第17話 焦る佐和子と永徳の想い

 山吹の晩酌に付き合った日の翌朝。お茶を淹れようと席を立ち、何気なくマイケルの机に視線を向けて、佐和子は声を上げた。


「うわあ……すごい書類の山ですね、マイケルさんの机」


「ああ、これ。読んでみます?」


「なんの書類なんですか、これ」


「プレスリリースです」


 マイケルは自分のデスクに置かれた束を半分手に取り、佐和子に渡してくれる。びっちりと文字と絵と図が詰まったような書類を見て、佐和子は首を傾げる。


「あの、このプレスリリースって書類、はじめて見るんですが……。これってなんですか」


 そう尋ねたとき、ちょうど新たなプレスリリースの束を、小鬼の蒼司が抱えてやってきた。


「マイケル! また届いてたから、これも頼むぞ」


「ありがとうございます、蒼司さん。もらいますね」


 蒼司はチラリと佐和子の方を見ながら、片眉を上げた。


「なんだ、人間もやろうってのか。なかなか難しいぞ。慣れねえと」


 小鬼の双子とは、祭りの準備を境に少しずつ会話ができるようになってきた。

 席に戻っていく蒼司の姿を目で追っていると、蒼司の双子の兄である赤司が郵便物を開けているのが目に入った。あれもプレスリリースらしい。


「プレスリリースっていうのは、企業が報道機関向けに送ってくる発表資料のことなんです。報道機関はそれを受け取って、中身が取り上げる価値のあるニュースだと判断すれば、リリースの情報をもとに記事を起こします。話題によっては、直接取材に出向くこともあるんですよ」


 そう言いながら、マイケルは蒼司の持ってきた束を、そのまま佐和子に渡した。気づけば机の上には辞書の厚みほどのプレスリリースの束が積みあがっている。


「まず、そんなにたくさんあやかしの世界にも会社があるってことにびっくりです」


「ありますよ。人間の世界に入り込んでいるあやかしの方が少ないですから。あやかしはあやかしで、ちゃんと経済があるんです。もちろん、人間の世界ほどに大規模ではないですが」


 佐和子は感心して頷いた。改めて自分はあやかしの世界について知らないことが多いのだと認識する。


「メール、郵便、ファックス合わせて毎日百通はきますから。どんどん捌かないといけません。だから最初の選別作業は、自分みたいな下っ端がやって、そこからさらに編集部員の方が選別されて、実際の記事にする作業をされています」


「……なるほど」


 マイケルの手元の電話が鳴る。彼は佐和子との会話を中断し、受話器をとった。


 佐和子は、山のような書類の中から何枚か手に取り、読んでみる。


「新作スイーツ……これはお菓子の新製品の資料かぁ。こっちは、着物の在庫処分セール……これが百通か……」


 読みながらぶつぶつ言っているうち、いつの間にかマイケルの電話は終わっていた。


「ずいぶん切るのが早いですね。なんの電話だったんですか?」


「今日リリースを送ってきた会社の広報からの電話で。『届いてますか』って到着確認の電話でした。こういう電話、多いんですよ」


「へええ」


「すみません、話の途中でしたね。選別する際の基準ですが、『あやかし瓦版の大半の読者』にとって価値のある情報かどうかです」


 つまりそれは、あやかし界のトレンドや、あやかし瓦版の読者データを加味しつつ、記事にしたら閲覧数が高くなりそうな情報のみを選び取るということだ。


「なかなか難しいですね……」


「特に葵さんは人間ですからね。判断がつきづらいかもしれません」


「いえ、他の記事を書く上での参考にもなりそうですし。マイケルさんのご迷惑にならなければ、私もやってみたいです」


「そうですか」


 佐和子の申し出にニコリと笑って応えたマイケルは、小鬼の双子に許可をとりにいった。彼はインターンなので、仕事の采配については常に社員の許可がいるようだ。


「葵さんにも仕事を渡していいそうです。まずは、その束からいくつか選んでみていただけますか。できたら蒼司さんと赤司さん、どちらかに見てもらってください。二人がこれに関しては責任者なので」


