第32話 私の本当の居場所
總持寺の大島桜には、青々とした緑が茂っていた。
季節が移り変わるのは早い。
泣きながら桜を見上げていたのが、まだ昨日のように思える。
あの時佐和子は、自分の価値を認めてもらえなかったことが悔しくて泣いていた。
望んでいたように、今価値を認められて、仕事をさせてもらえている。
憧れていた満開の桜にまでは及ばないが、求めていたものは掴んだはずだ。
だけどなにか違う。
––––私はどうしてこんなに、満たされないんだろう。
佐和子は總持寺の境内で、ひとり立ち尽くしていた。
あれから急に忙しくなった。上司は容赦無く仕事を振るようになったし、インフルエンサーの案件は、綾小路社長の思いつきで始まったものらしく、企画内容は具体的にはなにも固まっていなかった。
山吹が作っていた資料もあったが、まったく使い物にならない内容で。
社長にせっつかれながら一から大急ぎで企画書を作らねばならず、ほぼ毎日終電帰り。
プロジェクト自体は面白いと思う。永徳からの指導のおかげもあって、以前の会社の時のように、手順もわからずに混乱しているという状況にはない。
「大丈夫」ではないが、なんとか頑張ればやり遂げられそうな気もする。
相変わらず山吹からの返答はない。既読さえつかなくなったので、おそらくブロックされているのだろう。
––––初めから押し付けるつもりで紹介したのかな……。
そもそも元から仲が良かったわけではない。頼まれると断れない性格である佐和子なら、押し付けやすいと思ったのかもしれない。
入社してから気づいたことだが、綾小路不動産はワンマン経営で、社長の言うことは絶対。プロジェクトを降りたいといった山吹に、社長は「辞めるなら代わりの人材を見つけてからだ」と言いつけたようだ。
法律上は代わりなど見つけなくても退職できるはずだが、その辺り彼は律儀だったのかもしれない。
今日は上着がいらない程に暖かかった。佐和子は境内のベンチに腰掛け、ぼんやりと思考を巡らせる。
——あやかし瓦版のみんなは、元気かな。
辞めると決めた翌日、根付はポストに返してしまった。
あれから何度か三ツ池公園の近くを散歩してみたが、永徳はもちろん、他の編集部員に会うことはなかったし、やはり屋敷の姿は見ることができなくなっている。
ぼんやりと行き交う人々を見つめていると、何者かに視線を向けられているのに佐和子は気がついた。
「え……、笹野屋さん?」
寺の建物の影に、癖毛の黒髪、紺色の羽織を着た青眼の男性が見えたのだ。
大慌てで立ち上がり、地面を蹴る。
通行人にぶつかりそうになりながら、人をかき分け、全速力でその場に向かう。しかし辿り着く頃には、笹野屋永徳らしき人影は、影も形もなくなっていた。
「見間違い……か……」
途端に胸に懐かしさが込み上げる。
ぶっきらぼうだが根は優しい刹那。
口は悪いが人一倍仕事に情熱を燃やす宗太郎。
しょっちゅう佐和子をからかっていた小鬼の双子。
良き相談相手だったマイケル。
そして、いつも優しく見守ってくれていた永徳。
みんなでああでもない、こうでもないと言いながら、記事の企画を考えるのが楽しかった。なにより、現代の生活に馴染めないあやかしたちのために、有益な情報を提供するという仕事にやりがいを感じていた。
「そっか」
––––私が本当に求めていたものは、人に認めてもらう功績を上げることではなかったのかもしれない。
衆目に恥じない、レールを堂々と歩ける人間になることが、ゴールではなかったのだ。
誰かの幸せのために、仲間と協力しながら働くこと。それが佐和子が仕事をする上での「やりがい」であり「醍醐味」だったのだと、今更ながら気づく。
––––あやかしだからとか、人間だからとか。世間の物差しで進む道を選ぶべきじゃなかった。自分の正直な気持ちのままに、選び取ればよかったのに。
「やっと、気づけたのになあ」
気づいたところで、もう、戻れない。
––––私は人間の世界に、戻ることを選んでしまったんだから。
⌘
「ああ……もう朝か……」
白んだ空を見て、絶望を感じる。
日付を跨いで家に帰り、家には風呂と寝に帰るだけの生活が続いていた。
あれだけ「自分の限界を超えない範囲で仕事をすること」と口酸っぱく永徳に言われていたが。
相手が有無を言わさず無茶を要求する上、それが会社の文化になってしまっているなら、自分だけがそうすることも叶わない。少なくとも佐和子には、そんな環境でうまく立ち回れるほどの器用さはなかった。
ビルの自動扉を通過し、エレベーターで四階へ登る。階数を示すランプが一階登るたび、まるで重力がましていくかのように徐々に体が重くなっていく。
デスクに着く頃には、やっとやっとで体勢を保っていられるくらいになっていた。
今日は朝から、社長による挨拶があるらしい。席についてすぐ、秘書を伴って上機嫌の社長がやってきた。
「よし、みんな揃っているな。今日は重大発表があってな! きっとみんな驚くぞ。やっぱり私は天才だ」
不穏な空気を感じ、社員はその場で皆凍りついた。社長がこういう話の始め方をする時、ろくなことがないというのを知っているのだ。
「なんと! 我が地元のサッカーチーム『ソラリス』の大株主になれることになったんだ。すごいだろう? チームと連携してのマーケティング活動も今後行なっていく予定だ。葵くん、これに関してはね、君に任せようと思っている、やってくれるね?」
––––……え? そんな話、聞いてない。
慌てて立ち上がり、佐和子は社長に向かって抗議の表情をあらわにする。
「あの、社長。お話は大変嬉しいのですが。すでに抱えている業務が大量にあり、毎日夜中まで残業をしている状態です。どう考えても、さらに新しい活動をやるのは……」
ここで「大丈夫」なんて言ったら、過労で死んでしまう。
佐和子は永徳が自分に向けて言ってくれた言葉を反芻していた。
「大丈夫、という言葉に『自分が無理をすれば』という枕詞をつけてはいけないよ。大丈夫と言っていいのは、自分が元気な状態で、余裕を持ってやり切れるときだけなんだ」
社歴の浅い新人に、まさか正面切って反抗されるとは思っていなかったのだろう。鳩が豆鉄砲をくらったような表情を浮かべたあと、青筋を立てて社長は怒り始めた。
「なんだと? やらないって言うのか。素晴らしいチャンスなんだぞ。だいたい、君は仕事が遅いんだよ。もっと効率良くやれば新規事業の一つや二つ、十分対応できる余裕があるはずだ。努力が足りないんだよ、努力が」
周りにいる社員は、皆、目を伏せていた。
巻き込まれたくない、という表情が見てとれる。動画施策を「私に任せればいいのに」と言っていた山田でさえ、目を逸らしていた。
それだけこの仕事が、先の見えない、社内の誰にも知見がない仕事であることを示している。
「ほら、大丈夫って言え。やれるだろ、え? せっかく私がとってきてやった仕事だぞ?」
「……大丈夫じゃありません」
「ああ? 声が小さくて聞こえなかったな、もうちょっとはっきり言いなさい」
「大丈夫じゃありません!」
「よく言った。葵さん」
風鈴のような涼やかな声が、佐和子の背後から聞こえた。
聞き慣れたその声の方を振り返ると––––紺色の羽織に黒地の着物を着た、あやかし瓦版オンラインの編集長、笹野屋永徳が立っていた。
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