第33話 おかえり

 ヴェネチアングラスを埋め込んだかのような青い双眸が、まっすぐに社長を見つめている。


 突如社内に現れた和服の美丈夫を前に、社長はなにが起きたのかわからない様子で、目を見開いて立ち尽くしていた。


「俺も経営者の端くれなものでね。ひとつ言わせてもらうよ。経営者というものはね、従業員の健康を第一に考えなければならないと思っている。従業員が健康でなければ、いい仕事はできないからだ。だから貴殿のやり方はどうも理解できん。自分のやりたいことを押し切って部下の命を削る行為は、非常に愚かだと俺は思う」


 永徳が吐いたド正論に、その場の空気が凍る。動揺しつつも、誰も言葉を永徳を止めるそぶりは見せず、社員たちは話の行方を見守っていた。


「そんなのは理想論だろう! そんなことで会社が上手くいくなら、誰だってそうしているさ。部下は常に怠けようとするものだ。だから私が発破をかけてやっているんだよ。何処の馬の骨かもわからんあんたに口出しされる覚えはない。第一不法侵入だ! 警察を呼ぶぞ」


 怒り心頭の様子の社長に対し、相変わらず涼しい顔で永徳は笑っている。


「まぁ、うちは土地転がしで実質食っているようなものだからなぁ。そういう意味では本職で利益が上がっているかというと微妙なところだし、理想論というのは否定できないが……。だがしかし」


 突然、ヒヤリとした冷気があたりを包んだ。


 いつもの掴みどころのないヘラヘラした態度は鳴りを顰め、身の毛のよだつような氷の眼差しが、社長を射抜く。


「大魔王山本さんもと五郎左衛門ごろうざえもんが息子、笹野屋永徳の嫁候補への仕打ち、実に許すまじ。人ならざるものの怒り、思い知るがいい」


 地の底から這うような声で永徳がそう言い放った瞬間。執務室のドアが勢いよく開け放たれた。紫や青、金色の煙が、まるで曲技飛行の如く、入り乱れて雪崩れ込んでくる。


 派手な赤い着物に身を包み、長い首を縦横無尽に伸ばしながら入ってくる刹那。鋭い牙を見せつけるように口を開けながら、その場にいる人間を威嚇するマイケル。赤いふんどしでシコを踏みながら入場してきたかと思えば、張り手でオフィスの壁に穴を開けていく宗太郎。小鬼の蒼司と赤司は、黄色い雲に乗って部屋中を飛び回って雄叫びを上げている。


 目の前でいきなり始まった妖怪大行進に、社長はその場で腰を抜かし、口を開けたまま動けずにいる。


 そこへ部屋全体を包み込むように巨大な髑髏どくろが現れたかと思うと、社長の喉元に食らいつこうと一目散に飛び込んできた。


「うわああああ!」


 巨大な髑髏は、恐ろしげにガチャガチャとアゴを鳴らしながら社長の体を通り抜けたかと思うと、霧のように掻き消えた。


 あまりの恐怖に床に崩れ落ちた社長は、どうやら失神してしまったようだ。

 その様子を冷ややかな目で見ていた永徳だったが。佐和子の方に向き直ると、いつもの穏やかな顔に戻り、彼女の両肩に手を置いた。


「葵さん、ごめんね。突然お邪魔して。でもひとつだけ聞かせて欲しい」


「……はい」


「君は、どこで働きたい? なんのために働きたい?」


「私……」


 永徳の優しい眼差しを受けて。佐和子の目には溢れんばかりの涙が溜まっていた。


 –––––今なら言える。自分の言葉で。

 –––––きちんと自分のやりたいことを、自分の意思で選び取れる。


「私、あやかし瓦版編集部で……あやかしの皆さんのための記事を、もっとたくさん書きたいです。皆さんと悩みながら、記事を作るのが好きなんです」


 永徳は、今まで見せたことのないような満面の笑みを浮かべる。


「そうかい」


「戻っても、いいんでしょうか」


「編集部は君がいなくなって、火が消えたようだよ。あれだけ快活だった刹那はすっかり元気がなくなってしまったし、君の意見を求めていたあやかしたちは、相談相手を失って非常に困っていてね。葵さんの連載記事を楽しみにしているという読者からのコメントも届いている。俺としてはなんとか、君に戻ってきてもらえないかなあ、と思っていてね」


 困ったような笑みを浮かべ、永徳は佐和子の前に手を差し出した。


「俺と来てくれるかい?」


 なんとか目に留まっていた涙が、ポロポロと溢れ出し頬を伝っていく。

 初めて自分を必要としてくれた職場に、上司の温かい微笑みに。

 心が満たされて、たまらなくなった。


「はい、喜んで」


「じゃあ、決まりだ」


 永徳がパチン、と指を鳴らすと、時代劇で見るようなかごが現れた。籠を担いでいるのは、小鬼の蒼司と赤司。永徳に促されるまま中に乗ると、外から見た籠の大きさとはずいぶん異なり、籠の中は馬車くらいの広さがあった。


