第24話 トラウマ
あれだけ堂々と咲き誇っていた公園の桜もすっかり若芽に変わり、地面を白や薄桃色に染めていた花びらは、泥に
昨日までの疲れが溜まっているのか、寝覚めはあまりよくない。肩はガチガチに凝っていて背中も痛かった。三ツ池公園の緑を横目に、佐和子は笹野屋邸へ続く坂道を登りながら、両肩をぐるぐると回す。
門の内側に入り、玄関の方へ視線を向けて、佐和子は動きを止めた。
家政婦の米村が入口でうずくまっていたのだ。
「だ、大丈夫ですか……?!」
慌てて駆け寄り、声をかけた佐和子に向けて顔をあげ、米村は弱々しく挨拶を返す。
「ああ、葵さん。おはようございます」
「どうしたんですか、どこか苦しいんですか?」
「いやいや、大丈夫ですよ。歳なもので、重いものを持ったら腰が痛くなってしまって」
どうやら玄関横の物置で紙ごみをまとめていたところ。縛り終えた雑誌を移動させようとして、腰を痛めてしまったらしい。
「向こうで少し休んだ方がいいですよ。もしぎっくり腰とかだったら大変ですし」
佐和子は米村に手を貸し、縁側へと誘導すると、米村は息を吐きながら、ゆっくりと縁側に腰掛けた。相当痛いようだ。
「しばらく休んでいれば大丈夫ですから」
そう言って米村は佐和子に職場に行くように言うのだが、この状態の米村を放っていけるほど佐和子も薄情ではない。
「出勤時間まではまだ時間があるので。あまりにひどいようなら、病院に付き添いますから。仕事も代わりにやるので、まだ終わっていないものがあれば遠慮なく言ってください」
「葵さんはお優しいですねえ。私なんて一使用人に過ぎませんのに。……若様もよく、こうして私を気遣ってくださいます。私が疲れていたりすると、『俺が代わりにやるから、米村は休んでいて』なんておっしゃって」
そう微笑みを漏らす米村を見ながら、永徳なら言いそうだな、と佐和子は思った。
「笹野屋さんて、とっても面倒見がいいというか。ちょっと過保護なお母さん、みたいなところがありますよね」
「……若様はね。特に人間に対しては、そういう傾向があるんです」
米村の言葉に引っ掛かりを覚え、佐和子は咄嗟に問う。
「人間に対しては……って、どういうことですか?」
脳裏には、昨日の永徳の悲しげな眼差しがよぎっていた。あれは単に佐和子を心配しているというには、少し行きすぎた感情だったように思う。
米村は佐和子の顔を見て、庭園の方を見て、自分が話していいものかどうか、迷っている様子だった。
「笹野屋さん、昔人間の社会で、一般企業に勤めてたって話を聞いたことがあるんですけど。もしかしてその時に何かあったんですか?」
佐和子がそう問うと、米村は観念したように笑い、口を開く。
「……若様は、心に傷を抱えておいでなんです。奥様が亡くなられた今、半妖である若様のお心を本当の意味で理解してくださる方はおりません。私は人間ですが、この通り年もいっていますし、そう長く勤めることもできないでしょう。お嫁様になられる葵さんには、お話しておいた方が良いのかもしれません」
そう言うと米村は、ポツリポツリと、庭園の緑を見つめながら話し始めた。
かつての笹野屋家の屋敷は、昼夜問わずさまざまなあやかしが闊歩する、まるで平安時代の妖怪絵巻のような有様で。使用人兼笹野屋富士子の話し相手として雇われた米村は、初めて屋敷にやってきた際腰を抜かしてしまい、しばらく立ち上がることができなかったという。
米村が勤め始めた当時、まだ大魔王
富士子はあやかしに対する偏見などはなかったものの、息子には人間としての人生を歩んでほしいと強く願っており、永徳は人間の世界で義務教育を終え、大学までを過ごしたという。
「本当に若様は利発なお子さんで。見目もあの通りですから。近所では評判の美少年でしたよ。今は外界との関わりを絶っていますが、当時は学校との兼ね合いもあって、ご近所との交流もしていましたから」
当時を懐かしむように、米村はそう言った。
頭のよかった彼は、全国でもトップクラスの大学の経済学部を出て、広告代理店へと就職を決めた。永徳が就職をしたのは一九八〇年代後半、バブル経済の真っ只中だった。
『永徳、また朝帰り? 体は大丈夫なの』
『うん、お風呂だけ入りに帰ってきた。ちょっと今立て込んでいてね。期末だし』
そのころの笹野屋親子の会話は、だいたいがこのやりとりだったそうだ。
「二十四時間働けますか」なんていうキャッチフレーズが世を闊歩し、長時間労働は当たり前、働き方改革なんて「は」の字も存在しなかった世界で、永徳は働いていた。
