シー
春雷
シー
彼女はいつも朝四時に起きて、花束を片手に墓地へ行く。それは長年の彼女の習慣で、出勤前の日課だった。
彼女は柔らかな髪を後ろで束ね、薄く口紅を引いて、スーツを着て、車で会社まで向かう。彼女の車は赤い軽自動車。赤は彼女が好きな色である。
彼女は車の中でだけ煙草を吸う。車以外の場所では吸わない。どうしてなのかは、彼女にも分からないらしい。ただ、どうしても車以外の場所では煙草を吸う気になれないのだと言う。
彼女は今日も煙草を咥えながら、サングラスを掛け、車を走らせる。
「ねえ、殺してほしい人がいるの」
彼女は僕にそう言った。
ここは僕の事務所で、彼女は来客用のソファに座っている。僕が出したコーヒーは口を付けられることなく、段々と温くなっていた。
「誰?」僕は端的に訊く。
「祖父」彼女も端的に答える。
「祖父……、ね。どうして?」
「祖父が私の夫を殺したの」
「ああ、なるほど」
「何がなるほどなの?」
「いや……、特に意味はない。ただの相槌だよ」
「殺せる?」
「さあ……。調査しないと分からない」
「じゃあ、調査をしてくれる?」
「構わないよ。二日か三日で終わると思う」
「分かった。調査が終わったら」と言って、彼女はメモ用紙とボールペンを胸ポケットから取り出し、何かを書いた。「ここに連絡して」
彼女からそのメモを受け取る。そこには電話番号が書かれていた。
「分かった」
僕がそう言うと、彼女は立ち上がって、じゃあね、と言った。僕が頷くと、彼女は出ていった。
結局飲まれなかったコーヒーを流し、僕は煙草に火を点けた。キッチンの窓から見える空は、どんよりとした曇り空。一面灰色で、悪くない景色だった。
彼女は僕の大学時分のガールフレンドだ。四月に付き合って、五月に別れた。話は合わないこともなかったし、特に何か問題があったわけでもなかったけれど、何となくつまらなくなってしまって、別れたのだ。今となっては、その理由は漠然とし過ぎているように思える。でも人が別れる理由なんて、結局は漠然としたものになってしまう。きっと、たぶん、そうだと思う。少なくとも僕はそう思っている。
「さて……」
僕は煙を天井に向かって吐く。
彼女は、十歳以上年上の彼と、大学四年生の時に結婚した。しかし、結婚生活は長くは続かなかった。結婚して二年後に、夫が殺されたのだ。あまりに突然の出来事で、周囲も驚いたらしい。彼女も酷く落ち込んだようだ。僕はその時アメリカにいたから、そういった彼女の事情を知ったのは、比較的最近のことである。
彼女の夫の死因は絞殺で、墓地で殺されたらしい。その夫には死んだ前妻がいて、その前妻の墓参りをしている時に、後ろから首を絞められたのだと言う。現在でも誰が殺したのか、特定できていない。
そう、特定できていないはずなのだが、今日、彼女が突然、僕の事務所を訪れて、言ったのだ。犯人は祖父だ、と。
僕は殺し屋をしているから、彼女の祖父を殺すことは容易い。でも、彼が本当に死に値する人物なのか、それを見極めなければいけない。調査を怠ってはプロではない。僕は猟奇殺人犯でも、通り魔でもない。プロの殺し屋なのだ。善良な市民を殺すほど血に飢えていないし、仕事にも困っていない。だから、しっかりと調査した上でじゃないと、僕は人を殺さない。それが最低限のポリシーなのだ。
煙草を灰皿でもみ消し、僕は背伸びした。仕事をしよう。僕はジャケットを着て、拳銃を入れる。事務所の扉を開けると、昼下がりの街が僕を出迎えた。
僕は朝起きると、玄関まで新聞を取りに行く。煙草に火を点け、コーヒーを淹れ、新聞を読む。特に熱心に読んでいるわけではない。映画欄を見て、死亡広告を見て、占いを読む。新聞を読んでいると、世界は不思議だなと思う。たとえどこかの誰かが不幸に見舞われていても、幸せの絶頂に居ても、映画は上映されるし、誰かは死ぬし、占いは適当なことを言う。きっとそれでいいんだと思う。それが普通なんだろう。
僕が死んでも、世界は回り続ける。僕はそのくらいちっぽけな存在なのだ。
そう……、だからこそ、誰か一人でいいから、僕を大切に想ってくれる人がいたら……。
きっと幸せなんだろうなと思う。
僕は喫茶店にいた。一仕事終え、自分へのご褒美にうまいコーヒーを飲むことにしたのだ。今日の成果は上々だった。情報網を活用し、彼女の祖父について調べるとともに、様々な理由を付けて、彼の友人や知人に彼について訊いて回った。
