか」


 尻尾を振って前足で軽く地面を蹴る。

 筋肉質な身体は身軽とは言えないが、とても力強く生命力に溢れていた。


「初雪、か」


 空を仰げば天からの贈り物のように白く儚い欠片が滲んでは落ちてくる。

 頬に触れるそれは不思議と温かい。


「ひどい嫁だよ。まったく。おちおち死ねないじゃないか」


 まんまと策略に嵌められたようで業腹ではあるが仕方がないだろう。

 ため息をひとつ。


「コロ、おいで」


 呼ぶとピタリと動きを止めてこちらを見つめる。

 前向きな感情でキラキラと輝く瞳で。


「おいで」


 そっと手を伸べると垂れた耳を揺らして弾丸のように飛んでくる熱い命に頬を緩めて。深い皺を刻んだ。

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