「……はい!」


 佐和子は書類の束を手に取り、一枚一枚内容を確認し始めた。


「佐和子、リリースもいいけど。レジャースポット紹介の記事、次回分考えてよ。あんまり間があいてもよくないし」


 隣の席にいる刹那に小突かれて、佐和子は姿勢を正した。


「うん、今日明日には出すから」


「……なにがあったのか知らないけど、やたら張り切ってるわねえ。あんまりあっちこっち手を出しすぎると、首が回らなくなるわよ」


 刹那は首を伸ばし、佐和子の様子を観察しながら呟く。しかし刹那の呟きは、仕事に集中し始めた佐和子の耳には届いていなかった。



 ⌘ 



 夜の帷が降り、日本庭園の石行燈には朧げな光が宿る。屋敷を守る主のごとく、両手を広げたような格好で枝を伸ばした大島桜は葉桜になり、庭園のあちらこちらに花びらの絨毯を作っていた。


「だいぶ遅くなってしまったなあ」


 そう呟きながら、永徳は藍色の羽織を脱いで衣紋掛けを手に取った。玄関で下駄を脱ぎ、長い廊下をこえたところで、奥の襖から光が漏れているのに気がつく。


 腕時計の針は午後九時を指している。あやかしの面々が、この時間まで残業をすることはほとんどない。


 イベントごとの多い繁忙期や、自分が力を入れている特集記事なんかを抱えている時は遅くまで残っていることもあるが、今の時期は比較的落ち着いているので、遅くとも八時には全員いなくなっている。


「……考えられるのはひとり、だな」


 永徳は襖をそっと開いた。隙間から覗き込むと、ダークグレーの厚手のカーディガンを羽織った、華奢な背中が見える。


 長い両腕を組み、永徳はため息をつく。襖に頭をもたれかけ、静まり返った編集室内に響く乾いたキーボードの音に、耳を傾けた。


 ––––まあ、頑張ることは悪いことじゃないからね。


 人形のように表情の乏しかった佐和子だったが、仕事をこなしていくうち、少しずつだが笑顔を見せるようになり、目にも光が宿るようになってきた。今はあやかし瓦版での仕事にやりがいを見出し始めたタイミングなのだろう。


 ––––もうしばらくは、見守っておくか。


 彼女の努力が行き過ぎなければいいな、と密かに願いつつ、永徳は屋敷の台所へと向かった。


 やかんに蛇口から水を入れ、コンロの火にかける。茶棚から柚子蜜の入った瓶を取り出し、茶器の準備をしたところで、ふと、眉間に皺を寄せてお茶を運んでくる母の面影が頭をよぎった。


「あなたは無理をしすぎよ。いくら体が丈夫だからって」


 受験勉強をしていた時、仕事を終えて遅くに帰ってきた時。疲れているであろう息子に、そう言いながら母は柚子茶を淹れてくれた。


 残念ながらと言っていいのかわからないが、父親の血のせいか、「疲れ」という概念を実感することもなく、この甘い飲み物のありがたみの半分も享受することはできなかったのだが。それでも母の淹れてくれたお茶は、心の内側をいつも温めてくれた。


 この柚子茶は富士子のために、山本五郎左衛門が疲労回復のまじないを込めたものだった。あやかしと違って体が脆く、疲れやすい人間のために。


「もうすぐ、四十九日か」


 やかんが湯気を吹く。火を止めて、永徳は柚子蜜をスプーン二杯湯呑みに入れた。お湯を注ぐと、爽やかな果実の香りがあたりに広がる。


 過酷な環境に負傷した雛鳥は、暖かい毛布に包まれて傷を癒し、今は飛ぶ練習を始める段階に差し掛かっている。


 旅立ちへの道筋が見えてきたことで、少しだけ寂しいと思ってしまうのは、ひさびさに関わった人間だからなのか。それともなにか別の感情が動いているのか。


 永徳は襖の前に柚子茶を乗せた盆を置くと、ノックをしてそそくさと立ち去った。

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