彼女の祖父は、彼女の結婚に反対していたらしい。
彼女の夫が、画家という特殊な職業(これは彼の知人の言葉)に就いていたことが、主な原因であったらしい。彼女の祖父は彼女の夫を嫌っていた。彼は学校の教師をしていて、堅実な職業に就いていたから、画家のような不安定な仕事は気に食わなかったのかもしれない。それに、彼女の祖父は彼女を溺愛していた。小さい頃から孫を見ていて、それをいきなり訳の分からない男に取られたのだから、怒る気持ちも分からないではない。
しかし、それが殺人の動機になり得るか。
そこが微妙なところである。
彼女の祖父は怒りっぽいところがあって、若い頃には生徒に手を出すこともあったらしい。今ほど体罰が問題視されていなかった時代とは言え、彼の暴力的指導には、眼に余るものがあったと言う。そういう衝動性を持った人間。ならば、殺人くらい起こし得るか……。
僕は酸味の強いコーヒーを飲みながら、煙草を吸った。窓の外では、家路を急ぐ勤め人で溢れていた。
(彼女の祖父は都内のアパートで一人暮らし。仕事しては容易いか……)
検知されない毒物で殺せば、孤独死ということで片付く。
「そうだな……」
僕は刑事ではないし、探偵でもない。彼女の祖父が殺人犯である、と言う確実な証拠がなくとも、仕事をすることはできる。ただ……、もう少し調査してみる必要があるな。
僕は煙草の火を消した。
次の日、そしてその次の日も調査を行い、彼女の祖父について、経歴や人柄は理解できた。不鮮明だった輪郭はくっきりとし、彼の内面まである程度迫った。
「しかし、彼女の夫を殺害したと言う確かな証拠はない……」
僕は事務所で溜息をつく。煙草を吸いながら、ぼーっと書類に目を通す。
「動機はあるし、やりかねない性格でもあるし……」
警察にいる知り合いにも声をかけたが、この事件は目撃者もいないようだし、証拠も挙がっていないと言う。
彼女の祖父は国語教師。推理小説を読んで殺人の勉強をしていたのだろうか。しかし……、素人が警察の眼を欺けるものか。
あるいは……。
僕は違う可能性を検討する。
彼女の祖父が、殺し屋を雇っていた可能性。
殺し屋なら、証拠を残さないはずだ。
墓地で殺したのは……、依頼者、つまり彼女の祖父の意向か。もしくは、殺害した後、墓地に運んだのか。いずれにせよ、墓地に強い愛着が……。
「うん?」
何かが引っかかる。何だろう……。
「もしかして……」
突然、事務所のドアが開く。
彼女だった。
「あ……」
彼女は僕の前まで歩いて来る。
「それで……、引き受けてくれる?」
彼女は言った。
「あ、ああ……。いや、その前に一つ確認したい。どうして君の祖父が、君の夫を殺したのだと思ったんだ?」
「それは……」彼女は僕の眼を見た。「私が祖父に頼んだからよ」
「君が……、君の祖父に……?」
「彼、前の奥さんに首ったけだったの。それが私には面白くなかった。毎日墓参りなんかして……」
「それで、殺したって言うのか……」
「祖父も彼のことが嫌いだったから、喜んで引き受けてくれた。殺し方は……、二人で相談して、あなたにもアドバイスを貰った」
「まさか……、僕と付き合ったのは」
「あなたがバイトで殺し屋をやっていることは知っていたから。当時、あなたと同時に夫ともつき合っていて、彼に亡くなった前妻がいたことは知っていたの。それで、彼をいつか殺すことになるかもしれないって思ったの。その時のために、殺しの技術を教えてもらおうと思った。それで、あなたと付き合ったの」
確かに、僕は彼女に殺しの技術をこっそり教えていた。僕は若くて、習いたての知識を披露したいという思いから、彼女に師匠からの受け売りの知識を教えていたのだ。
「それで……、墓地で殺したのは?」
「そんなに前の奥さんが好きなら、奥さんの墓の前で殺した方が、彼の幸せにつながるだろうと思ったから」
「なるほど……」
「何がなるほどなの?」
「いや……、理解はできないが、納得したから。――あんまり意味はない」
「祖父を殺してくれる?」
「何故、今になって祖父を?」
「だって、よく考えてみれば、彼は殺されるほどのことをしたってわけじゃなかった。そんな彼を、私の愛する夫を、祖父は奪った。それって許されることじゃないと思うの」