『いくら体が丈夫だからって。ほとんど家に帰ってこないなんて』
富士子はそう言って、出かけていく息子の背を見守っていたという。
半妖として生まれた永徳だったが、二十代の当時は、瞳が青いこと以外目立ったあやかしとしての特質は現れなかった。そのため人間として暮らしていくことに特段苦労はなかったようだ。
しかし会社に勤め始めてから一年が経過したある日。感情がごっそり抜け落ちたような顔で彼は帰ってきた。その日以来、彼は屋敷の外へ出なくなってしまったのだという。
「はじめ、奥様も私も、若様があまりの仕事の大変さに心を病んでしまわれたのかと思ったのです。でも、どうやらそうではなかったようで」
「……なにか、あったんでしょうか」
「若様はなにもおっしゃいませんでした。しかし、会社に行かなくなってからでしょうか。奥様や私の健康状態を、異様に気にするようになられて。今もお優しい方ではありますが、あの頃の心配のされ方は、なんというか……少し、異常な感じでございました」
虚な顔をした永徳は、日に三回、富士子と米村の体調を確認したという。少しでもいつもと違うところがあれば、病院に行けと言い続け、病院にかかる際には必ずついてきたという。
「身近な人間が死んでしまうことを、極度に恐れていたようでした。人間はふとしたきっかけで、すぐに消えてしまう儚い存在だと。それが恐ろしくてたまらない、といった感じですかね。今は昔ほどあからさまではありませんが、心の根底には同じ『恐れ』があるように感じます」
佐和子はそう言われて、昨日の永徳の悲しげな瞳を思い浮かべていた。
「……それと。今は年一回になっていますが。引きこもっていらっしゃる間も、毎月決まった日に出かけられていました。一度こっそりついて行ったことがあるのですが、誰かのお墓参りをされていらっしゃるようなんです。どういった関係の方か存じ上げないのですが、その方が亡くなられたことがきっかけで、『人間に対して過保護』になられたのではと」
佐和子は池の水紋に視線を定めたまま、米村の話してくれたことについて、自分なりに考えを巡らせていた。
猛烈に働いていた永徳が、急に仕事に行かなくなったきっかけ。
定期的に訪れる、誰かの墓。
––––いつも変わらぬ笑顔で、飄々として毎日を楽しく過ごしているように見えるけど。あの人は穏やかな仮面の裏に、なにを隠しているのだろう。
結局永徳の指示により、大事をとって、米村は病院に行かされることになった。病院まで見送ると、待合室には彼女の息子だという男性が来ていた。どうやらいつの間にか永徳が呼んでいたらしい。
編集室へ戻った佐和子は、「ゆっくりおいでと言ったのに」と、永徳に小言をもらいつつも、言われた通り鬼灯堂以外の仕事を片付けていった。
なんとか夕方までにすべてを終え、一息ついたところ。
なぜか外出の支度をした永徳に声をかけられた。
「葵さん、外へ出るよ」
「えっ、でも今日の夕方に企画書を仕上げるはずじゃあ」
「そんな短時間でいい企画なんて仕上げられないよ。だから少し期限を引き延ばしてもらった。来週月曜、今回の企画について提案をする時間を椿からもらってある。『春メイク』に間に合わせるにはどう考えてもスケジュール的に難しい。だからそれを超える『より良い企画案』を出すっていう約束をした」
「えっ、それで先方は納得したんですか?」
「やはり元々、余り予算でのやっつけ仕事だったようだよ。強めに突っついたら白状した。それで良いってさ」
「……そう、ですか……」
「落ち込むことはない。向こうが悪いし、葵さんは葵さんで全力を尽くしたんだ。今回の企画案を作ってみて、学べたこともあるだろう」
「……でも、それでどうして、外に出ることになるんですか?」
永徳は青い双眸を細め、無邪気に笑う。
「俺が葵さんと外へ出たいと思ったからさ」
––––ああ、きっとまたなにかヒントをくれようとしているんだな。
この展開にはもう、佐和子も慣れてきていた。きっと「どこへ」とか「どうして」とか聞いたとしても、答えてはもらえない。
「わかりました、行きます」
「おや、今日はどうして、なんのために、とは聞いてこないんだね」
クックと口元を着物の袖でおさえながら笑う永徳の顔を、じっと眺める。今朝の米村の話が、佐和子の頭を掠めていた。
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