「さあ、少し揺れるからね。しっかり俺に捕まっていなさい」


「え、そんなに揺れるんですか……? う、うわああ」


 腕を掴むのに躊躇しているうちに、激しい揺れに振られて、永徳の胸に飛び込む形になってしまった。


「おや、葵さん。やっぱり俺のところに嫁に来る気になったのかな? 君がそう決めたのなら、ありがたい限りだが」


「これは、不可抗力です……!」


 威勢の良い掛け声と共に駆け出した籠は、小鬼たちのテンションの高さに呼応するように、上下に揺れに揺れて。


 耐えきれなくなった佐和子は永徳に懇願して、鶴見川のほとりになんとか降ろしてもらえることになった。


 火車といい、なぜ、あやかしの乗り物はこうも揺れるのだろうか。


「き、気持ち悪い……よく長い間乗っていられますね。あの籠に……、いや、本当に、あの会社から連れ出していただいたのは、とってもありがたかったんですが……」


 吐き気に耐えかねて、川辺に座り込む佐和子の背を撫でながら、永徳は答える。


「いやあ、あれはね。慣れだよ、慣れ」


「……そういえば、どうしてあのタイミングで会社にいらっしゃったんですか。私はもう、あやかし瓦版の編集部員じゃないのに」


「うーん……もしかしたら、ちょっと気持ち悪いと思われてしまうかもしれないんだけど」


 永徳は、顎に手を当てながら、少し気まずそうにしている。


「俺はね、一度雇い入れたものは皆、自分の家族のように思っているんだよ。だから、新しい仕事が軌道に乗るまで、葵さんのことも見守ろうと思っていたんだ。……椿もまだ捕まってないし、身の安全を守る意味でもね」


「見られてたんですね……」


 佐和子の反応を見て、ごめんね、と眉尻を下げながら、永徳は続ける。


「だがしかし、どんどん良くない方に転がっていくのを見てね。本当は、もうちょっと早く手を出したかったんだが」


 やはり總持寺の境内で見た永徳の姿は幻ではなかったのだ。

 永徳が自分の瞳を指さしていたので、千里眼も使っていたらしい。


「……もしかして、私の意思を尊重してくれようとしていたんですか?」


「まあね。葵さんはやはり人間だから。あやかしが君の決めたことに横槍を入れて良いのか迷ったんだ。だけど君が『大丈夫じゃない』と言ったのを聞いたから、やはりもうここは出ていくべきかな、と思ってね。迷惑ではなかったかい」


「とんでもない。私も本当は……ずっとずっと、戻りたかったんです。でも、世間体とか、人間としてどうするべきなのかとか、ぐるぐる考えてて。……でも、もう覚悟は決まりました」


 佐和子は立ち上がり、永徳の顔を見上げた。まだふらふらはしているが、降りた直後と比べれば、吐き気はだいぶマシになってきている。


「また、働かせていただいても……いいでしょうか」


 柔らかな風が、艶のある黒髪を靡かせた。佐和子が懇願するように永徳の目を見つめていると、彼は両眉を上げる。


「だからさっきから、戻ってきてくれと何度もお願いしているじゃないか」


 そう言って、藤の花が綻んだかのような笑顔を見せる。

 優しくて暖かいその笑顔を前に、佐和子も自然と頬を緩ませた。



 ⌘



「まったく! 辞めたと思ったらすーぐ戻ってきて。なんだったのよ!」


「刹那さん、葵さんを責めないであげてください。元はと言えば、自分が血の匂いに負けて、葵さんに襲い掛かっちゃったのがきっかけではありますし」


「マイケルさんのせいじゃないですよ。私がうだうだ悩んでたのがいけないんです」


「まあまあ、いいじゃないか。結果として戻ってきたんだから。今夜はとにかく飲もう。飲んですべてを水に流そうじゃないか」


 永徳はそう言って、刹那とマイケル、佐和子のコップに日本酒を注いだ。


 編集部に戻って早々、まだ真昼間だというのに、永徳は縁側に面した広間のちゃぶ台に豪勢な料理を広げ、宴会を始めた。昼間から飲む酒は格別だとかなんだとか言いながら、編集長自らあやかしたちに酒を盛って回っている。


「たのもー! 笹野屋殿はおるか!」


 玄関からの地鳴りのような叫び声が聞こえ、佐和子は目を剥いた。

 永徳の方を見ると、彼は眉尻を下げて苦笑いをしている。


「ああ、うるさいのが来たね。まったく、今回は扉が見えているんだから、インターホンを押してくれればいいのに。視界に入ってないのかね」


 やれやれと言いながら玄関に向かった永徳が連れてきたのは、大きな木箱を抱えた黒羽だった。


「佐和子が戻った記念に酒盛りをするとの連絡を、笹野屋殿からいただいたのでな。酒を持って参った」


「わあ、わざわざありがとうございます」


 佐和子が恐縮して例を言うと、黒羽は面を取って笑顔を見せた。

 頬が紅潮しているところを見ると、照れているようだ。


「この間も、勝手にやってきて、佐和子佐和子ってうるさかったからさ。呼んでやったんだよ」


 永徳はそう言ったあと、「タダ酒の調達担当としてね」とこっそり佐和子に耳打ちした。


 黒羽が酒の輪に加わったあと、そのうち井川や米村までやってきた。

 宴会の始まりは昼だったはずなのに、いつの間にか夜は更けて。それでもどんちゃん騒ぎはおさまらず。


 残業続きで疲れ切っていた佐和子は、笑い転げているうちに眠りについていた。


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