こいつ……、まじか。
「そんな身勝手な理由で……」
「身勝手? それ、どういう意味なの? また意味のない言葉?」
「いや……」
僕は冷や汗をかいていた。冷や汗をかくのは人生で初めてだった。
「私は毎朝、彼と彼の元の奥さんが眠る墓地に行くの。花束を持って。だから私は許される」
「許される? 何から?」
「さあ」彼女は首を傾げた。「そうね、例えば――」
そう言って、彼女はスーツのポケットから、拳銃を取り出した。
「――分からず屋を消しても、私は許される」
「おい、ちょっと……」
僕は両手を上げる。
「ねえ、お祖父ちゃんを殺したいのよ。殺してくれるわよね?」
「そ……、それは……」
彼女が撃鉄を起こす。
「待て! 分かった……」
「何が分かったの?」
「殺すよ、君の祖父を」
「ええ」彼女はにっこりと笑った。「当然でしょ」
それから、僕は彼女の祖父を殺した。健康食品の販売員を装って、彼の家に行き、健康食品のサンプルとして手渡した品の中に、毒物を入れたのだ。彼は三日後に亡くなった。彼には持病があったから、それが悪化したのだろうという理解で、彼の死は片づけられた。葬儀が行われ、彼女も当然出席した。
僕は墓地にいた。周囲を森に囲まれた、静かな墓地である。僕は彼女に呼び出されたのだ。報酬をここで渡したいのだと言う。僕はぞっとした。でも報酬を受け取らないわけにはいかないので、彼女の指示に従った。
彼女は祖父の墓前で、手を合わせていた。どういう心境で手を合わせているのだろう。自分が殺したわけではないと、そう思っているのだろうか。
「あの……」僕は彼女に声をかける。
彼女はゆっくりと顔を回し、僕を見る。
「これで、仕事は完了。それで……、報酬は、通常料金で構わないよ」と僕は言った。
「ええ……」
彼女は僕に封筒を手渡した。中に札束が入っている。僕は中身を確認し、ジャケットの内側に入れた。
「じゃあ、僕はこれで……」
立ち去ろうとする僕を、彼女が引き留めた。
「私、結婚するの」
「……え?」
「刑事と結婚するの」
「け、刑事と……?」
「ええ。だから、祖父や夫に関することや、あなたとの関係が知られたらまずいの」
「え? あ、ああ……。大丈夫だよ。僕は君から聞いた話や、僕がした仕事のことは、誰にも口外しない」
「そう、でも……」
彼女は、彼女の夫が眠る墓の隣を指で差して、「あなたの墓を、ここに建てるわ」と言った。
「え?」
彼女はすたすたと歩いて、僕の前まで来た。手には紐を持っていて、それを僕の首に回した。紐が僕の首に少し食い込んで、痛かった。細くて頑丈な紐だ。昔、僕が教えたやり方だ。
「僕を……、殺すの?」
彼女は頷いた。
「僕は……、君が好きだった……」
知っている、と彼女は言った。
「だから……」
その後の言葉がどうしても続かなかった。
彼女はぐっと力を込めて、僕の首を紐で絞めた。息ができない。苦しい。身体中が酸素を求め藻掻く。呼吸を欲し騒ぐ。
でも心は……、彼女に殺されたいと願っていた。
たぶん、彼女は毎朝、僕の墓に来て、花束を供えて、手を合わせる。
それだけで……、きっとそれだけで十分過ぎるほどに。
幸せなんだろう。
彼女の手を汚してしまったことを、申し訳なく思い、でも、同時に、喜ばしくも思っていた。僕は彼女の特別になれたのだ。それだけで僕の人生には意味があった。
「ぐ……、か……」
意識が遠のいていく。
僕は彼女を見た。彼女は泣いていた。
彼女の涙……。
それは、とても綺麗で、残酷で、そして――
僕がずっと求めていたものだった。
彼女はいつも朝四時に起きて、花束を片手に墓地へ行く。それは長年の彼女の習慣で、出勤前の日課だった。
彼女は柔らかな髪を後ろで束ね、薄く口紅を引いて、スーツを着て、車で会社まで向かう。彼女の車は赤い軽自動車。赤は彼女が好きな色である。
彼女は車の中でだけ煙草を吸う。車以外の場所では吸わない。どうしてなのかは、彼女にも分からないらしい。ただ、どうしても車以外の場所では煙草を吸う気になれないのだと言う。
彼女は今日も煙草を咥えながら、サングラスを掛け、車を走らせる。
シー 春雷 @syunrai3333
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